#5 酩酊


 音色さんの姿を見なくなってから、間もなく三週間が経つ。


 年の瀬の足音が聞こえ始めた師走しわすの半ば、久し振りに開いた手帳のカレンダーを眺めながら、ふと指折り数えてみて驚いた。


 ――音色さん、元気かな。


 ちゃんとご飯は食べているのだろうか、と以前耳にした「お世辞にも健康的とは言いがたい生活」の話を思い返し、少しだけ心配になる。まるで遠くの弟を案じるお姉ちゃんみたいだな、と自分の思考回路におかしみを覚えて、ちいさな微笑が浮かんだ。



『仕事が入ったので、しばらく帰れません。また連絡します』



 携帯電話を手に取り、約三週間前に音色さんから届いたメッセージを読み返す。『わかりました』という自分の返信を最後に、ぱたりと連絡は途切れたままだった。


 彼が今、どこでどんなことをしているのかは、わからないけれど。

 きっと音色さんは、己の仕事に邁進まいしんしているはずだ、と信じているから、わたしも粛々しゅくしゅくと、淡々と、日々を送っている。


 仕事に行って、ご飯を作って、後片付けをして。お風呂に行って、眠って。洗濯や掃除や、こまごました家事をして。そうしているだけで、自然と時間は埋まっていく。


 少しも寂しくない、と言えば嘘になる。けれど、音色さんの不在のおかげで新たに気付けたこともあったなあ、と携帯電話の液晶を眺めながら、ここ最近のことを思い返した。



 最初は、あまりにも手持ち無沙汰で、何をすればいいのかもわからなくて、ひとりの時間を持て余してしまった。だからその空白を埋めるように家事に打ち込んだのだが、これが意外なほどに、充足感をもたらしてくれた。


 もちろん、誰かのために心を込めて料理を作ったり、掃除をしたりする方が何倍もやりがいがある。けれど、たとえ自分のためだけであったとしても、丁寧に身の回りの環境を整えていくことは、やはり心地よいと思えた。


 ではいったい、なぜそう感じるのだろう、と一輪挿しの水替えをしながらぼんやりと考えていたある時、不意に、あ、そうか、と腑に落ちた。



 わたしは、でき得る限り、周りにあるものを、日々の営みを、季節の移り変わりを、こうして慈しんでいきたいと想っているんだな。



 それは他人にとっては、ひどく些細ささいな。けれどわたしにとっては、大きな発見だった。

 少しの興奮と喜びとともに、音色さんに話してみたいな、伝えたらどんな反応を返してくれるかな、と真っ先に考えて。


 ああそうだった、音色さんは今お仕事中なんだった、とはたと我に返る。


 途端に、シンクに流しっ放しにしていた水の音がやけに大きく聞こえてきて、慌ててレバーを上げた。かち、こちと時計の秒針が回る音がしんとした部屋に響き、音色さんのいない時間を刻み続ける。


 あの瞬間の、乾いた静寂がどこまでも広がっていくような感覚を、今でもはっきりと覚えている。こちらを向いたフリージアの花を見つめて、苦笑を浮かべたことも。


 そう。きっとあのとき、気付いてしまったのだ。


 ――不在の時間というのは、そのひとの存在を、かえって強く浮き彫りにしてしまうのだ、と。



「……困っちゃうな」



 今までずっと、ひとりでいるのが当たり前だったし、何よりも落ち着くと思っていたのに。

 わたしはどうやら、誰かと一緒に過ごす時間の心地よさを、知ってしまったらしい。


 ――だから、音色さん。



「お仕事、がんばってくださいね」



 けして指先に乗せることのないその言葉は、握り締めた携帯電話の上に、ちいさく零れ落ちた。





 * * *



『あ、やっと繋がった! ねえミラちゃん、まだ起きてる?』



 繰り返し響く着信音に、寝ぼけまなこを擦りながら携帯電話を手に取ると、聞き覚えのある、くっきりした輪郭の声が鼓膜を突き刺した。

 少しだけ携帯電話を耳から遠ざけて、ミラちゃんってだれ、と回らない頭で考える。ああそうだ、わたしのことだ。鏡花、の鏡をとって、ミラちゃん。そんな未だかつてない渾名あだなを授けてくれたのは、誰だったか。



「……いちご、さん? おはよう、ございます」


『いや、今深夜三時前だから。まだおはようには早いけどおはよう。というかほんとにごめん、その声は寝てたよね。こんな時間に申し訳ない。――あのさ、もう音くんって家に辿り着いてる?』


「……いえ、わからないです。様子、見てきますね」



 少しだけ焦ったようないちごさんの声音と、告げられた内容に、寝ぼけていた意識が瞬時に覚醒する。寝間着の上にコートだけ引っかけるようにして、通話を繋いだまま玄関へと向かった。



『今日、飲み会があったんだけどさ。ちょーっと、面倒くさいのが来てて。俺をかばって、音くん、いささか飲みすぎちゃったんだよね。歩けてはいたけどだいぶふらふらだったからさ、無事帰ってるか心配で』


「いちごさんは、大丈夫ですか?」


『俺? 俺も無事抜け出せたから大丈夫だよ。ありがとね、こっちのことまで心配してくれて。で、どう? 帰ってそう?』


「少々、お待ちくださいね」



 玄関を施錠して、急いで隣の部屋へと向かう。渡されている合鍵を取り出し、こんな夜分にごめんなさい、と心の中で謝りながら扉を開けた。


 広い玄関口には、暗闇と静寂だけが広がっていた。灯りを点けてさっと見渡すも、靴は一足も置かれていない。まろぶようにして辿り着いたリビングにも、音色さんの姿はなかった。試しに耳を澄ませても、室内で誰かが動いているような気配は全くない。



「まだ、戻られてはいないみたいです。いちごさん、音色さんがそちらを出られたのはいつ頃ですか?」


『だいたい一時間前くらい。タクシー使ってるのか徒歩なのかはわかんないけど、どっちにしても家まで十五分もかからない距離のとこだったよ』


「そう、なんですね」



 相槌あいづちを打った後、沈黙が落ちる。互いに音色さんの身を案じている気配が、電話越しにも伝わってきた。



『……大丈夫だよ。音くん、ああ見えて相当お酒強いから。多分、どっかで行き倒れてるようなことはないと思う』


「……はい」



 自分を安堵させるための言葉だとわかっていたから、ひとつ息を吸って、小さく頷いた。



「あの、わたし、探しに行こうと思うんですが……その前に、岡崎おかざきさんにご連絡を差し上げた方がよろしいでしょうか?」


『待って、探しに行くのはほんとやめて。ミラちゃんをこんな深夜に外出させたら、俺が音くんに殺されちゃうから。捜索は俺に任せて。――マネージャーさんには、あと三十分待っても帰ってこなかったら連絡しよっか。あんまり大事おおごとにしたくないし』


「わかりました。では、わたしはこちらで待機していますね。戻られたらすぐに、ご連絡します」


『了解。ほんとありがとね、こんな夜中に。こっちも見つかったらすぐ電話するよ。それじゃまた後で』



 通話が途切れ、真っ暗なリビングの中に、携帯電話の光だけが、ぼんやりと溶けてゆく。時刻は、午前二時五十分を示していた。


 ――音色さん、どこにいるの。


 逸る指先で、音色さんの連絡先を呼び出して電話をかけた。無機質なコール音が繰り返し響いた後、現在電話に出ることができません、とアナウンスに淡々と告げられる。


 ――どうか。どうか、無事に、帰ってきて。


 祈るように、ぎゅっと携帯電話を胸の前で握り締めた、その瞬間。


 ポロロロロン、と、軽やかな音が鳴り響き、エントランスに来客が訪れたことを示すモニターが、点灯した。


 慌てて駆け寄り、モニターに表示された画像を食い入るように見つめる。そこに映し出された人影に、音色さん? と何度か呼び掛けてから音声通話が切れていることにようやく気付き、すぐさまボタンを押し込んだ。



「音色さん、大丈夫ですか! 下まで行きましょうか?」



 音色さんからの返答は、なかった。その代わりにゆっくりと手を右から左に動かして、入れて、と身振りで示してくれた。

 急いで開錠のボタンを押し、開けました、と告げると、駆け出そうとしたわたしを押し留めるかのように、再び音色さんが手を動かした。片手をかざす、待って、のサイン。ほどなく音色さんの姿がモニターから消えると同時に、わたしは玄関へと駆け出した。


 下まで来なくていい、とは意志表示をされたものの、大人しくリビングで待っていられるはずがない。慌ただしく靴を突っかけ、逸る指先で施錠を終えるや否や、エレベーターホールへとひた走った。


 七、八、九、と階数表示が近付いてくるのを、じっと見つめる。ひどく長く思える時間を経て、ようやく音色さんが乗ったエレベーターが、到着する。淡い光か零れ、扉が、開く。


 どこかおぼつかない足取りで一歩を踏み出した音色さんの全身からは、せ返るような強いアルコールの匂いが漂っていた。



「……だいじょうぶ、ですか?」



 思わず案じる言葉が口を突いて出てしまったものの、音色さんが大丈夫ではないのは明白だった。

 顔色が、悪い。無表情なのは苦しさを堪えているからだとすぐに悟り、掴まってください、と身体を支えようとすると、再び片手をかざされた。



「遠慮してる場合じゃないです! ほら、掴まってください!」



 半ば無理矢理、自分の両肩に大きな掌を導いて、電車ごっこのような体勢を取る。身長差があり過ぎるので肩を貸すことこそできないが、少しでも歩くのが楽になれば、と思って実行した策だった。

 歩き出した途端に、のし、と両肩に体重を預けられ、危うく前につんのめりそうになった。どうにか体勢を立て直してから、一歩、また一歩、と音色さんの部屋の玄関を目指す。



「音色さん、あと少しですよ」



 背後から聞こえる息遣いが、いつもより浅い。そのことに焦燥を覚えながらも、励ますように、労わるように、そっと声をかける。



「着きましたよ、おかえりなさ、」



 玄関の扉を開き、部屋に辿り着いた瞬間、音色さんの身体から力が抜けた。くずおれるようにその場にしゃがみ込んだ音色さんと一緒に、為すすべなく尻餅をついた体勢のまま、大丈夫ですか、と再び問い掛ける。

 うめくような声で、吐きそう、と小さく訴えられて、慌てて立ち上がった。



「ちょっとだけ待っててくださいね。――――音色さん、横になったら喉が詰まっちゃいます! あと少し、起きていてください!」



 駆け出そうとするや否や、音色さんの身体が傾いでいくのが見えて、さっと踵を返した。渾身の力で靴箱にもたれられるよう姿勢を変えると、目を閉じた音色さんは、ごめん、ありがと、と唇を動かした。


 大急ぎでリビングに走り、ゴミ袋とティッシュの箱を掴んで玄関に引き返す。どうにか姿勢を保っていてくれた音色さんに、お待たせしました、と告げてしゃがみ込んだ。



「袋を持ってきました。持てそうですか? 難しければ、わたし持ってますよ」



 無言で伸ばされた手に、二重にしたビニール袋を渡す。左手で袋を支え、右手で音色さんの背中をさすっていると、ほどなく苦しそうに嘔吐えづき始めた。吐き出されるのはアルコールと思しき液体ばかりで、俺をかばって、という電話口の言葉が脳裡を過ぎり、きゅっと唇を噛み締めた。


 しばらく背中をさすっていると、やがて吐き出すものがなくなったらしい音色さんが、肩を上下させながら顔を上げた。

 ありがと、とれた声で告げられ、首を振ってティッシュを差し出す。目元と口元を乱暴な手つきで拭った後、力尽きたように目を閉じた音色さんの掌からティッシュを回収し、袋に入れて口を縛った。


 お水を持ってきますね、と言い置いて再びリビングに引き返し、コップに少しだけあたためた水を入れて慌ただしく玄関に戻ると、音色さんはばったりとその場に横たわっていた。



「音色、さん? お水持ってきましたけど……起きられない、ですよね」



 問い掛けるまでもなく、音色さんは固く瞼を閉じたまま、小さく肩と背を上下させていた。

 どうしよう、せめてストローがあれば、と内心ほぞを噛むも、あいにく二人とも使う習慣がないものだから、どちらの部屋にも在庫がない。


 何かいい手はないか、と思案している間にも、浅い呼吸音が、玄関に繰り返し落ちていく。


 苦しそうなその音に、音色さんの憔悴しょうすいした表情に、否が応にも焦りが増していく。落ち着け、落ち着け、と手の中のコップをぐっと握り締めた瞬間、そうだ、と妙案が閃いた。



「……音色さん、お水は飲めそうですか?」



 目を閉じたまま、音色さんが小さく頷いたことを確認した後、わたしはおもむろにコップの中身を一口あおった。それからうずくまるような姿勢でしゃがみ込み、ほんの少しずつ、口移しで慎重に水を流し込む。


 強い酒精と、かすかな酸の匂いが鼻先を掠めた。ゆっくりとゆっくりと、音色さんが水を飲み下していくのを見てほっとしながら顔を離し、もう一口水を含んで、再び屈み込む。


 と、わたしの髪がぱさりと頬に落ちたはずみに、音色さんがうっすらと目を開けた。しまった、と慌てて右手で髪をかき上げると、不意に、音色さんの手が、わたしの手に重ねられて。


 ――強く、引き寄せられた。


 消耗した身体のどこに、こんな力が残っていたのか、と驚く間もなく、気付けば音色さんに覆いかぶさるような体勢になっていた。

 体重が負担になってしまう、と急いで身を離そうとした瞬間、大きな手に、後頭部をぐい、と引き寄せられる。重なった唇を割って熱い何かが滑り込んできて、思考と動作の一切が停止した。


 瞬くうちに含んでいた水分は奪われて、それでもまだ足りない、と言わんばかりに、口蓋を撫で上げられる。強い酒精の匂いとその感触にようやく我に返り、水はもうないです、と必死に目で訴えるも、すでに瞼を閉ざしている音色さんに見えているはずもなかった。それどころか、至近距離で長い睫となめらかな瞼の白さを目にしていることを不意に自覚してしまい、かあっと火が点くような羞恥に襲われる。堪えきれなくなって目を瞑ると、いっそう感触が鮮明になって、びくりと肩が跳ねた。


 音色さんの手が、熱い。

 くちびる、が、あつい。

 息が、できない。


 このまま頭から喰らい尽くされてしまうのではないか、という思考も、やがて脊髄が痺れるような感触と熱に、それからほろ苦い酒精に酔わされて、溶かされていく。


 溺れて、深く、深く、落ちていく。


 初めて知った酩酊めいていの味が少しだけ怖くて、上手く力の入らない指先で、すがるように音色さんの服を掴んだ。





 ようやく音色さんが顔を離した後、わたしは鳴りやまない鼓動と、去りやらぬ熱を持て余したまま、しばらくぼうっとほうけていた。いつの間にか倒れていたコップから流れた水が爪先を濡らし、つめたい、と思ったところでようやくすべきことを思い出し、携帯電話を手に取った。



「もしもし、いちごさんですか。――音色さん、無事帰ってきましたので、ご安心ください」


『ミラちゃん? よかった、音くん無事に帰り着いたんだ? ……というか、何かあった?』


「いえ、何も。それではおやすみなさい」



 半ば無理矢理会話を断ち切るように、通話を終了する。再び静寂を取り戻した玄関先に、すう、すう、と規則正しいちいさな寝息と、忙しない自分の鼓動が響く。何度か深呼吸をして、しばし迷った末に、もう一件、連絡先からとある人物の名前を呼び出す。



「夜分に申し訳ありません、岡崎さん。宮澤です、音色さんの件でご相談がありましてお電話しました。実は今、音色さんがご自宅に戻られたんですけど、玄関で寝入ってしまわれていて……このままだと風邪を引かれてしまいそうなので、寝室まで運んでいただけないでしょうか? あと、かなりお酒を飲まれているみたいで、そちらも心配で。一度戻した後、お水は少しだけ飲まれたんですが」



 深夜の電話だったにもかかわらず、相変わらず人のいいマネージャーさんは、すぐ行くよ、連絡をくれてありがとう、遅い時間だしきみはもう自分の部屋に戻って、と快諾してくれた。


 自分のコートを横たわっている音色さんにかけ、口を閉じたビニール袋と、水が零れてしまった床を上の空で片付けているうちに、いつの間にか時間が経っていたらしい。気付けばわたしは「ありがとうございます」と駆けつけてくれた岡崎さんに会釈をして、自室に戻っていた。


 玄関の扉を閉めた瞬間、わたしはへなへなとその場にしゃがみ込み、どうしよう、とひとりごちた。


 唇に灯ったままの熱は、未だに引かない。


 顔を覆うと、自分の呼気にもかすかに酒精が移っていることに気付いてしまい、たまらず両膝の上に頭を乗せた。



 ――明日から、どんな顔で音色さんに会えばいいのか、皆目かいもくわからなかった。



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