最終話 姫さまの、ばか


 リューリュは、炎のなかで身を起こした。


 胸の出血は停止している。いや、すでに穴が、塞がっている。傷あとを撫でながら、銀にひかる瞳を周囲にはしらせた。求めるものは、そらにあった。


 いみの鬼は、闇夜にとけながら、自身の怨念の温度を、地表に転嫁しつつある。風景は、ほとんどすべてが灼けている。山も、野も、あかよりほかの色をまとうことを許されていない。


 「……あのときと、同じだな」


 呟きながら、手をつき、ゆっくりと立ち上がった。彼女が寝かされていた露台は、すでにほとんど崩壊しているが、跳躍の土台とするには足りた。


 崩れかけた縁にたつ。熱に煽られた髪が、ゆれる。結い上げてあったそれは、髪留めが焼失したから、いまは背におちている。黒い、背のなかばまでの髪。


 その黒い髪は、だが、ゆれているうち、先端から、色がおちてゆく。炎に炙られ、灼けたかに見えた。しかし、そうではない。白く、ゆっくりと、染まってゆく。やがて得たうつくしい白銀の髪を、リューリュは、気持ちよさげにかるく振った。


 からだがすっかり目覚めきるまで、待った。永い眠りだったから、戻るまでに時間がかかる。


 彼女を封印したのは、もちろん、彼女自身だ。だが、その後にすごした気の遠くなるような時間、じぶんでないものとして生きた記憶は、忌の鬼をひしぐちからをもつ彼女にとっても、重かった。


 あの日、貫き、斃した忌の鬼が、とおい未来に復活することはわかっていた。鬼をそだてた家の呪いもある。が、たたかいの中でみた鬼自身の強い怨念は、世代を隔ててふたたび蘇るであろうことを彼女に確信させた。


 願いをともにする親しいものたち、彼ら自身とその子孫とに、ちからを分け与え、とおい未来への希望を託し、にえと呼んだ。身を捨てて邪鬼をとめよ、との意味だった。彼らに、うたを託した。封じるうた、そして、甦りを預言するうた。


 だが、それで終わるわけではないことは、彼女自身がよくわかっていた。


 すべてのしたくを終えて、彼女は、歴史から消えた。きえて、みずからを封じた。ながい時を跳ぶために。自分自身を、隠すために。なつかしいきょうだいを、ふたたび、討つために。


 ふたつめのうたには、意味をこめていた。欠ける月、満ちる月。愛することを思い出させ、そのうえで、失わせる。そのことを鍵に蘇った鬼を、愛するものじしんが、封じる。その方法でしか、鬼にも、彼女にも、赦しが降りないことを、わかっていた。


 白銀の髪と瞳をくろく染め、ちからを閉じ、記憶を消して、里におりた。辻にたち、やさしいひとに拾われるまで、待った。拾われ、暮らし、働いて、数年すると、去った。十七歳のまま、としをとらないためだった。訝しまれると、立ち去った。


 何百回か、その過程は繰り返された。つど、新しい人生が、彼女にはじまった。自身と周囲の記憶は、毎回、消去された。


 しゅのちからは、関わるものに、彼女についてのいつわりの記憶を植えた。みな、はじめから彼女を親しい者とあつかった。あるとき里で知り合った若くたくましいさむらいは、彼女を幼馴染と信じた。


 彼女自身も呪を受けているが、シュンゴウというそのさむらいに抱いた想いがその効果によるものか、もちろん彼女にも、だれにも、わからない。


 やがて、ときが満ちたことを、本能がおしえてくれた。向かうべき場所も、わかった。


 ある日、シュンゴウに、ヨギリの家に勤めなければならないと言うと、彼もともに奉公すると言った。彼女は頷いた。その時点ですでに、彼女自身をふくむ関係者すべての思考と記憶が書き換えられている。翌朝にはもう、ふたりは屋敷で働きはじめていた。


 白の巫女みこは、ヨギリの家で、リューリュと名乗った。


 ながい、ながい、旅だった。


 「……そろそろ、よいか」


 永い時間は、しかし、白の巫女が自身のために仕組んだものでもあった。太古の対戦で、彼女のちからは、忌の鬼、彼女のきょうだいであるべにと拮抗した。だからこそ、その存在を理の彼方へ連れ去ることを、しくじったのだ。


 つぎに為損しそんじれば、世が終わる。そのことがわかっていたから、時間の波のなかで、みずからを蓄え、補う必要があった。


 それも、ただ、もう、おわる。


 白の巫女は、てのひらを見る。淡くしろく、かがやく肌。彼女の全身をつつむひかりは、忌の鬼とは異なる世界に由来した。内包する膨大なちからは、彼女を隠そうとするどんな闇も、ゆるさなかった。


 そらを見る。闇にとける鬼に、思念をおくる。


 またせたな、紅。


 鬼は、振り向く。眼下に、しろいおんなを捉える。リューリュの面影が残るが、わからない。すでに思考を手放しているためだ。


 ただ、鬼にとって、なつかしく、あたたかく、そして危険なその思念は、すべての攻撃手段を開放する信号として受け止められた。


 分厚い鋼の扉を貫くことも可能であろう熱の槍が、無数に白の巫女に殺到した。大気を焦がしながら彼女をめざしたそれを、巫女は、蝿をはらうように退けた。わずかにあげた指をふると、轟音をのこし、槍はきえた。


 立て続けに攻撃がふってくる。膨大な熱量の塊が叩きつけられ、真空の刃が幾重にも送られ、天をうめるように生成された雷が迸る。それでも、巫女は、避けない。


 陶然、という形容がなじむ表情。夢をみるようなかおつきで、リューリュとよく似た、しかし温度を欠いたくちびるが、わずかに開けられている。息を吐く。


 払うように振った手のひらは、あらゆる攻撃を無効化した。刃と雷は消失し、熱量は炎となって、彼女のまわりで踊った。操られたそれは、彼女の意思にのみ従う獰猛な獣と化して、忌の鬼に反転した。


 大気を割いて到着したそれを、鬼は、受け止めた。にぎりつぶす。次の攻撃は双方同時にはっせられ、彼女らの中央、空中で衝突し、莫大なひかりと、数泊遅れて空を揺らす凄まじい轟音をうんだ。視界が歪む。


 跳躍も同時だった。たがいを目指し、とぶ。巫女は崩壊した露台を蹴って、鬼は、みえない階をつかんで。


 爪と、爪の、あらそい。振るたびに空間が裂ける。音の速さという概念はうまれていないが、交わされる斬撃の速度は、それを数倍、超えている。


 地上でみるものもいないが、いたとしても姿を捉えられない。ただ、ひかりと轟音で構成された嵐がそらで渦巻いていると見えたはずである。


 戦闘は、ながく続いた。それでもやがて、巫女が鬼をとらえた。


 つかみ、引き寄せる。互いにすでに形を持っていない。しろと闇、抽象的な概念の凝結でしかない。しかし、かつて額だった場所を、相手のそれに、打ちつける。くちが動く。呪を詠んだ。


 ひかりが疾るが、いずれかの攻撃ではない。音はきえ、情景は、反転した。


 反転した世界は、闇でも、ひかりでもない。


 ただ、ただ、とおい世界。


 霧が晴れると、ふたりの姿が浮かんできた。


 ……べに。


 ……しろ。


 いちめんの、雪灯花せっとうか


 幼い女児ふたりは、はしっている。互いの名をよびながら、春の野を、雪灯花が咲き乱れる草原を、母にむかって、走っている。


 母はおだやかな表情をうかべて、なつかしい家の縁にすわって、娘たちを待っている。粗末だが、あたたかい、かえるべき場所。


 畑をとおり、垣根をくぐって、母の膝にすがりつく。


 しろがねえ、いじわるするの。わたしを、ぶつの。ねえ、おかあさま、しかってやって。


 ちがうもん、べにが、わるいことするから。おかあさま、べにねえ、わるいんだよ。こわすの、いろんなもの。


 甘えながら、ふたりとも、互いを告げ口する。紅い髪を短く結んだ母は、わらって、それぞれの頭を撫で、背に手をそわせる。声を出さないが、ことばが伝わる。


 わるいこなんて、いないの。ぜんぶ、ながれ。仕方のないこと。


 女児は、七歳ほどになっている。


 秋の夕景。母の姿はない。台所からよい匂いがする。縁にふたりで腰掛け、まもなく陽の落ちる、とおい山をみている。


 紅が、いけないんだよ。わたしは紅を止めようとしただけだもん。


 ずるいよしろ。ずっと、隠れてたくせに。わたしがどんなに苦しんだか、知ってるくせに。


 十三歳のふたりは、向き合っている。


 強い雨がふるなか、庭で向き合っている。ずぶ濡れで互いの目を見つめている。成長した手足は、寒さに震えているが、どちらもそれに気づかない。雷鳴がときおり彼女たちの横顔を刻み出す。


 白。どうして、とめるの。


 あなたが、愛しいから。


 愛しいなら、わたしが愛しいなら、どうして、許すの。おかしいじゃない。お母さまはどこにいったの。お父さまは。だれが、ころしたの。ねえ。わたしたちからぜんぶとっていった、あいつらを、どうして、許すの。許せない。許せるはずがない。愛しいなら、ちからを貸して。あいつらを、懲らしめて。


 白は、哀しげな表情でくびをふり、紅の頬に手をのばした。やわらかく沿わせ、温度を確かめる。雨に濡れているが、なつかしいあたたかさは、かわらない。


 憎いよ。許せないよ。ぜんぶ、こわれればいいって、願ったよ。でも、思ったんだ。そのあとで、どうするのって。そのあとに、どこにいくの、って。


 紅は、さけんだ。いくところなんて、なくていい。わたしも、世界も、ぜんぶ、きえればいい。いてはいけない、許されていない、わたしは、忌なんだ、いきていてはだめなんだ。

 

 白の手が、紅のあたまのうしろに、しずかに回される。ゆっくり、やさしく、それでもつよく、引き寄せる。頬を、相手のそれに押し付ける。


 紅は、ことばを呑んだ。


 十七歳の鬼鏡姫とリューリュは、屋敷の裏庭で、互いの肩に顔を埋めている。


 初夏の陽光がおだやかにふたりを包む。ちいさな雲がながれてゆく。物干しにかかる着物がゆれ、どこからか花びらが、舞ってくる。鬼鏡姫の髪についたそれを、顔を離したリューリュが、微笑みながらつまみとった。


 もう、いいの。キョウ。もう、いいんだよ。


 姫は赤子のようにくしゃっと顔を歪めている。頬が、たくさんの涙でひかっている。紅く艶やかな長髪は、感情をしめすように、おおきく揺れている。リューリュの頭の左右に手を置き、黒髪を愛おしそうに撫で、くちびるを噛んだ。


 ごめんね。わたしのために、リューリュは……ごめん、なさい。ぜんぶ、滅ぼすから。あなたとわたしを苦しめた世を。わたしだけで、やるから。あなたには迷惑をかけない。わたしが、やるから。


 リューリュは、穏やかな黒い瞳で、鬼の姫の紅い瞳をみつめた。憎んでいない。いかりも、ない。しずかで、おだやかな、赦しのいろ。

 

 もう、いいよ。これ以上苦しまなくていい。あなたも、わたしも。


 そうしてふたたび、鬼鏡姫を抱き寄せる。リューリュの腕の暖かさを、姫はおぼえている。想いの波がふたりを攫う。波は、暖かかった。


 その温度は、ゆっくりと、姫の刃を、ひとつずつ、ひとつずつ、こわしてゆく。壊れた刃は、雫になる。雫はやがて、呪いのことばと置き換わった。


 ……ごめん、なさい……ごめんなさい、きらいに……きらいに、ならないで……。


 リューリュは姫の肩に顔を埋めた。目を瞑り、懐かしい大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、柔らかい声をだした。


 姫さまの、ばか。きらいになんて、なるわけないじゃない。


 風が、吹いた。


 庭も、屋敷も、消えた。ひかりの野に、ふたりは立っている。


 見渡すかぎり、しろくひかる、花々。


 鬼鏡姫の手が、幼い紅の肩に置かれている。姫を見上げるそのちいさな瞳に、もう、邪気はない。姫はしばらく躊躇い、それからうなずいて、紅の背をそっと押した。


 リューリュは膝を折り、歩み寄る紅を抱きしめた。しばらくそうしていたが、やがて立ち、抱き上げる。


 リューリュはながい、長い時間、鬼鏡姫をみていた。それでもやがて、微笑みながらしずかに目を閉じ、踵を返した。紅を抱いたまま、あるきだす。


 ……まって。わたしもいく。わたしも、つれていって。


 鬼鏡姫は、足をだし、あるき、やがてはしった。リューリュと紅は、遠ざかる。まろび、もつれながら走り、追いついて、肩に手をかける。


 リューリュは振り返って、わらった。


 だいすきだよ、キョウ。


 鬼鏡姫の手は、ひかりだけを掴んだ。


 轟音。


 光景は、地上で生き残ったいくにんかが、目撃していた。


 天を貫いた巨大なひかりの柱。その中心から、ひとつの影がゆっくりと、降った。影はやがて屋敷のあたりにおり、そのしばらくあと、柱は、そらに吸い込まれるように消えたという。


 雷鳴がしばらく鳴り響いたが、やがて夜空を覆っていた昏い霧は消え、満月がもどった。灼けた地が、おだやかなひかりで照らしだされている。


 鬼も、巫女も、すがたはない。



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