第32話
私は今、ティーセットを手に執務室へと向かっている。
本来、退職を希望する際の手続きとして、その意向を伝えなければならないのはクライン様まで。
故に、旦那様はいちいち使用人の入れ替わりを把握する事は無い。
だが今回、クライン様は私へ退職の意向を旦那様まで伝えるように促した。その意図がどういったものなのか私には分からない。 ただ、クライン様が言った、
『旦那様が助けてくれるやもしれません』
ここにクライン様の意図が隠されていると思う。そして、この言葉から察するにおそらくクライン様は、私の本音が分かっている。
私の本音――私がこの結婚に消極的である事を。
何故ならば、私はこの仕事が好きだから。ここでの暮らしが好きだから。仲間達との和気あいあいとした何気ないやり取りが好きだから。――そして、旦那の事も……。
ようやく、「私は今幸せ」だと、そう心から思えるようになったのに、それをたった半年で手放したくない。
それと、もうひとつ。
確かに、子爵様の事は私も好きだ。
でも、その『好き』は子爵様が私に求める『好き』とは違う。
ただただ子爵様の事を夫として見る事が想像できないのだ。――どうしても、だ。
――何故だろう? ジョンとの結婚で得たストレスが私の脳裏にトラウマとして刻まれているから?
うん。確かにそれもあるだろう。でも、だからと言って『結婚』への憧れは失われていない。
そうだ。私は結婚したいんだ。本当は――
今や私は、自分の本当の気持ちに気付いている。そして、それこそが子爵様との結婚を前向きに捉えられない一番の理由……。
「失礼致します。紅茶をお待ちしました」
執務室へ入ると、いつものように部屋の最奥で麗しい銀髪が机に向かっている。
「――あぁ、ありがとう。こそへ置いててくれ」
旦那様は筆を走らせながら視線もそのままに声だけで返事をした。
「かしこまりました」
執務机の前に配置されたソファとテーブル。そこにティーセットを置くと紅茶をカップに注ぎながら思い見る。
――クライン様が言った『ヒント』。それを実行に移すか、否か――
そもそも半信半疑なのだ。
私がここへ留まりたい旨を旦那様へ吐き出したとして、それを阻む為の働きを、領地経営第一優先の旦那様がしてくれるだろうか?リデイン領はギルバード領の隣。いくら格下の相手とはいえ不興を買うような真似はしないだろう。
そして何より、リデイン家はアリアの嫁ぎ先だ。私の身の振り方次第ではアリアの立場が無くなる危険性も孕んでいる。
リデイン家に限ってそんな事は無いと思うのだが、やはり、娘の事が第一に心配だ。それを考えると自分の願いなど、二の次三の次。
――やはり、子爵様と結婚しよう。
子爵様自身に対しても、リデイン家に対しても不満があるわけじゃない。アリアの事を大事に思ってくれるむしろ良家だ。
そんな所へ嫁ぐ事ができるのに、私の一存で、私のわがままで、周りに迷惑掛けるわけにはいかない。
「それでは、失礼致します」
紅茶をカップへ注ぎ終え、私は旦那様へ深々とお辞儀をする。
もしかすると旦那様とはこれっきりかもしれない。そう思うと目頭が熱くなった。
涙を堪え、目に溜まった涙を隠すように、素早く頭を上げて踵を返し、扉へと歩き出す。
この時に旦那の姿は視界に入れていない。どうせ、旦那様とて私へ視線を向けてはいなかっただろう。
だから、止めどなく流れ出るこの涙を隠す必要性もないのだけれど。
とにかく、今この場にいるのが辛い。
私は逃げるように足早に扉へと近き、そしてドアノブに手を掛け――
「――行くな」
「――?」
ふと背後から、あの時感じた匂いと感触がふわりと私の体を包み込んだ。
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