波間に揺れる恋心 ④



「…………」


 浜辺に打ち上げられたイワシの死骸のように、ポセイドンが小島の砂浜に横たわっている。


 まぶしい陽光が降り注ぐ白い砂浜、打ちかかる小波の音色、アザラシの群れが悠々と昼寝を楽しむのどかな情景。

 その片隅、うちひしがれた様子でポセイドンは、砂浜にうつぶせに、半ば砂に埋まりながらくぐもった声でうめいた。


「……キモイって言われた……」


 剛速球での告白を打ち返した返事がこれである。

 愛らしい女神にすげなくされたことより、イルカたちにしたたかに海水を浴びせられ追い返されたことより、そのたった一言にポセイドンは傷つけられていた。

 心に重傷を負って地に伏した海の王に、常の荒ぶる威勢は見る影もない。


 ポセイドンの脳裏に、無念と共にしなやかな女神の踊る姿が浮かぶ。

 名前を聞く暇もなく彼女は逃げてしまった。再び出会うことができるだろうか。


 せめて、彼女が何者なのかがわかれば――未練がましく女神の姿を思い返しているポセイドンの元へ、ひなたぼっこをしているアザラシの群れの中から、年老いた一頭がのそのそと、浜辺をはって近づいてきた。


「いかがなされました、坊ちゃま。

今日は珍しくお静かでございますなぁ」


 しわがれた声でアザラシは口をきいた。

 その声に、ポセイドンはさも億劫おっくうそうに顔を上げる。


「プロテウスか……」

「はいはい、坊ちゃまの爺でございますよ。

坊ちゃま、昼寝をされるのでしたら、向こうの方が日当たりもよく気持ちがようございますよ」


 のんびりした口調で見当違いのことを言ってくるアザラシに、ポセイドンはわざと聞こえるように舌打ちをした。


 姿こそアザラシではあるが、彼はれっきとしたギリシアの神々の仲間である。

 名をプロテウスといい、海の王となったポセイドンの補佐役を任じられている。

 様々な生き物に変身する能力を持ち、その力で船乗りを惑わし、あるいは導くというが、近頃はめっきり歳を取ってしまったせいか、眷属でもあるアザラシの姿に変身しっぱなしで、群れにまぎれて昼寝をし、たまに起きたかと思うと小言を言うだけ、らしい。


 とかくポセイドンを若年扱いして小うるさく説教を垂れるプロテウスは、ポセイドンにとっては補佐役というより、ただうっとうしいだけの爺さまなのだった。


「プロテウス、邪魔だからどっか行ってくれよ……」

「何ということをおっしゃいますか。

爺は坊ちゃまの爺でございますよ。

二十四時間お側にお仕えし、坊ちゃまのお世話をするのが爺のお役目なれば」

「さっきまで寝てたじゃねーか」

「英気を養っていたのでございます。

二十四時間三百六十五日、お呼びがかかればすぐさまお側に馳せ参じられるよう、空き時間は充分に体を休めておかなければ。

何しろ爺は老体ゆえ、若い坊ちゃまのように休みなく動き回るのはしんどうございますから。

坊ちゃまもたまには爺と仲よく昼寝をいたしませんかな?」

「……うっとうしい……」


 鼻息荒い昼寝のすすめに、ポセイドンは起き上がる気力もないままあしらう。


「今日はお前の相手してやる気分じゃないんだよ。

わかったらどっか行けよ……」

「何と、坊ちゃま、一体何があったのですかな。

随分、いつもとご様子が違うようにお見受けしますが」

「何って……別に……」


 言いかけて、ポセイドンはふと思いついてプロテウスに顔を向けた。


「プロテウスさ、ちょっと教えてもらいたいことがあんだけど」

「坊ちゃまからご質問とは珍しい。

爺にわかることでしたら何なりとお答えしましょうぞ」

「この辺に住んでる女神でさ、金髪の子っていったら誰かわかるか? 

名前知ってたら教えてほしいんだけど」

「はて、金の髪の女神……」


 プロテウスは黙り込むと、宙を見つめて長いこと考え込んでいたが、


「……いやあ、近頃とんと、ものを思い出すのに難儀しますなぁ。

ことに、人の顔と名前が思い出せませんで。

少し前でしたら、海にまつわるあらゆる知識を詰め込んだこの頭の中から、自由自在にそれらを取り出しては、皆に尊敬の眼差しを向けられたものですが。

いやはや、歳は取りたくないですなあ」

「……この役立たず」

「しかしながら、その女神が一体どうしたのです? 

何か火急の御用向きで? 

この海も広うございますし、住処としている者たちも大勢おります。

ただ教えろとおっしゃいましても、もう少しくわしいことがわかりませんことには、この爺としましても何ともしようが……」

「もういい」


 流暢りゅうちょうにいいわけを並べ立てるアザラシに向かって、ポセイドンは盛大に舌打ちをしてやった。


 その苛立ちをあおるかのように、今度はポセイドンの頭上から剽軽ひょうきんな調子で声がかけられる。


「やあ、暴れん坊将軍。ご機嫌いかがかな?」


 声だけでその正体がわかって、ポセイドンの目つきが険しくなった。

 素早く身を起こすと、頭上にいつの間にか現れたその相手をにらみつける。


 雲を集めた小舟に乗って、美貌の青年が宙に浮かんでいる。

 長い金髪を潮風になびかせて、地上を見下ろす様は悠然とした威厳がある。

 精悍な青の双眸が風格ある容貌を引き立てているが、ひとたび笑みを浮かべれば世の人々を惹きつけ――特に女性の心は、たちまち恋のときめきに打ち震えることだろう。

 彼こそオリュンポス十二神を率いる主神、そしてポセイドンの弟でもあるゼウスその人である。


「ゼウス、てめえ、何しに来やがった」


 雲の小舟から砂浜に降り立ったゼウスに向かって、ポセイドンはケンカ腰に言った。

 ゼウスは兄の態度にひるむことなく、


「邪険にしないでほしいなぁ。

上から見てたら、何か兄上さまがおもし……いや、深刻そうな様子してるから気になってきてみたんじゃないか」

「今、おもしろいって言いかけたな、てめえ」

「いやいや、そんなまさか滅相もない……ぷぷっ」

「今、笑っただろ!」


 怒鳴りつけられてもゼウスはまるで意に介してない風に笑った。


 常にあふれる王者の風格。

 兄から見て、生意気なほどにいつも余裕で態度の大きいこの弟が、ポセイドンははっきり嫌いだった。

 それをわかっていてわざわざやって来るらしいことが気に食わず、会えば必ず馬鹿にされるのがまた腹立たしい。

 ゼウスにとっては、そうやってポセイドンがいちいち相手にして怒るのがおもしろい――というところまでは、ポセイドン自身は気づいていなかった。


「ったく、今日は次から次へとうるさい奴が出てきやがって……」


 イライラと、黒髪に手を突っ込んでかき回していたポセイドンは、はたと気づいてその手を止めた。

 顔はあさっての方に背けたまま、何でもない世間話を装ってゼウスに水を向ける。


「ゼウスさぁ……お前、女神連中に知り合い多かったよな」

「うん? 

そうだね、私はこの世の全ての女神とお知り合いになりたいと思ってるからね」

「じゃあさ、海の女神にも知り合いいるか?」

「さて、海に住まう女神は数多いからねぇ。

誰のことかな?」

「ちょっと見た目幼い感じの、細っこい体した金髪の子。

踊りがうまくて、イルカたちがやたらなついてる」


 ポセイドンの話にゼウスは考え込む。

 気を持たせるような沈黙にポセイドンは内心ひどく焦れた。


 名前を知っているのかいないのか、知っているならもったいつけずにさっさと言え! と、怒鳴りつけたくなるのを必死にこらえる。


「……別に知らないんなら、いいんだけどさ」

「いや、知ってるよ」

「知ってる!?」


 さらりと言われた台詞にポセイドンは勢いよく食いついた。

 ゼウスはゆったりと自分の髪を指先でもてあそびながら、


「金髪を肩のとこでそろえてて、水色の目の女の子でしょ」

「そう、それ!」

「それはきっとネレイスたちの一人で、アムピトリーテという子だろう」

「アムピトリーテ……」

「可愛い子だよねぇ。

ネレイスたちはみんなそろって美人だけど、あの子はまた格別だな。

可愛い顔して気の強いとこがまたいいよ。

あの大きな瞳をちょっとつり上げてにらんできたりすると、かえってグッとくるというか。

それで実は結構、家族思いだったり、イルカになつかれるくらい優しいとこもあったりして、心惹かれるよねぇ」

「……くわしいな」


 口元に軽薄な笑みを浮かべてとくとくと語るゼウスを、ポセイドンは横目でねめつける。

 ゼウスはそれをしれっと受け流して、


「そりゃあ、私の全知全能はあらゆる方面に発揮されるわけだから」

「まさか、てめえ、あの子と何か――」

「うーん、前々からお近づきになりたいとは思ってるんだけど、彼女、なかなか身持ちが堅くってね。

残念ながら縁なし」


 その言葉にポセイドンはほっと溜息をついた。


 アムピトリーテ。


 砂浜に打ちかけ、引いていく白い波にじっと見入って、ポセイドンはようやく知ることのできたその名前を胸の内で繰り返した。


 アムピトリーテ。


 唐突に黙り込んでしまったポセイドンを怪訝そうに見やって、ゼウスは身をかがめるとこそこそとプロテウスに耳打ちした。


「ねえ、爺、ポセイドンってば一体どうしたわけ?」

「実は先程から、かくかくしかじかにて……」


 プロテウスはもそもそとひげをそよがせながら、浜辺でのポセイドンとのやり取りを至極詳細に話して聞かせた。

 爺さまの迂遠なおしゃべりにうなずきながら耳を傾けるゼウスの表情が、話が進むにつれ徐々ににやけていく。


 そして、プロテウスがようよう話し終えて一仕事やりきった、とばかりに溜息をつくと、ゼウスは盛大に嫌な笑みを浮かべてポセイドンに向かって言った。


「へえ! 

ポセイドンもとうとう女神に興味を持つお年頃なわけか」

「そうなのですか、坊ちゃま!?」


 にやけ顔のゼウスと大袈裟に驚くプロテウスとを、ポセイドンは無言でにらみつけてやった。

 本当にこの弟は腹立つくらい察しがよすぎる――特に恋愛事に関して。


「むさ苦しい連中とつるんで暴れ回るばっかりで、女神にもニンフにも、人間の美人にも興味なしだったポセイドンが……成長したねぇ」

「馬鹿にしてんだろ、てめえ!」

「してない、してない。

で? 彼女と何か話した?」


 つつかれて、ポセイドンは下世話なゼウスの表情から視線をそらせると、たっぷり間を取ってからぼそりと言った。


「……好きだって言った」

「いきなり?」

「それから、嫁になれって」

「……馬鹿なの?」

「何でだよ!」


 ポセイドンはかみつくように怒鳴る。

 言いながら振り向いてにらみつけると、ゼウスは妙に真面目な顔つきで尋ねてくる。


「それで、彼女はなんて?」

「……キモイって……」

「ああ……」

「でしょうなぁ……」


 ゼウスと一緒になってプロテウスまで真面目な顔をしてそう嘆息する。

 心の傷に突き刺さるその反応にポセイドンは激昂した。


「何なんだよ、お前らそろって!」


 わめき立てるその声にうっすらと涙がにじんでいるのは気づかぬふりをして、ゼウスは至極落ち着いた口調で言ってやる。


「というか、兄上さまさぁ、名前も知らない子にいきなり告白したの?」

「悪いかよ!」

「その勢い任せで考えなしの行動力、尊敬はしないけど感心するよ。

尊敬はしないけど、全く」

「強調すんな!」

「まあ、思慮深くて控えめなポセイドンなんて気持ち悪いだけだからいいんじゃない? 

あ、今のまんまでもキモイって言われたんだっけ」

「蒸し返すなー!」

「はあ、一目惚れ、というものでございますかな。

なんとも坊ちゃまらしい」


 兄弟げんかのようなやり取りのかたわらで、プロテウスは感慨深そうに溜息をついてつぶやいた。


 ポセイドンはまだ何か軽口を吐き出しているゼウスを無視して浜辺に仁王立ちになった。

 陽光にまぶしく輝く海原を見据える――今もこの広い海のどこかにいるアムピトリーテに向かって心が駆ける。


 怒鳴り散らしたおかげで少し気分が晴れた――ちょっと泣いたけど。

 ぐずぐず考え込んだり過ぎたことを引きずるのは、本来のポセイドンの気性にそぐわない。

 やらかしてしまったことは仕方ない。

 何とか機会をとらえて挽回するまでだ。

 困難も危機も逆境も、ただ力で踏み越えるまで。

 今までだってそうしてきたし、それができる力が自分にはある。


 ポセイドンは傷心から自信を取り戻して、碧の双眸で鋭く彼方をにらみ据えた。


「ちくしょー……一回告って相手にされなかったくらいで、このポセイドンさまがあきらめると思ったら大間違いだぜ。

絶対あの子を口説き落として嫁にしてやる!」


 吠えるポセイドンの顔に荒々しい笑みが戻ってきた。

 すっかり立ち直ったらしいその様子に、見守るゼウスとプロテウスはそろって感心したような声を上げた。


「おお、不屈の闘争心。さすがだねぇ」

「それでこそ坊ちゃま」

「しかし、あのお堅いお嬢さんをものにするのは骨を折るぞ。

よかったら手伝おうか? 

この弟めが、恋の橋渡しに一肌脱ぎましょうか」


 親切めかしてすり寄ってくるゼウスを、ポセイドンは胡乱げな目つきで見返して言った。


「ヒマなのか、主神」

「ヒマじゃないけど、おもしろそうだから。

それに、うまくいけばネレイスたちともお近づきになれるだろ?」

「てめえは山の上に帰れ!」


 あからさまな本音にポセイドンは肩を怒らせて怒鳴った。

 その剣幕も意に介した風なく、ゼウスは笑いながら雲の小舟に身軽に乗り込むと、髪を潮風にたなびかせながらオリュンポス山の方へと飛び去っていった。


 人を馬鹿にしたようなその笑い声が遠ざかっていくのを聞きながら、ポセイドンは海に向かって独りごちる。


「……ゼウスの助けなんか借りるかよ」


 これは自分一人の戦いだ――ポセイドンはそう心に決意を固めた。

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