牙
人々は光を見た。
暗き底に差し込む、一筋の光を。
地に伏し祈りを捧げていた者。
呆然と天を仰いでいた者。
狂ったように笑みを浮かべていた者。
これは神罰であると、声高らかに主張していた者。
屋敷から轟く怨嗟の咆哮に、それぞれ異なる反応を示していた人々。
そんな彼らが、皆一様に光を見つめる。
そして、静かに涙を流した。
白き光の奔流を眺めていると、何故だか分からない。
胸の奥で、温かい何かが灯った感覚を覚える。
それはまた、この男も例外ではなかった。
「何が、起こっているのだ……?」
ふくよかな肉体を揺らしながら、肩で息をする男。
屋敷の半壊から辛くも逃げおおせた、酒王その人であった。
彼もまた、他の皆と同様にその光を見た。
瞬間、胸にこみ上げる懐かしい感覚。
形容しがたいこの感情は、いったい。
「この世界は、どうなってしまうのだ」
酒王が静かに一人言葉を漏らす。
その表情は不安に塗りつぶされていた。
あの日から、夢を捨てざるを得なかったあの日から。自分の中で、何かが止まっていた。
目を輝かせ、夢を語っていたあの頃の自分はもういない。
だが、何故だろう。
今になって突然、その止まっていたモノが動き始めるような。そんな気配がしてならない。
不安。不安だ。
「どこにいるんだ…………、アケロス」
酒王――バレクは静かに弱音をこぼす。
信頼を寄せる友に投げかけた言葉は、風に吹かれて消えていく。
光の柱は依然、人々を無条件に照らし続ける。
抗争は遂に、終わりを迎えようとしていた。
☨ ☨ ☨
ヨルドは無言で、漆黒に覆われた兜を脱ぎ捨てる。
地面に投げ捨てられた兜は、そのまま黒い液体となって地表の染みと化す。
視界良好。
問題無し。
ふと右手に視線を向ければ、未だに白き光は色あせることなく輝き続けていた。
まるで、友を励ましているかのように。
「俺は本当に、一人じゃ何も出来ないんだなァ」
その言葉はヨルドの口から出た本音であった。
まず初めに、リターシャに背中を押され。
次に、クックルに
戦の最中、敵であるはずのイズルに肯定され。
そして、遠く離れた友人が勇気を与えてくれた。
深い闇の底から、俺を浮かび上がらせてくれた。
こうして今、もう一度やり直すチャンスが目の前にある。
だから。
「……お前は、凄い奴だよ」
ヨルドはそう言って、相対する存在に対して言葉を投げかける。
満身創痍、疲労困憊の様相のイズル。
まさに、風に吹かれれば消えてしまうような風前の灯火。
その、はずだったのに。
「まさか一人で至っちまうとはなァ…………」
ソレは、ヨルドが身に纏う黒とは異なるモノであった。
深紅の蒸気を身体から吹き上がらせ、悠然と佇むイズル。
どこもかしこも傷だらけでありながら、その瞳には静かな闘志が輝いている。
ゆっくりと血液が皮膚を伝い、刀身を渡り、地面にこぼれ落ちていく。
ポタリ。
地表にぶつかり、弾ける血液。
瞬間。燃えるように、赤き血はその姿を蒸気に変える。
「………………不思議な気分だ」
その様子を尻目に、イズルはゆっくりと口を開いた。
「身体が燃えるように熱いのに、感覚は今まで以上に澄み渡っている。こんな感覚、今まで味わったことが無い」
剣を持たない方の掌を見つめながら、信じられないと言った様子で語るイズル。
ヨルドはそんな姿のイズルに対し、心の底から感嘆のこもった声色で口を開く。
「そりゃそうだ。お前は遂に、憧れに並び立ったんだからな」
「……あこ、がれ?」
「ああ」
呆然と言葉を漏らすイズルに対し、ヨルドは複雑な感情を織り交ぜながら笑みを浮かべる。
「ようこそ、龍の世界へ」
「あ……………………」
その言葉で、ようやくイズルは意味を悟った。
彼らの領域に至るために、どれほど苦悩したことか。
失敗作の烙印を押されながら、それでも自分を信じてくれた人たちの為に行動し続けた。
だが、その努力は実を結ぶことなく、最悪の結果をもって終わりを迎えた。
しかし。
ここに来て、遂に――――
「龍をも殺し得る究極の牙、龍血をモノにするとは…………ったく。だから言ったんだ。お前のどこが、落第生なんだってなァ」
イズルという男は、その類稀なる経験と覚悟を持って、
「は、はは。信じらんねえ……」
困惑、歓喜。
混沌とした感情が入り混じった表情で、イズルはポツリと呟いた。
それはまた、ヨルドも同様であった。
自分がこれほどまで無様な姿を晒し、自らの力に振り回されているというのに。
この男は、たった一人でその領域に足を踏み入れたのだ。
ヨルドの胸中には、複雑な感情が渦巻いていた。
「まさかこんな――――――」
そして。
「最後の最後で、こんなところまで来れるなんて」
同時に、とても虚しく思った。
イズルの言葉を受け、ヨルドはゆっくりとその身体を見渡した。
止まることなく流れ続ける血液は、確かに致命的な傷跡である。
だが、問題はそこではない。
龍紋が刻まれた右腕。
イズルの呼吸に呼応するように、その紋章もまた脈動を繰り返していた。
真っ赤に燃え盛る炎のごとく。思わず目を瞑ってしまうほどに、龍紋は深紅に輝いている。
「ここまで、か」
イズルは、悔し気に顔を歪めた。
この身体が悲鳴を上げている。
もう、限界であると。
「元々は適性の無い肉体を、無理やり躍進させるための補助装置。酷使し続ければ、こうなることは覚悟していたんだけどなぁ…………」
分かっていてなお、それに縋るしかなかった。
この身が朽ち果ててでも、己の悲願を達成するためならば、命など捨てても構わない。
イズルは、そう思っていたのだ。
しかし。
「あともう少し早かったらって。そう思っちまうのは、欲張りなのかな」
ここに来て、その覚悟が揺らぐ。
この領域に至ってしまったからこそ、胸の奥から湧き上がる欲望の奔流。
復讐を果たしたい。
もっと強くなりたい。
もっと、生きたい。
際限なく浮かび上がる欲望は、限界という壁に当たって砕け散る。
もはや、この勝敗に意味はない。
イズルの旅は、間もなく終わりを迎えるのだから。
「まだだ」
それでも。
ヨルドは、自分勝手だと分かっていながら言葉を紡ぐ。
「まだ、終わってない」
ここで終わらせてなるものか。
「俺たちの決着はまだ、ついてねェ」
「もうそんなものに、価値なんて――――」
「お前はまだ終わってねェッ!」
イズルの言葉を遮り、ヨルドは声を枯らして叫ぶ。
自分のわがままだと、エゴだと分かっている。
この戦いに意味は無いのかもしれない。
終わったとしても、イズルが得る者は何も無いかもしれない。
だから。
「お前が死んでもお前の意志は――――牙は残り続ける」
これは。残された者だけが、何かを得る戦いだ。
「その想いは、次の奴らに巡っていく。持ち主の手から離れても、その意志は必ず誰かに渡り、そしてまた次の世代へと渡る。終わらねェ、終わらせねェよ。お前の願いは」
「おいおいおい。それってまさか…………」
ヨルドが紡いでいく言葉を聴きながら、イズルは徐々にその意味を悟っていく。
そして、驚愕に顔を歪ませる。
「頼む」
ヨルドはハッキリとした口調で懇願し、静かに頭を下げた。
「お前の理想が夢物語なんかじゃなかったってことを、証明してくれ」
「…………………………………………は」
それは、一度はヨルドが骨董無形と称し、大言壮語と一蹴した理想。
この底の世界に落ちてきて者の中で、イズルだけが抱き続けてきた道標。
ソレを、証明する。
「……………………は、は」
なんて馬鹿げている提案。
イズルからしてみれば、何の得もない話だ。
それなのに。
「…………はは、はははは!」
どうして。
こんなにも、気分がいいのだろう。
「はっ、ははははっははははっはははははっ! さ、最高の大馬鹿野郎だよ! アンタはさァッ!」
イズルはこの世界に来て初めて、腹を抱えて笑った。
狂喜に支配された、獣のような哄笑では無い。
心の底から湧き上がる、愉快な感情の発露。
嗚呼、最高の置き土産だ。
「ははっ! ………………いいよ、やろうか」
「あぁ、ありがとな」
二人は互いに笑みを浮かべ、数歩下がり距離を取った。
もはやこれ以上、言葉はいらない。
ヨルドは再び、右の掌を見つめる。
先程よりも輝きは衰え、白き光は右手を優しく包み込むのみ。
だが、その温かさがヨルドを辛うじて人間たらしめている。
時間が無いのはこちらも同じ。これ以上長引けば、自分は再び闇に飲み込まれることになるだろう。
これは友がくれた、最後の機会なのだ。
だから、出し惜しみはしない。
それはどうやら、イズルも同じ。
あの状態から繰り出すことが出来るのは、もはや一発のみ。
妙な小細工など必要ない。
来るのは一つ、真っ向勝負のみ。
「どうする、何を選ぶ」
ヨルドの脳裏にあるのは、無数の選択肢。
しかし、そのどれもが決定打には成り得ない。
龍の力頼りだった自分に、明確な技と呼べるモノなどあるはずも無し。
対してイズルが放ってくる技は、恐らくあれだ。
初めて対峙した時、敗北をこの身に刻んだあの剣技。
あの爆発力を真正面から受け止め、なおかつ競り勝つことが出来る技など。
「一撃、生身、剣技――――――――」
ヨルドはぶつぶつと小さく呟きながら、頭の中で理論を組み立てていく。
今のイズルは龍血を纏い、その力でもってこちらの龍血を相殺してくる。
ともなれば、必然的に元から持ち合わせている力量が優劣を決定づけるだろう。
何か、何か無いか。
ソレは、偶然にもヨルドの足元に転がっていた。
屋敷の壁をぶち抜き、場所を移動した時の衝撃で吹き飛ばされてきたのか。
今まで全く意識してこなかった、龍剣の戻るべき場所。
漆黒の剣が納められていた、漆黒の鞘。
その存在を認知した時、頭の中に浮かび上がる単語が一つ。
「――――加速」
瞬間、ヨルドの脳裏に理論が構築されていく。
イズルを破るための、最速の一撃。
しかし、これはヨルドの使っていた技では無い。
『いいか? この技はな、腰の回転と手首の捻りが重要なんだ』
友がかつて使用していた、最速必殺の一撃。それを、自分はいつも喰らう側だった。
だが、あの技を近くで見てきたのも事実。
試したことは無い。この剣で出来るかどうかも分からない。
それでも。
「借りるぜ、フェリド」
今はただ、この一撃にかける。
そして、一撃にかけるのはこの男も同じ。
「……ぐッ、がッ、アアア亞亞亞亞亞亞ァッ!」
右腕を押さえつけながら、イズルは苦悶に表情を歪める。
イズルは剣を逆手に握りしめ、上体を大きく捻り上げた。
ギリギリと音を立てて伸びていく肉体は、まるで弾ける直前の縄の如し。
剣を握り締めている右腕が、奇怪な音を立てる。
まるで脈打つ心臓のように、流れる血潮のように。
龍の刻印の刻まれた箇所から、その息吹を感じる。
その様子を眺めながら、ヨルドは鞘を手に取り龍剣を納める。
大丈夫だ、すぐに抜く。
そう言い聞かせるように軽く鞘を一撫で、そのまま鞘を腰のあたりに当てる。
そして深く腰を下げ、弓が弾ける直前のように、ゆっくりと腰を廻していく。
奇しくもそれは、どこかイズルの構えと似たものであった。
しかし、その印象は真逆。
イズルの構えを動とするならば、ヨルドの構えはまさに静。
その佇まいはまさに、不動と呼ぶに相応しい。
「まだ、まだだ」
ヨルドは静かに呟き、さらに深く沈み込む。
腰も上体も、そして意識も。深く、深く潜り込んでいく。
しかし、闇に飲み込まれる感覚とは違う。
まるで、剣と自分が一体化していくような。そんな心地よさが全身に広がっていく。
そして。
「白龍式、抜剣術」
ヨルドが、ポツリと呟いた。
瞬間。
「――――――――――これで、最後だァァァアアアアッ!」
呼応するように、爆発する闘気。
唸る大気に、爆ぜる脈動。
ヨルドの立っていた地面が、音を置き去りにして砕け散る。
否。その一撃は、もはや音を超越する。
イズルの姿は残像となってその姿形を消し去っている。
ヨルドの瞳に映るのは、イズルの牙が描く紅の軌跡のみ。
故に。
ヨルドは、静かに瞳を閉じる。
視界が闇に覆われる。
世界が段々と遠ざかっていく感覚。
気を抜けばたちまち闇に呑み込まれてしまうような。そんな不安が、未だに拭えない。
嗚呼、本当にイズルは凄いな。
奴は一人で、自分の内に飼う龍という名の獣を飼い慣らしたのか。
ふと。心の中で、自分が以前に叫んだ言葉が浮かび上がってきた。
『俺は、誰にも縋らねェ』
『今までもそうやって生きてきた。この街で、俺はそうして大切なものを守ってきた! 今回だって、俺一人で何とかして見せるッ! 偽りの優しさで、俺の心に触れるなァァァッ!』
そうだ。
俺はいつだってそうしてきた。
いや、そうしてきたと思い込んできた。
本当はいつだって、誰かに支えられていたというのに。
だから、真の意味で一人突き進むお前に勝てる者なんて――――
「俺はッ! ボクは――――――――あの子との約束をォォォッ!」
その時、イズルの叫びを聞いてヨルドはようやく理解した。
なんだ、同じじゃないか。
お前も、大切な誰かのために立ち上がったんだな。
やっぱり俺とお前は、色んな意味で似た者同士だ。
「――――――――ヨルドぉッ!」
「――――――――ヨルドさんッ!」
ほらな。
聞き覚えのある男女の声色をしかと受け止めながら、ヨルドは柄を握りしめる。
そして放たれる、人生史上最速の一撃。
「
ソレは世界の時の流れよりも速く。
ヨルドの頭部を斬り裂かんと振り下ろされる、究極の龍殺し。
それが現実のものになるまで、僅か瞬きにも満たない時間。
その時間さえあれば、充分であった。
「――――――――」
イズルは何も言葉を発することなく、静かに微笑んだ。
そして。
数舜して、イズルの持つ剣が音もなく滑り落ちる。
続いて、イズルの右下の腰辺りから、左上の肩に向かって奔る一本の線。
それは徐々に赤みを帯びていき。
「頼んだ」
「任せろ」
短い言葉を交わす二人。
次の瞬間、大量の鮮血が天に吹き散っていく。
深紅の雨を降らし、辺り一面はあっという間に血の池と化す。
錆び付いた鉄分の臭いが辺りに充満する。
イズルはそうして、血の池の中心で仰向けに倒れた。
身体はもう、動かない。
「――――イル――――――ミ――――――――エ」
愛おしそうに名前を呟きながら、イズルは静かに瞳を閉じる。
その表情は心なしか、嬉しそうに綻んでいるようにも見えた。
ここに勝敗は決し、若き龍は命の炎を燃やし尽くした。
しかし、想いは紡がれる。
牙を受け継ぐ誰かがいる限り、その想いが死ぬことは決して無い。
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