我妻の如き妬むもの

 万が一、本作『令和の実話系怪談(短編集)』に関して、『カフェ巡り』から順を追って読んでいる読者がいたら、本章で明かされる事実に少しだけ驚くかもしれない。ただ、それは作者が当初から目論んでいた作劇上の仕掛けというわけでなく、私の人品骨柄の異常性がただただ剥き出しになっただけのことなので、物語上の「今後の展開」になど何一つ期待できないことを、あらかじめ申し添えておく。



 2023年11月某日、いつものように仕事から帰宅したところ、妻の様子がどこかおかしい。夕飯を作った形跡がなく、食卓には、私の分と思しき近所のコンビニで買った弁当がぽつんと置いてあった。

「まあ、着替えてきて、それでも食べながら聞いてよ」

 と、妻はぞんざいな口調で告げて、いつもの自分の椅子に座っていた。

 私は無音に耐えられない性質なので、熱心に見るわけでもないのにテレビを点けて、部屋着に着替えた後、食卓についた。弁当のふたを開けて割り箸を割ったあたりで、妻が押し殺した声で尋ねた。


「……浮気のことについて、ちょっと説明してもらえます?」


 この時の自分の気持ちを表現することは、非常に難しい。不意をつかれてぎょっとしたし、「こいつ、急に何を言い出したんだ」とも感じたし、「来るべき時が来たのかもしれない」とも思った。

 むしろ妻が何を掴んでいるのか情報を引き出そうと、二、三の逆質問を投げたような気がするが、妻は何も答えなかった。私は、自分の狼狽を誤魔化すために箸を進め続け、冷えた白米を咀嚼しながら勝手にしゃべり続けることを余儀なくされた。

 伝えた内容は要するに以下の三点である。「常識的に考えて、家と職場の往復しかしていない人間が浮気などすることは出来ない」。「基本的に異性から相手にされないタイプの人間が浮気などすることは出来ない」。「カクヨム上の作品を読んで内容を気にしているのかもしれないが、あれは徹頭徹尾フィクションで、小説は現実じゃない。そして、事実でないことを基に浮気を疑う気持ちについては、嫉妬妄想やオセロー症候群という、名前の付いた病状が知られている」。

 妻はそれを黙って聞いた後、カクヨム作品についてはあまり目を通していないが、と前置きした上で、「たぶんそこにも書かれている人でしょ、これ」と、自身のスマートフォンを差し出してきた。

 どういう状況なのかといぶかしんでいたら、妻のスマホの画面には、電話の着信履歴が表示されており、上から下まで同じ番号が並んでいた。頭を殴られたような衝撃、というのは、こういうことを指すのだろうと思う。

 どうやら、その番号の持ち主は、この数日、昼間の私のいない時間帯に、二時間おきに妻宛に電話をかけ続けていたらしい。そういうことをするタイプだと全く思っていなかったので、私は絶句するしかなかった。

 不審な着信についてずっと無視していた妻が、ついに今日、その電話に出てみたのだという。

「……話したのか?」

「勿論」

「彼女は何と?」

「あなたにいつも大変世話になっている、といったようなお礼と、一度私と直接話してみたかった、というようなことを聞かされました。……吐き気がした」

 私は混乱していた。一体何の意味があって、彼女はそんなことをしたというのだろうか? 誰に何の得があるのか? 嫌がらせか? 私を社会的に殺そうということか?

 妻は、そんな私を冷ややかに見据え、最後通牒を突き付けるように、口にした。


「それで? この『』というのが一体誰なのか、きちんと説明してもらえます?」


 現実世界の妻が、を呼んでいることの意味が分からな過ぎて、私には頬を引き攣らせて笑うことしかできなかった。現実世界で道を踏み外し、フィクションの世界でふざけ過ぎた代償を払わされようとしている。



 Yは、私の大学時代の後輩であり、嘘というものをうまく咀嚼できない人物特性を持つ女性である。この社会で上手く生きていけるだろうか、と心配していたが、案の定というか何というか、外面だけが取り柄の暴力男と結婚してしまい、幸せな家庭生活を築くという儚い夢破れ、一人娘を抱えるシングルマザーとなって慎ましく暮らしている。数年前、ひょんなことから彼女と再会した私は、以来、毎月一回ほどのペースでYの家に赴き、YとYの娘と三人で、偽りの家族ごっこに興じているような塩梅である。私がYの家に出かける際に利用しているのが、「職場の宿直業務」という名目であり、妻と結婚した頃までは本当にあった制度なのだが、ちょうどYと再会した前後に廃止となり、以降は体よく外泊するための舞台装置になっていた。

 現実の妻については、何しろ現実の話なので、これまでインターネット上に何の情報もあげないようにしていた。ただ、もう半ばどうでもよくなっているので、ある程度暴露してしまう。私と妻の間に子供はいない。私は子供が欲しいと思っていたのだが、結婚後、妻がとある精神疾患にかかって仕事を辞め、自宅での療養生活に入ると、処方される薬の都合上妊娠することが推奨されない状況になってしまった。私とY(とその娘)の関係が始まったことに関して、病気のことを言い訳にするのはあまりにもグロテスクに過ぎるが、その一面があったことは紛れもない事実だろう。

 私の歪みは、カクヨム上で公開している文章の中で、あらゆる形で表現してきた。エッセイという態でフィクションを書いてみたり、フィクションの態で事実を堂々と載せてみたりした。それっぽい「匂わせ」だって死ぬほどしてきた。ただ、妻にだけは絶対に届かないことを確信していた。妻は病気のせいで、集中して長い文章を読むことが出来ないからだ。性格の破綻している人間が、胸糞の悪いことを平然と行ってきていた、というありのままの現実を、今、露悪的に書いている。そして、こう書くことで、「著者は少なくとも自分がヤバいという自覚はある奴なんだ」というエクスキューズを求めている。

 ここで妻を罵ることはいくらでも出来るし、一方的に悪者にだって出来る。いくら病気だからと言え、療養を理由に何年も引き篭もり続けることに対して私だって言いたいことはある。生産性がない陰気な人間がずっと家にいることは、本当に堪える(家にいても稼ぐ方法がある、と言って環境を整えアバターを被って配信を始めたのに、収益化を達成した後にアンダーマイニング効果ですぐ辞めたりすることの不毛さには目を覆いたくなる)。改善の要求は病気を盾にされて何一つ通らない。色々と、限界ではあったのだ。

 痴情のもつれが原因で、知り合いが殺人事件を起こしたことは、一つのきっかけに過ぎない。私も、常識的に許容され得ない二重生活を送っている以上、殺すか殺されるか、そんな刃傷沙汰に巻き込まれる危険があるのだな、と認識し、その覚悟を決めるだけの時間は十分にあった。

 まさか、Y本人がこのような形で直接破綻させに来るとは思っていなかったが。女は本当に怖い。何を考えているかわからない。



 Yのことについて、妻にどこまでどのように説明したか、正直いまいち憶えていない。天地神明に誓ってYとの間に肉体関係はない、と力説したものの、その言説は私自身であっても絶対に信じないだろうし、考えてみれば問題の本質はそこですらないような気もする(むしろ気持ち悪い、と正面切って言われた記憶が微かにある)。

 その後、激昂した妻を宥めたりする普通の夫婦喧嘩みたいな時間があって、解決の糸口もないまま夜遅くなったからもう寝ようという話になり、眠っている間に殺されるのではないかと思ったものの何事もなく次の朝を迎え、薬の関係で朝早く起きることのできない妻を残して一人で職場に出かけた。

 帰って来たら、家に妻はおらず、身の回りの品と旅行用のバッグも消えていた。書置きも何もなかった。以来、音信が途絶えたままだ。


 電話もメールもSNSも通じないと、本人に直接連絡を取る方法がない。大方、実家にでも戻ったのだろうと思っているが、折り合いが良いわけでない義実家(義理の両親は、妻の精神疾患の発症原因が夫のせいであると信じている節がある)に、どんな名目で連絡すれば良いのか考えるのも億劫で、私は何もかもを諦めた。


 真意を問いただそうと思い、Yの携帯電話に電話してみたが、繋がったのは最初の一回だけで、私の追及をかいくぐるように、



 と、たしなめるように告げられただけで、一方的に切られた。

 電話は着信拒否になり、こうなったら直接家に乗り込むしかないかと考えたが、むしろそれこそが相手の狙いなのではないか、今会ったら色々な意味で本当にもう終わりなのではないか、などと考えている内に、私には何もわからなくなった。自分の中で心の折れる音が聞こえた気がした。


 どうしてこうなってしまったのか。考えるだけ無駄なのに、別の世界線があったのではないかと、現実逃避のような思いが頭の中をぐるぐると回り続ける。



 ひとまずS・Tに相談しよう、と思い至り、私用のアドレスからメールを送るため、真夜中にノートPCを開いて打鍵を開始した時、「追い詰められると人は本当におかしくなるのだ」と自覚させられた。……残念ながら、どう考えたって、こちらの世界には、分身してまで私に付き合ってくれる理想の女友達など存在しないからだ。

 私のことだけ、誰も助けてくれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る