Episode05:カゴノトリ

 ヘリオトロプに短くも春が訪れる季節が近づいていた。

 日照時間が僅かに長くなり、花雪ホアシュエが長雨へ変わる程度のものではあったが国中の人間がほっと胸を撫で下ろす季節だ。

 リオは相変わらず半軟禁生活を送っている。

 退屈で長い時間を紛らわすのには苦労しているらしく、差し入れに手当たり次第書物を贈った。彼女の部屋の一角には書物が塔を作っていた。

 ふた月は経っていただろうか。ミルキィウェイから歌姫が消え、それが日常化した頃に監視の張り込みはなくなったようだった。

 それでも、ユーリィがリオを店へ引き戻すことはなかった。

 週に一度だけは、様子を伺いに来るのだとリオは微笑う。

 ある夜、いつものように彼女の部屋を訪れたイリスは夕食にシチューを共に摂り、予期せず話し込んで長居をしていた。

 そこへドアをノックする音が響く。

 キチネットで食器を片すリオが、目配せでイリスに出て欲しいと伝えてくる。

 こんな遅くへ訪ねて来るのは、ひとりしかいない。薄く開いた扉の向こうに覗く相手は、予想通りに悪友、ユーリィだった。

 手土産にブドウ酒の酒瓶を抱え、その顔色はほんのりと紅い。

 

「なんだ、ちょうどいい。お前にも聞いて欲しい話がある」

 

 よいせ、と上がり込むユーリィの体躯がわずかに左右へ揺れる。知る限りでは相当のウワバミだった。どれだけ飲んでも顔にも足にも出ないはずなのだ。

 肩越し振り返るリオもその様子に驚きを見せ、水差しとグラスをテーブルへ運んだ。

 イリスはふら付くユーリィの身体を支えるべく手を差し出したが、笑って大丈夫だと首を振られ、ソファへ腰を下ろすまでを見守った。

 

「深酒するほどのなにがあるって」 

「今日は人に会ってたんだよ。まァ、旧友ってやつだな、……俺だってたまにゃハメも外すさ」

 

 ユーリィはリオから水のグラスを受け取って、一度にぐびりと飲み干した。

 イリスは彼の隣へ腰を下ろし、リオはテーブルを挟んで椅子に着く。

 

「海を渡った隣国で、新ビジネスを起こすんだと。手始めに働き手を欲しがってる。……どうだ、行く気はあるか」 

「シークレスト……。紅眼ロゼリアの故郷ね」 

「……ま、向こうでも少数民族には違いないけれどな。こっちより随分と発展しているらしいぜ、住み心地はいいのかも知れんな」

 

 淡々とした会話にイリスの胸はざわつきを隠せない。視線だけで二人を窺うが、ユーリィにしてもリオにしても是とも非ともない反応だった。

 

「い、……行くの?」

 

 絞り出すような声で訊ねるのが精一杯だった。その背を冷たい汗が伝い落ちるのがわかる。 

 リオの眼差しが向く。瞳を細めて薄く笑ったが、すぐに視線はユーリィへと戻ってしまった。


「選択しなければならないということね。さすがにこんな生活にも飽きたわ、屋敷へ戻ることさえも考えるぐらいには」

「俺の旧友、とは言ったがまあ俺よりアクの強い質でね。ひと筋縄で済むような奴じゃあない。……何せ紅眼を好んで雇う、水商売の元締めだ。あちらではそのつもりはないと言い切ったが、あまりにムシのいい話だ」 

「そ、そんなの引き受ける方がどうかしてるじゃないか。みすみす、同じようなデメリットの環境に誰が行きたがるって言うんだ」

 

 素っ頓狂な声を上げたイリスに、ユーリィは小さく肩を竦めてみせた。わかってはいる、だからこそ酔いが過ぎるまでながらの思案をしていた、ということだろう。

 リオは口許へ手をやり、考え込むように伏し目がちでいる。

 

「考えるまでもないじゃないか、……シークレストだなんて」

「心配なら一緒に行ってやる、ぐらい言えよイリス。事態は楽なもんじゃないぜ、お貴族サマを出し抜いてやらなきゃコイツの自由はないんだ」

 

 対面のリオを指して言うユーリィの言葉はもっともなのかも知れない。手放しで彼女にそう言ってやれるのならどんなにいいだろう、イリスは自分のうだつの上がらなさを情けなく思っては苦々しく俯くしかなかった。

 

「――いいわ」

 

 それははっきりと響く声だった。

 三人同時に面を上げ、互いに視線を交わす。

 リオの表情には迷いがまるで見られないようだった。

 

「乗りましょう。今さら屋敷へ戻ってもより面倒なことになるかも知れないし。……向こうで消息不明になったら、ごめんなさいね」

 

 人差し指を口許へ添えて悪戯にウインクして見せるリオに、イリスの胸中はいよいよもって、ざわつきが激しくなり、無意識に胸元を押さえて言葉を詰まらせた。

 息すらも詰めて、とても彼女の瞳を見ることができない。

 

「そう言うよなァ。……わかった、話をつけておく。俺としても、その方がいいのかも知れんとは思ってるよ。紅眼に対する価値観はこの国特有のものだからな、向こうでこっちのような真似はしないだろ」

 

 どこにも保証はないじゃないか。

 イリスは叫びたかったが、声は咽喉に張り付いてしまっていたし、だからと言って打開策が他にあるわけでもなかった。黙するほかない。嫌だ嫌だと駄々を捏ねるだけなら幼子にもできることなのだ。

 

「………腹を決めるんだな」

 

 懐から煙草を取り出し咥えたユーリィが、立ち上がり様にイリスの耳元で低く囁く。ポンと肩を叩く手がひどく重く感じられた。


「それじゃア俺は帰るぜ。……奴に連絡してやらないとならんでな。おやすみ」

「おやすみなさい、わざわざありがとう」

 

 軋む扉と、遠ざかる足音。ユーリィを見送る元気すら失くしていた。

 扉を閉めて戻ったリオがそっと隣へ腰掛けてきて初めて、イリスは顔を上げた。揺れる瞳で彼女を見つめると、小首を傾げて薄く微笑いかけてくれる。

 

「あなたが落ち込んでくれるから、わたし決心がついたのね、きっと」

 

 どうして。問い掛けるより前に、リオの白い手がイリスの頬を包んだ。胸から込み上げてくるものが熱く、堪えようとして視界がわずかに滲む。いつかのお返しのように、リオはイリスを身体ごと引き寄せて髪を撫で梳く。

 

「怖くないって言ったら嘘よ。でも、あなたの前で弱さを見せたくないのね、ううん、心配掛けたくないって思ったのよ」

「……ただシークレストへ行くだけなら、何もそんなよくわからない相手を選ばなくたっていいじゃないか。そんなぐらいならいっそ……――、」

 

 オレと一緒に。言いたい言葉は、言えない。自分自身が一番よくわかっていることだった。今ある環境をかなぐり捨てて、彼女と身一つで国を出る自信なんてなかった。それをやり遂げるだけの根拠も勇気も持ち合わせていない。

 彼女のためにしてあげられることはそう多くはない。


「そんな顔しないで。わたしは、そんなに弱くないわ」

 

 浮かない顔を指摘されては眼差しを必死に逸らす。

 一瞬の隙を突いて、ふわりと柔らかな感触が唇に触れた。

 花びらのようだ、と思ったそれは、彼女の紅い唇であることを離れ様に知る。

 

「あなたに逢えて、よかった」

 

 囁きは幻のように儚く、そのくせいつまでも耳に残った。

 とてもうれしいことのはずが、イリスの心は浮かないまま、夜を過ごした。

 どのように、どうやって自宅のベッドへ戻ったのかさえ思い出せない程に、何もかもが意識の外にあった。


   ***


 看板を迎えた早朝、陽が昇るまではまだ数刻はあるが夜と呼ぶには遅すぎる時間。

 客の捌けたミルキィウェイのカウンターで、ユーリィは悠々とロックグラスにブランデーを注いで自身を労う。

 その憂う眼差しはステージ上の歌姫へ一心に注がれていた。

 文字通りの独壇場となったステージで、電源を切ったマイクロフォンを前に風の囁くような声音で歌声を奏でる彼女は、一週間前、彼が猛吹雪の中拾ってきた流れ者だった。

 馬から投げ出されでもしたか、花雪に埋もれて凍死しかけない状況で偶然通りかかったユーリィが連れ帰り、住処と仕事を与えて今に至る。

 

「………その歌はどこで習った?」

 

 耳に懐かしいメロディラインを捉えて、ユーリィは訊ねた。

 ハッとして顔を上げたリオは、色素の薄い翡翠色の瞳を瞬かせる。

 

「昔、子どもの頃に聴かされた子守唄よ」

「ああ、道理で」

 

 グラスを揺らしながら頷きを重ねる。

 ひと口酒を煽ると、ふと神妙な面持ちになりグラスを置いた。そのまま、リオの前までユーリィは歩みを寄せ、左手に彼女の細い頤へ指を添えた。

 突然の挙動に、リオは身を強張らせてユーリィの瞳を直視している。

 

「俺の母親がよく口ずさんでいた歌だ。……紅眼の伝統歌だよ」 

「………ッ」

 

 リオの身体があからさまに震えた。

 その瞳が何故と問うては、瞳孔を揺らす。

 

「俺は水蓮市生まれでね、……まァアンタがその出身だというのはわかってたことだけど、まさかだぜ」

 

 鼻先を近づけては瞳の虹彩をジ、と間近に覗き込む。淡い翡翠色は、ヘリオトロオプ人特有のそれより薄い。

 ユーリィは頤へ触れる手をそのままに、反対の手で彼女の腰を抱く。

 一瞬のようで、とても長い時間だった。

 被さる影の下、噛み付くように幾度と口付けは成される。まるで、吸血鬼のように。

 腰を引こうとする彼女を強く引き寄せてやれば、最後には抵抗もなく腕の中で大人しくなる。

 

「……アァ、やっぱり」

 

 薄らと瞳を開いたリオに、唇の隙間でユーリィが零す。真っ直ぐな眼差しは口付けの合間も彼女の瞳を注視していたのだとリオは気付いて震える。

 足に力が入らなくなったか、バランスを崩したところをすかさずユーリィが支える。

 伏し目がち、俯いたその彼女の視線の先には磨かれた壁鏡が映る。ユーリィもまた、その視線の先で口許だけで微笑って見せた。

 リオの翡翠色の瞳は、いつしか淡い水紅色へと変わっている。それは朱鷺の羽根を思わせるような色味。

 

朱鷺トキ紅眼アカメ。純血種よりずっと物珍しい、紅眼の一級品。俺も自分の目で見るのは初めてだ」

 

 ユーリィはうっとりとした声色で囁く。

 確かめて満足して、彼女を解き放った。再びカウンターへ戻り、グラスの酒を舐め始める。

 

「紅眼とヘリオトロオプのハーフは大半が碧眼、時々紅眼。碧眼の中でもほんの数パーセントしかいない、熱と情で色味の変わる希少種、だってな」

「……ただの雑種よ。そんないいものじゃないわ。ねえ、それより」

 

 リオの顔色は蒼褪めていて、ユーリィの傍へ歩み寄っては懇願するように瞳を潤ませる。

 

「お願い、彼には……イリスには言わないで」

「は、何を怖がる必要がある。あいつはそこまで狭量じゃあないぜ」

「……お願い。淫売な女だって思われたくない」

 

 あの少し間の抜けた友人が、そんなことを思うだろうか。ユーリィは逡巡したが、過去に紅眼に遊ばれた経験があることを話したことで、リオには一種の恐怖対象になっているのだろう。

 しばらく黙って酒を嗜んでいたが、やがてゆっくりとユーリィは口を開いた。

 

「別に、俺は構わないぜ。口止め料ならもらった」

 

 言う必要もなければ、早々とばれるものでもないだろう。そう考えていた。

 胸撫で下ろす彼女を前に、ユーリィは然して大事には捉えなかった。ましてや、その境遇や、身辺についても大事には思わなかったのである。その時点では。

 

 

「どうせなら何か交換条件でも出しておくんだった」 

「……なあに、なにか言った?」

 

 手慰みに紅い毛糸を編むのに夢中のリオを前に、頬杖ながらユーリィは溜息を零した。

 週一度、覗きに来る度に彼女の容貌を眺め見ては、思い出したようにほんの少しの後悔をする。キスのひとつやふたつでは報酬にもならない。そう考えるのがこの男だった。

 

「食いはぐれちまったなァって言っただけだよ。……俺の取り分がない」

「今度伝えておく」

「――は?」

 

 暗に遠回したはずの言い回しに即答が返っては、ユーリィも真顔を曝さずにはいられない。その視線に応じるように顔を上げるリオは悪びれずに首を傾げる。

 

「イリスの手料理でしょ。意外と、食い意地張ってるのね、あなたって」

「リオの手料理でも構わんぜ、俺は」

「節操なし」

 

 またまたすかさず返るリオ言葉の鋭利さは、本質を見抜かれたようでぴくりと眉が動きそうになるのを必死で堪える。何事もない風を装って流し見る彼女の横顔は、再びと毛糸の結び目を数えるのに必死になっていた。

 言動の意図を把握していてもそうでなくても、「食えない」相手であることに変わりはない。

 また魚を逃した。ユーリィは世話焼きの自分にほとほと、呆れ返るしかなかった。

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