アパーム・ナパートへ祝福を

梓馬みやこ

1.灰色の国

 天竺。西方浄土。

 その土地には様々な呼ばれ方がある。いずれにせよ私たちの世界を表すものではない。

 人間界では今は信仰、というより神話として永く名を残すことになっているらしい私たちの世界は「インド神話」と呼ばれている。


 ブラフマー様を最高神として、長い間その土地を見守って来た。多くが自然を象徴する私たち神々は、静かに、その世界から人間界を見守って来た。


 西暦、と呼ばれるその暦で、その暦の元となった宗教の神の使いが地上に現れたのは突如。

 天使たちは私たちの依り代である自然こそ破壊はしなかったけれど、今でも私たちに手を合わせてくれる人々も消そうとした。

 老人、子ども、男も女も公平に。


 彼らはその殺戮が浄化であるという。


「アパーム、お前は日本へ行け。ここから東の小さな島国……そこに我らのような『異教』の者たちが集まり始めている」

「私もその話は聞き及んでいます。けれどこの地を離れることは……」

「そこにいればそなたは永らえるだろう。その地から、我らに必要な力を、知恵を送ってほしい」


 水の神である私には戦う力は乏しい。ブラフマー様は悪神アーリマンを退けるほどの力を持っていたけれど、それでも世界中に「根」を張った天使たちの猛攻を退けられるか……近隣の小さな神々の世界はもう潰えてしまったところもあるという。


「人がいなくなれば、いずれ我らの力も失われる。なんとしても打破できる方法を探さねば……そのためには、この地だけではだめなのだ」

「その東の小国ではすでに安全も確保されつつあると聞いています。私一人でそのような場所へ行けと?」

「そなただけではない。アグニにも行ってもらう」

「!」


 アグニは炎の神。それこそ大きな戦力になる荒ぶる力を持っている。なのに、この戦いから外れて平穏となる地へ行けという。

 私には、その意図がわからなかった。


「そなたは水の女神。人にとって何より必要な恵みをもたらすことが出来る存在だ。真っ先に潰えることはならん」


 だからできるだけ危険のない場所へ行けという。その命令を受諾することが、どれほど辛いことか。いずれこの地の誰もが潰えたなら、我が身も同じことであろうのに……


 けれど、アグニはそれに従った。

 戦う力のあるアグニが従うのは、私よりもつらいことだと思う。だから私も従うほかはなかった。



 その国に、宗教というものは存在しないのだという。

 そんな国に、自分たちが行ってどうなるというのか。


 その日、私はアグニに手を引かれるまま、自らの生まれ、守り、慈しんできた大地を離れた。




 *  *  *




 その国に、宗教は存在していなかった。

 私の目に飛び込んできたのは文明の発達した、あるいはその破壊痕。あるいは復旧途中の真新しい建物。

 それらがあり得ない形で混沌と混在している、そんな様だった。


 歪(いびつ)。

 小さいとはいえ旧き信仰を捨てた文明国家は、私の目にはすこぶる不調和に見えた。


「インド神の方ですね。この国には『避難』でしょうか。それとも『駐在』として?」


 人間と直接話す、というのも驚きだったけれどその内容にはもっと驚いた。

 始めに説明は受けていたけれど、なんという事務的な口調。神々の世界ではありえない雰囲気に絶句していると「彼」は微笑んだ。


「あぁ、申し訳ありません。決して機械的に対応しようというわけではないのです。すでにお聞きかと存じますが、現在この国では各地の神魔の方が協定を組んで復興を計っています。目的は各々ですが、日本は古来から多くの神魔の英気を養われる場として利用されていたようで……母国で傷ついた体を休める方、この国に大使として常駐して本国とのやり取りをされる方、様々なのです」


 そこまで一息で言ってから、彼は一度言葉を切った。

 続ける。


「そこで神魔の方にとっても過ごしやすくして頂くように、色々と整備を図っているところなのですよ。もちろん、過去に例がないことですからお互いに暗中模索ではありますが」


 そう言ってからガラスの器に入った暖かいお茶を勧めてくれた。

 とても口にする気にはならなかったけれど、アグニにも勧められて口にする。


 ふんわりと芳る花の香。それは異国であるこの国のものではない気がする。それに清浄な水。


「お気に召しましたか?」


 また、彼が微笑んだ。不思議と最初の印象とは違って見える。とてもやさしい微笑みだった。


「花はインドのものです。水は……アパーム様は水の女神とお聞きしましたのでできるだけ清らかな天然の湧水を用いてみました。……アグニ様にはどうしてよいのかわからないので、同じものですが」

「とても美味しい。人心地つけたかのようだ。痛み入る」


 この国は水に恵まれているのだと彼は言った。もっとも、人が飲むための水は人なりに浄化しなければならず、街中の川は汚染も進んでしまっているのだと。

 新しい「びる」と灰色の「びる」。

 あの灰色が、まだ人々の心の多くを占めてもいるのだと。


「この国に至る理由は様々です。誰もそれを強制しませんし、我々は手を取り合って難局を乗り越えられれば良いと思っています」


 清明せいめい、と名乗った彼はそうしてもう一度聞いてきた。


「お二人は、どのような目的でこの国に?」

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