5-4
今日中に確認をしなければいけない仕事を一通り終えた瞬間、視界がぐるりと回るのを感じた。体感時間が間違っていなければ、夕方の五時くらいだった。
椅子にもまともに座っていられなくなり、ふらふらとソファに倒れ込む。澱のようなものが体の奥から滲み出して、ぼくをソファへと縛り付けた。たぶん寝不足が原因だだろうけれど、まさか自分がここまで疲れ切っているとはさすがに思わなかった。
ぼくは自分が唯一できそうな作業を諦めて、眼球を動かして部屋を見た。インテリアデザイナーの事務所としては完全に落第点だ。クロエが帰った後、そのまま仕事に取り掛かったためデスクは乱雑に散らかったままで、台所には茶葉やコップが出しっぱなしになっている。
テーブルにはカップ、皿、そしてぼくへの重すぎる愛の手紙と、それを保管していたベージュの箱が置いたままだった。その隣には青い目玉のお守りが転がっている。
そのまま少しの間記憶が途切れた。
次に意識を取り戻した時、ぼくの体は多少動き回れる程度に回復していた。
深呼吸をして、そして一気に体を起こす。空腹なのか喉が渇いているのか、眠りたいのか体を動かしたいのか、自分の体が何を望んでいるかが分からなかった。冷蔵庫で冷やしていた浄水を一杯飲み、デバイスを手に取った。五時四十分。思っていたほどには時間は経っていない。
今日もブライアンは来るんだろうな、と思いながらぼくはふらふらと外に出た。エレベーターに乗り込みながらふと、自分が一人で出歩くことへの不安がよぎった。ブライアンから昨日、ぼくの飲み物に悪さをした男の映像を見せられたばかりだ。あまり無意味に外に出ないほうがいいのかもしれない。
けれど、その不安をすぐにぼくは打ち消した。最寄りのスーパーは、街の中心部にあるぼくの家から、さらに街のさらに中心へと向かう道沿いにあった。ブライアンから見せてもらった映像は確かに気になったけれど、この時間に危険な目に遭遇する方がきっと難しい。
あくびをしながら華美なエントランスを横切っていると、それに気がついたメーガンが口角を上げて近づいて来た。
「ハイ、ルーク。こんなに時間にお出かけなの?」
「やあ。ちょっと買い物に行くんだ」
「買い物……。クイーンストリートモール?」
「ううん、ウールワースに。ジュースと炭酸が飲みたくてさ。ぶどうジュースを買うつもりなんだ。グレープフルーツでもいい」
メーガンがほんの微かに視線を逸らせた。その視線が素早くエントランスの掛け時計を確認する。
ぼくの視線に気づいたメーガンが、すぐにその目をぼくに戻して微笑んだ。
「そう。気をつけてね」
彼女の言葉にお礼を言って、ぼくは自動ドアを通り過ぎた。アパルトメントの正面を走る道を右にすすむ。六時前のブリズベンはまだ十分に明るく、そして遠くには一つ人影が見えた。
いつもの習慣に従って建物と建物の間を通り抜ける近道に入ろうとしたけれど、狭くて暗い裏通りを目にした瞬間に思いとどまる。この道を通り抜けたとしても、自分の身に何かが起こるとはやはり思えなかったけれど、ぼくを心配する大学生たちやレキサンドラ、そしてブライアンの声に従って、ぼくはそのまま明るく開けた道を選んでスーパーへと向かう。
結局危ないことは何も起こらないまま、ぼくはピンクグレープフルーツジュースのパックと炭酸水、それにビネガー味のポテトチップスとチョコチップクッキーを携えて来た道を引き返していた。歩くごとにどんどん体が軽くなるくなる日もあるけれど、歩くごとに体が鉛のようになっていく日もある。今日は明らかに後者だった。
思い返せば、ここ最近のぼくのスケジュールは無茶苦茶だった。この三日間の出来事だけでも、クロエの推理、ブライアンに見せられた画像、二人の大学生と手紙、ブライアンのプロポーズ、マリアとアランの話と盛りだくさんだった。果たしてぼくは、平和な日常に戻れるのだろうか。
ため息をつきながら足を引きずっていると、ポケットに入れっぱなしにしていたデバイスが震えた。あまり気は乗らなかったけれど、長年染み付いた習慣でポケットから機器を取り出す。コール相手はブライアンだった。
「ルーク、今どこにいる?」
通話ボタンを押した瞬間、ブライアンが張り詰めた声でぼくを問い詰めた。
「ええと、ちょっとスーパーに行ってて」
「ああ、メーガンに聞いた。もう帰り道か?」
「うん。まだ店を出たばかり」
「迎えに行く。お前に話さなければならないことが出てきた。くれぐれも裏道は通るな」
迎えって、この十五分に満たない道のりを? ――と、思わない訳ではなかったけれど口にはしなかった。びりびりと電流でも走っていそうな低い声に圧倒される気持ちと、そしてぼくを心配して迎えにきてくれることへの照れくささに、ぼくは素直に「ありがとう」と返事をする。
「まあ、お前に少しでも早く会えるのは嬉しいよ」
二秒にも満たない沈黙の後で、ブライアンがそれまでに比べてほんの少し緩んだ声をぼくの耳に吹き込んだ。
「……まっすぐに帰ってくるんだぞ」
「お前の方こそ早く迎えにきてくれよな」
我ながら呆れるほど浮かれたセリフに、ブライアンは生真面目に「分かった」と答えた。そこ微かに見え隠れする浮き足だった響きに、ぼくは少し元気を取り戻した。今なら部屋を一気に片付けられそうな気がした。自分の好意を喜んで受け止めてくれる相手がいるというのは、なるほど、確かに人を狂わせるほどの多幸感をもたらすものだ。
口元の緩みを抑えられないまま顔を上げると、五十メートルほど離れたところからこちらに向かって歩いてくる人影が目に飛び込んできた。
すぐそばの街路樹がざわめきながら身を揺らせ、姿の見えない鳥たちがけたたましく声を張り上げる。なんの面白みもないコンクリートの道を風が走り、堆積していたチリと葉っぱを巻き上げていった。
まるで蜃気楼でも纏っているかのように、周囲から一際くっきりと浮き出る人影が、長い脚でぼくのほうへと歩み寄ってくる。――そんなはずはないのに、一瞬だけブライアンかと思った。道端には他にも何人かの人が歩いていたけれど、その人影だけが不思議とぼくの目を惹きつけたから。背はブライアンと同じくらい高い。それに体格も良かった。
意識の半分以上をまだブライアンとの会話に持って行かれたまま、ぼくは無警戒にその人影を観察した。体にぴったり合ったブランド物のグレージュのシャツに、インディゴのストレートジーンズ。サングラスで覆われていて目元は見えなかったけれど、その薄い唇は笑みを形作っているように見えた。
積極的に関わりたいタイプの人間ではないな、なんてことをぼんやり考えながらぼくもまた、引き寄せられるようにその人影の方に向かって歩き始めた。
このままただすれ違い、五分後にはすっかり忘れるはずだった。それのに、その人影との距離が近づくにつれてなぜかぼくの体が急速に不調を訴え始める。手先が痺れたように震える。体の中心部が急激に冷えて、それなのに汗がじわりと額に滲んだ。
自分の体の訴えに戸惑いながらも、ぼくはその人影から視線を引き離すことも足を止めることもできずにいた。その人影はよくあるキャップを被っていた。どこのスポーツ用品店でも売っていそうな、服装にそぐわない黒のベースボールキャップ。
その帽子には見覚えがあった。
薄暗い店の入り口を取られたあまり画質の良くない二秒ほどの映像が頭の中で再生され、その映像の中で黒のキャップを被った男が画面の左から右へ向かって歩き去っていく。
ブライアンが店の店主から無理を言ってもらってきた短い監視カメラの映像と目の前の男が重なった瞬間、ぼくの心臓が大きく一度跳ねて呼吸を奪った。そのままどくどくどくと、肺を圧迫する勢いで早鐘を打ち始める。
アランが死んでしまったその日の夜にぼくの飲み物に何かを入れて、そのままぼくを家まで送り届けたという男――戦慄と共に、それが目の前の人影と同一人物であると理解する。
「……なんてこった……ブライアン、ブライアン……」
頼みの綱の元刑事の名前を口の中で唱えたけれど、算数で習った距離の計算を持ち出すまでもなく彼の迎えが間に合わないことぐらい分かってる。怪我をする前のあいつが、ぼくとの電話を切った瞬間に全力疾走でもしていない限り。
その想像にぼくは少し冷静になった。例え手術後の脚でも、ぼくに何かあればブライアンが怪我を厭わず駆けつけてくれることは容易に想像がついた。――こんなことで彼の脚を悪化させるなんてことを許すわけにはいかなかった。落ち着け、ルーカス。自分でうまく対処するんだ。
ふうっと息を吐いて胸を張った。真っ直ぐに前を向き、いつもより少し大きく腕を振って歩く。
考えてみれば例えあの日、目の前の男が悪意を持ってぼくに近づいたのだとしても、今ぼくに何かをしようとしてここに現れたとは限らない。ここはブリズベンだ。偶然通りがかった可能性だって十分に高い。だとすれば、下手なことをして相手を刺激しない方が得策だろう。
黙々と足を進めながら、ぼくは自分に言い聞かせる。
そもそも、彼があの日ぼくの飲み物に何か入れたっていうのもぼくの勘違いだってこともあり得る。ただ親切に、ぼくを家まで送り届けてくれただけかもしれないのだ。――いや、ぼくが誰かに送り届けてもらったという記憶の方が勘違いで、彼はたまたまあの店に居合わせてうっかり防犯カメラに写ってしまった、見ず知らずのただの他人かもしれない。
行動を起こさない理由を並べ立てている内に、思考の道筋が逸れていく。
そういえば、元々あの夜の男のことを調べ始めたきっかけはぼくのアリバイだった。刑事に脅されブライアンに脅かされて、ぼくは薄い氷の上に立たされているような心もとない気分であの夜、ぼくと共にいた男に自分のアリバイを証明してもらおうと思い立ったのだ。あの時は自分でも呆れるくらい、自分のことでいっぱいになっていた。
今はどうだろう。アランのいろいろな一面を知って、彼の中の自分の存在の意外な大きさを思い知っていく中で、自分の世界をただ守りたいという思いがいつの間にか別の願いに変容してしまったのは確かだった。おかしなことだ。ぼくはまだ、アランの笑顔ですら思い出せてはいないというのに。
――本当に、そう思う?
青年の声がぼくの体の中でぽつりと反響する。
――ありがとう、ルーク。約束だよ……
音の雫が波紋を呼び、静かに広がっていく。
やがて全ての波も揺らぎも通り過ぎた、ひと時の空白が訪れた。
クリアな鏡のように一切の揺らぎのない完全な凪の世界に、その時、ぼくが焦がれて焦がれてやまない女性の声が響き渡った。
――ルーク‼︎
はっと現実の世界に引き戻された。なんの変哲もないコンクリートの一本道を、ぼくはいつの間にか半ブロックほど歩いていた。夕暮れのブリズベンに影を作り出す街路樹、視界の上部を鳥らしき黒い影が飛び去っていく。
そしてあの夜の男が、ほんの三秒ほどですれ違う距離からぼくを見下ろしていた。
彼の目はしっかりとサングラスに覆われていたというのに、一体どうしてそう確信したのだろう。
彼がぼくのことを覚えているのだということも、彼がぼくになんらかの悪意を持って近づいたのだろうことも、ぼくは一瞬にして理解していた。
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