7章 ぼくの語る言葉で

7-1

『本当に、いちいちうるさい奴なんだ』

 一通り、自分が男を好きになった可能性を嘆いた後で、アランがついにそのきっかけとなった男について語り始めた。

『時間対効果だの費用対効果だの、その作業からは将来本当に利益を得られるか、とか時間や金を投資した分は必ず回収しなければいけない、とか手数料は嫌いだとか本当にうるさい』

『ふうん。なんか狂信的な神父みたいだね』

『神父? そうかな?』

『まあ何というか、強迫観念じみたものを感じるってこと。誰かに教え込まれた価値観なのかな』

『そんなこと知らないし興味もないけどっ』

 かたくなな様子でぶつぶつ口を尖らせる青年に、ぼくは笑って先を促した。

『わかったよ。それから?』

『それから、それで……うーん』

 途端に青年が困ったように黙り込む。気長に彼の言葉を待っていたぼくに、青年が何度も唇を歯に巻き込みながら言った。

『……それでさ、ルーク。ぼくも気づいた時、信じられなかったんだけどさ。たぶんあいつ、あれでぼくを口説いているつもりなんだ』

 そういって、アランが困惑も露わに目を伏せた。ぼくがおや、と思わずにはいられないような表情だったということを覚えている。

『そのことに気がついてから、もうそいつのことが気になって仕方なくて』

『よかったじゃないか。両思いだ』

『違うよ、最悪だよ』

 今まで何を聞いていたんだと言いたげに、アランが目を釣り上げる。

『……まあ、確かにそいつと付き合うのは大変そうだ』なだめるように、ぼくは青年に同意した。『どうせ付き合うなら、人と優しい方法でつながろうとする人との方が幸せだよね』

 アランがその綺麗な黒目でじっとぼくを見つめた。ご希望にお応えして、ぼくは説明を付け加える。

『ほら、君だって自分で気づいたんだろ。くどくど口うるさく自分の意見を押し付けることで、そいつは君となんとかして繋がりを持とうとしているんだ。——でもそんな風に相手と繋がりを持とうとするやつより、思いやりのある優しい言葉で愛を表現してくれる人の方が、一緒にいて嬉しいだろ?』

 ぼくの言葉にアランがふいに涙をこぼした。後にも先にも彼が涙を流したのはこの時だけだ。もっと酷い話を語る時でさえ彼の目は乾いたままだった。けれどその珍しさを知らなかったぼくはその時、その現象があまりにも静かだったことにただただ胸を打たれていた。



 それ以来、そいつがアランの話に出てくることはなかった。けれどあの短い会話の中で、アランはイーサンのことをうまく言い表していたと思う。

「君が、アランの秘密の恋人だったんだね」

 ぼくの言葉に、イーサンの目元が歪んだ。

「……アランから何を聞いたのか知りませんが、恋人なんかじゃありませんでしたよ、ぼく達の関係は」

 そう言って、青年はナイフとフォークを手に取った。彼に連れてこられたのは、ぼくの事務所から北に向かってしばらく歩いた場所にある、若者向けのダイニングバーだった。この時間にしては明るめに設定してある照明、オフホワイトの壁、見るからにフェイクの観葉植物の緑は夜の照明の中にあって一層そらぞらしいけれど、そのチープさが不思議と心地いい良い。

 ぼくの視線に気づいたイーサンが、どこか得意げに口を開いた。

「この値段でディナーが取れる店なんて、ブリズベンには他にないでしょう」

「確かに」

 そう同意して、ぼくは自分の手元のタンブラーを手に取る。青年から吐き出される言葉には淀みなく、声には張りがあった。ボソボソと消え入りそうな声で毒を吐いていたあの大学生と同一人物とはとても思えない。

 服装や髪型も、大学で会った時とは印象がずいぶんと違っていた。茶色がかった赤髪に、少し緑の混じったヘーゼルの目、しっかりとした造形の鼻とあご。分厚いカーテンのように顔を覆っていた前髪はきれいにセットされ、どこか没個性的な整った顔があらわになっている。

「値段に対して、量が多いんですよ」

「コストパフォーマンスってやつ」

 相手を真正面から観察することに慣れた二つのヘーゼルがぼくを見る。そして、ややごつごつした手で自分のグラスを手に取った。背の低い台形のタンブラーの中にはグレープフルーツが浮かび、そのふちには白い結晶がまばらに塗りたくられ照明を鈍く反射していた。ガラスの表面にはうっすらと霧のような薄い水滴が浮いていて、そのくもりを取るようにイーサンの親指がその表面をひと撫でする。

 三本の指でやすやすとタンブラーを持ち上げてソルティ・ドッグを舐めると、イーサンがやや大ぶりな仕草で首を振った。

「……あなたはいったいなぜ、ぼくについてこようという気になったんです?」

「なぜも何も、君じゃないか。どうしても今夜話がしたいと言ったのは」

「頼まれたら断れないなんていう、人となりでもないでしょう」

 ぼくはただ肩をすくめて、手元のギムレットを手に取った。清涼感のある爽やかなライムとまろやかさの増したジンの風味。レキサンドラの店のギムレットよりもずっと甘みがあって、辛口のアルコールを味わいたかった今のぼくには物足りない。

 なぜついてこようという気になったのか、か。確かに自分でも不可解だ。ぼくは今、カシムとヴィクトールの言う思考停止状態というやつに陥っているのだろうか。

 ため息と共にグラスを置いて、改めて青年に目を向ける。――いや、思考停止とは違う気がした。自分でも説明できないけれど、ここ数日の中で初めて、本当に自分自身で何かを決断したという小さな手応えがあった。この小さい手応えをたぐった先にどのような結果がぶら下がっているのかはわからないけれど、ぼくはその結果を後悔することはないだろう。

「アランの話を、君の口からもっと聞きたかったのかもしれない」

 残り少なくなった皿の上でフォークを動かしながら、青年がばかにしたように鼻で笑った。そこに存在する敵意は同じはずなのに、余裕たっぷりの表情とジェスチャーはやはりぼくの知っている彼とは完全に別人のものだ。

 ぼくが見守る前で、青年がその左手でソルティ・ドッグのタンブラーに触れた。レモンイエローの液体はまだ三センチほど底に残っていたけれど、あと二口も舐めれば空になるだろう。アングロサクソン系のどこか朴訥とした印象の顔、そしてどこまでも落ち着き払った佇まいと、身につけたものや持ち物に垣間見える余裕のなさが不釣り合いで目を引いた。

「君こそ、どうしてぼくと話をしたいと思ったんだい」

「ルーク、アランが最後に会ったのはあなただって聞きました」

「……いや。当日にアランと話をしたのは確かだけれど」

 最後に彼と話をしたのは、母親であるマリアだ。――違和感が頭をよぎった。ぼくがアランと最後の日に話をしたことを、彼は誰から聞いたのだろう。

 顔を上げたぼくに、赤髪の青年が続ける。

「あなたはその時、アランに何を言ったんです?」

「ぼくが、アランにした話が聞きたいんだ。アランがぼくにした話ではなくて?」

 ぼくの疑問を肯定も否定もせず、青年はただ眉を上げて肩をすくめた。彼の左手がテーブルの上を動き、またしてもその爪で彼自身の右手首を軽く引っ掻く。

「わかった、がんばって思い出してみるよ」

「お願いします」

「代わりにアランの話を聞かせてくれないかな」

「アランの、家に行った……?」

 唖然とした様子の青年に頷き、ぼくは続ける。

「彼の部屋を見ても、思っていたよりも彼のことが読み取れなかったんだ。アランの場合は、彼の私物が少なすぎてね」

「へえ。あいつ、物への執着は強そうだと思ってたけどな……」

 意外そうにつぶやき、すぐにイーサンは首を横に振った。

「……サイコメトリーは、まあローティーンの頃には誰もが一度は憧れますね」

「そんなに仰々しいものじゃないよ」

 あからさまにばかにした青年の言葉を、ぼくは笑って否定した。青年の左手はいつの間にか再びこぶしが握られており、いくばくかの力が込められていた。目を伏せるそぶりで自分のギムレットに目を走らせる。残りは四分の一ほどだ。残機としてはやや心許ない。

「家に行く仲だったあなたに、おれの印象なんてなんの意味もないでしょう」

「アランが、君にしか見せない一面だってあったはずだよ」

 イーサンの表情が、初めてほんの微かに揺らいだ。その次の瞬間、その揺らぎはもっと大きな歪みに塗り替えられる。

「おれに見せていた姿になんて、なんの意味もないんですよ。アランが本当に好きだったのはおれじゃない。おれに似た別のやつだ。見た瞬間すぐに解りましたよ。あいつは、おれと同じタイプの人間だと」

 やはり、イーサンはアランの初恋について話を聞いたことがあったんだ。そして、その相手がカシムだと気がついている。

「ぼくは、アランがそんなに器用なタイプだとは思えないけど……。でも確かにその高校の同級生の話をする時のアランは寂しそうではあったかな」

「そうですか」

 冷たくそう言うと、イーサンは見るからにこわばった左手を開いてタンブラーを掴んだ。残っていたソルティドックを一気に呷って、少しばかり耳障りな音を立ててテーブルに置く。レモンイエローの液体はすっかり底をつき、干上がった海の底に横たわる魚のようにグレープフルーツがタンブラーの中を転がっていた。

 測ったようなタイミングで店員がぼく達のそばを通り過ぎたが、イーサンは次のドリンクを頼まなかった。ぼくのグラスが干上がるのを待つつもりだろうか。

「おれも、アランはそんなことができるやつだとは思っていませんでしたよ。だから、本当に驚きました。アランにあいつとやり直したいと言われた時には」

 ちくり、と何かがぼくの首を刺した気がして、ぼくは無意識のうちに強く首を撫でていた。けれど手のひらに何の感触も捉えられないまま、ちくちくとした刺激だけが右あごから右肩のあたりまで広がっていく。

 嫌な予感に背中を押されるように、ぼくは低く尋ねる。

「……やり直したいって、まさかアランがそう言ったのか? でもアランとカシムは、まともに話したことさえなかったはずだよ。カシムもそう言ってた」

「アランがそう言ったんですよ。優しいそいつと関係をやり直したいとね」

 どこかで聞いた言葉に、ぼくは一瞬眉を寄せた。

 何か今、ずっと思い出したかった何かの記憶に、一石を投じられた気がした。

 思わず黙り込むぼくに、青年が続ける。

「それが、自分の人生を先に進めるためるために必要なんだそうです」

 ぞっとするほど冷ややかな何かが心をよぎり、ぼくは思わず自分の手元のギムレットを凝視していた。

 人生を前に進める。マリアがアランの死の直前に聞いたセリフだ。

 そしてぼくはもう思い出してしまっていた。アランが自分の人生を前に進める決心したのは、ぼくとの会話がきっかけだった。ぼくとアランの会話は、アランの死の直前の夕方。そして彼に最後にあったマリアがその言葉を聞いたのが夜。

 ――緩やかに死に向かう量の、何か睡眠薬のようなものを彼は飲まされていたのではないかと。

 アランが自らの死因となる何かを飲まされたとすれば、それが起こったのはぼくと別れてからマリアと会話を交わすまでの間のことだ。ぼくとマリア以外にその言葉を聞いているとすれば、それは彼に薬を飲ませた人物である可能性が高いのではないだろうか。――薄々、そうではないかと思っていた。この青年が、アランの秘密の恋人だと知った時から。いや、アパルトメントの前でイーサンに声をかけられた時から。

 ぼくはどこかで、イーサンが、アランの死の真相なんてとっくの昔に知っているのではないかと思っていたんだ。

 右手を軽く伸ばして、ぼくは自分のグラスを手に取った。そして気の抜け切ったギムレットを丸呑みする。

 ぼくがグラスを置いたのを見て、イーサンが店員を呼んだ。その様子を、スクリーン越しのように現実感のないままぼくは観察していた。

 サムが事務所で指摘していたことを思い出した。あいつは初めからずっと、アランの恋人を探していた。現実はミステリじゃない。突飛なトリックや誰も予想ができないような動機も、ほとんどの事件には存在しない。

 暴走する直感が導き出した答えを頭が処理しきれずに、身体中の痛みは酷さを増すばかりだった。

 感情の麻痺した心で見るイーサンは、それでもどこか得体の知れないものとしてぼくの目に映った。

 ――約束だよ

 アランの優しい声がする。

 ぼくが今こうしてイーサンの目の前に座っているのは、アランの采配ってやつなのだろうか。彼のためにできることが、ぼくにはまだ残されているんだろうか。ぼくはあの日、あの子とどんな約束をしたんだろう。

 この問いに答えがあるなんて、少しも期待していなかった。ぼくが彼と交わした約束がなんだったのかなんて、ぼくはこの数日で何百回と自分に問うてきたのだから。

 それなのに。まるでぼくの願いなんていつだって叶えてきたとでも言うような何気なさで、アランの声は突然ぼくの中で息を吹き返した。あの日、あの最後の日に交わした彼との約束が、笑ってしまうほどにあっさりと忘却の彼方から甦る。


 ――ぼくを信じて、見守っていてくれる?


 思わず目を見開いた。心臓がゆっくりと、ゆっくりと少しずつペースを上げる。捕まえた言葉が本当に正しいのか精査するために、そしてまたうっかり見失ってしまわないように――感覚の全てを自分の内側に集中させたぼくの脳裏に、彼の言葉が繰り返される。

 ――あなたの言う優しい方法で、ぼくは人と繋がっていけるだろうか。

 ――本当に、そう思う? あなたは、ぼくを信頼して見守っていてくれる?

 ――ありがとう、ルーク。約束だよ

「……思い出した」

 あの日、アランと交わした約束を。

 いや、こうして思い出してみれば、とても約束と呼べるようなものではなかった。思い出してみれば神聖なものだと思いこんでいた彼との約束は、他愛のない、青年のほんのささやかな甘えのようなものに過ぎなかった。

 乾いたままのまぶたを閉じ、ぼくは涙を流す代わりに微笑みを浮かべた。

「……ありがとう、イーサン。君のおかげで思い出せた」

 青年の余裕たっぷりな表情に、胡乱げな色が混じる。そんな表情をすると、大学で話をした時の彼の印象にずいぶんと近づいた。どちらの姿も、彼自身の一部ではあるのだろう。そんなことを思いながらぼくは続けた。

「今なら答えられるよ。ぼくが君についてきた目的を」

 ぼくの持って回った言い回しが気に入らないのだろう。心底嫌そうに、イーサンが口を開く。

「一応聞いてあげますけど、その目的っていうのは一体何なんです?」

「アランとの約束を果たすためなんだ」

 斜に構えていたイーサンが、ぼくの方へと向き直った。ようやく、ぼくと彼のヘーゼルアイズが、しっかりと噛み合った。その視線を逃さないように気をつけながら、ぼくはゆっくりと繰り返す。

「ぼくは今日、ここに、アランとの約束を果たすために来たんだ」

 ぼくの言葉が終わらないうちから、青年の目に強い警戒が点滅し始めた。じりじりとその全身から攻撃的なエネルギーが溢れ、ついに激しい波となって勢いよく吹き出す。

 まるで凶悪なハリネズミのような姿に、ぼくはふっと口角を上げた。

 見届けるよ、アラン。君の下した決断の、その行く末を。――それが君の望みなら。

「イーサン。ぼくと少し、話をしようか」

「……話なんて、もうしているでしょう」

 彼の言葉を受け流して、ぼくは言葉を重ねた。

「君はアランは幸せだったと思う?」

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