実験室のTray ~被験者殺しは青い春の夢を見るか~

尾岡れき@猫部

第1話 水原茜と日原洋


水原みずはらさん……?」

「え?」


 作業に没頭しすぎたらしい。ボクが思わず顔を上げると、クラスメートの日原ひはらよう君が、恐る恐る【旧情報処理室】に入ってきた。他の学生をインプットする余裕はボクにはないのだけれど――水原に日原。なんの冗談だと、顔を歪めたころを憶えている。おかげで、日原君のことは、なんとなく認識していた。


 戸籍情報を作った担当者に文句を言いたい。――いや、実際にはもう言っている。あーやに苦言を言っても、どこ吹く風なのだ。もう少し、研究者を敬って欲しいものである。


 できるだけ、学校生活の中で埋没する。これがミッションなのだ。


 ――日原と水原。陰気くさい二人で、お似合いじゃん。


 同級生バカが囃し立てる。

 開発中のサンプルの餌にしようとして、あーやに止められた。


 無論、ボクは大人だ。


 後日、彼の制服。背面が溶けるという不可思議な現象が起きたが、ボクの知ったことじゃない。


「……どうしたの?」

「あ、いや、その――」


 まとまらない言葉をボクは静かに待つ。


「……み、水原さんは、い、苛々しないんだね」


 無意識に、自分の眉がピクリと反応したのが分かった。あぁ、と思う。彼は緊張すると、言葉がつっかえる。でも、それがどうだって言うんだ? 周りで猿のようにはしゃぐクラスメートのように、大声を上げなければ――ボクの作業をジャマしなければ、それで良い。今この段階も、脳内はパソコンで走らせる予定のコードを組み立てていた。

 


 ――日原君の言っている意味が、分からないけど?

 そんなメッセージをこめて、ボクは首を傾げてみせた。


「あ、いや、みんな。僕をノロマって言うからさ」

「ボク的には、相手の思考や精神状態を読めないヤツが、ノロマだけどね」

「……はは、そうなんだ」


 から笑い。ボクはさらに首を傾げる。スカートの裾をのばして、姿勢をただす。ちゃんと、話は聞く。大丈夫。そう視線を送りながらら。


 疎通もままならない遺伝子研究サンプルとコミュニケートすることを考えたら、造作ないことだった。


「あの……野原先生が、探していて……」


 ピクッと、自分の眉が動く。日原君は視線を逸らす。それはウソだ。あーやは、必要なら、ボクにダイレクトメッセージを送る。日原君をわざわざ、旧情報処理室に送る意味がない。


「あ……ウソついた、ごめん。その、僕が水原さんと話をしてみた、くて……」

「ボク、と?」


 物好きな子もいたものだ。ボクは教室で、ずっと本を読んでいる。高校生ガキの会話に合わせるのは、億劫なのだ。


 日原君の思考回路まで覗けないから分からないが、彼も同様に本を読んでいる。隣同士、本を読んで、お互いに干渉しない。それがボクにとっては好都合で、心地良いとは思う。


 教室内で見るだけだけれど。

 彼のしっかり、思考をめぐらして答えを出そうとするその姿は、好ましいと思っている。直情径行で判断を見誤るよりは、よっぽど良い。


「まぁ、そんなことなら、いつでも――」

「いや、その……ただ話をしたいワケじゃなくて!」

「え?」


 ボクは目をパチクリさせる。ごくりと、日原君が、唾を飲み込むのが分かった。


「あ、あの……」


 言い淀む。でも、それから決意をこめた視線をボクに向けて送ってきたのだ。


「入学してからずっと、水原茜さんが好きでした。ぼ、僕と付き合ってください!」

「へ――?」


 その言葉の意味を考えながら。

 まさか、高校生特有のイベントが、自分に訪れるとは、思ってもみなかった。


 でも、僕が思考を巡らしていたのは、まったく別のことで。


 この旧情報処理室は、強固なセキュリティーが施されている。

 通常は、一般生徒なら認識もできないのだ。

 警告もなかった。

 これは、いったい――。




「どうかな、水原さん?」


 気付けば、日原君の距離が近い。

 彼がかけている眼鏡越し。レンズをはさんで見えるまつげが、意外にも長いね、と的外れなことを考えて、はっと我に返る。


「え、あの、日原君?」


 研究者は冷静であれ。温度は低くあれ。

 ボクの座右の銘は、今日あっさりと崩れたのだ。

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