波間に揺れる恋心 ⑥



 アムピトリーテは人気のない静かな浜辺に腰を下ろし、深々と溜息をついた。


 涼しい潮風の通る木陰に疲れた体を横たえると、ようやく人心地ついてまた溜息がこぼれる。

 小さな浜辺の周囲はイルカたちが取り巻いていて、不届き者が近づけばすぐわかるよう見張っているから安心だ。


 と、思っていたのだが、そのイルカたちがやにわにざわめき立ち、身を寄せ合って浜辺の防備を固める。

 束の間の安息をあっさりと台なしにされて、アムピトリーテはふくれっ面で身を起こした。


 視線の先に立っていたのは案の定ポセイドンで、波に浸した足元に一頭のアザラシを従えて、偉そうに仁王立ちしているのをアムピトリーテはにらみつけてやった。


「アムピトリーテ!」

「なれなれしく呼ばないで」


 冷ややかな目つきを作って、さも不機嫌そうにアムピトリーテは言う。

 だが、今更その程度の仕打ちになれきったポセイドンは、ひるむことなく続けて言った。


「お前、イルカ好きだろ」

「だったら、どうだっていうのよ」

「可愛い動物が好きなんだよな?」

「用件あるなら、さっさと言ってさっさと消えて」


 つんとあごを上げてアムピトリーテは言い放つ。

 せいぜい邪険に扱ってやって、またポセイドンが頭に血を上らせたところですきを突いて逃げてやろう。

 そう頭の中で計算していたアムピトリーテに向かって、ポセイドンは足元のアザラシを抱え上げ、乱暴に突き出して言った。


「これ、お前にやる」

「は?」


 予想外の行動に眉をひそめるアムピトリーテを見据えて、ポセイドンはきっぱりとした口調で言う。


「アザラシだ。

歳くってるけど見た目はまだ可愛いだろ? 

お前にやるから、煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

「坊ちゃまぁあああっ!?」


 ひび割れた絶叫が老いたアザラシ、プロテウスの口からほとばしる。

 短い尾びれをじたばたと跳ね上げてもがくプロテウスの抵抗を無視して、ポセイドンはその活きのいい贈り物を突きつけた。


「これやる代わりに、少しでいいから話させてくれよ」


 アムピトリーテの瞳が不審げに細められる。

 唐突に贈り物なんてどういう風の吹き回し?

 強気が過ぎてケンカ腰なポセイドンと、その手に捕まえられて小刻みに震えているプロテウスとを、アムピトリーテは値踏みするように見比べた。


 やがて小さく鼻を鳴らすと、アムピトリーテはイルカたちに女王のような仕草で合図をする。

 波間に並んで壁となったイルカたちの先頭が、くちばしで器用にプロテウスの体を受け取る。

 そして、ボール遊びの要領でころころとイルカの背の上を転がされて、プロテウスはなすすべもないままアムピトリーテの腕の中に収まってしまった。


 アムピトリーテの細腕に抱えられて、プロテウスはひげを震わせながら身をこわばらせている。

 真っ黒な瞳を潤ませて愕然とした様子でこちらを見つめてくる様子は、確かにちょっと可愛らしくておもしろい――そう思ったが顔には出さず、アムピトリーテは澄ました表情でポセイドンを見返した。


「で、何の話? 聞いてあげるから言いなさいよ」


 当たりか!

 贈り物作戦成功か!?


 ポセイドンは歓喜のあまり拳を突き上げそうになったのをすんででこらえた。

 アムピトリーテとようやく落ち着いて話ができる。

 彼女の気が変わらないうちに、この機会を逃がさないうちに――はやる心をなだめすかして、ポセイドンは改めてアムピトリーテを見据えながら口を開いた。


「俺はこの海の王だぞ」

「だから何よ」

「その俺の嫁になったら、お前は海の女王になれるんだぞ」

「だからなんなの? 

つまんない話なら聞きたくないんだけど」


 冷ややかな台詞と眼差しにポセイドンは焦れた。

 内心、必死になって働かせる頭の奥が焦りで焼かれるようだ。


 ゼウスは知った風に御託を並べ立てたが、やはりきっかけだの社交辞令だのはまどろっこしすぎる。

 言いたいことは最初から決まっているのだ――ポセイドンは、もう思いつくままにまくし立ててやろうと覚悟を決めた。


「だから、お前には何の損もないはずだろ。

俺とお前で海の支配者になれる。

お前は俺のものになる、海はお前のものになる。

この広くて自由な世界を好きなようにできるんだ。

断る理由なんかないはずだろ!」


 言い切って、ポセイドンは息を呑み込んだ。

 対峙するアムピトリーテの瞳が、冷気を固めたようになってポセイドンを見据えている。


「あなた、それ本気で言ってる?」


 発せられたアムピトリーテの声に込められているのは、軽蔑だった。


「あたしは今のままで、自由に楽しくやってるわ。

あたしは今のままでいいの、今のままでいたいの。

女王になるとか誰かのものになるなんて、絶対いや。

そんな風に縛りつけられるのはまっぴら」


 声音も表情も静かだった。

 だが、潮風も凍りつくようなアムピトリーテの様子に、ポセイドンは、海の荒くれ者を従える力強き王は、言葉をなくして立ちすくんだ。


「あなた、今、楽しい? 海の王なんてやってて楽しい? 

あたしにはそうは見えないけど」


 アムピトリーテはそう言い捨てる。

 あごを持ち上げ、小柄な体でポセイドンを見下すようにして、アムピトリーテは腕の中でぬいぐるみのように大人しくなったプロテウスを抱え直す。


「贈り物は、ありがたくもらっておいてあげる」


 プロテウスを腕に抱えたまま、アムピトリーテはイルカの背中にまたがった。

 女神を乗せたイルカが、群れと共にしぶきを上げて去って行ってしまうのを、ポセイドンは無言のままに見送った。


 一言も言葉を返すことができないまま、立ちつくすしかできずにいた。


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