第9話 準備

ドアをノックする音に博士ひろしは顔をあげた。時計を見ると午後3時ちょうど。O157に感染していたときも、これくらい時間に正確に来てくれればよかったのに。いや。急に電話した博士に非があるのは間違いない。博士は扉を開けた。もちろんおりこが立っているのだが、その姿は昨日ポカリを届けてくれた人物とは全く別人だ。白のブラウスにタイトな黒のロングスカート。髪には緩やかにウェーブがかかっている。ハンドバッグをかけた腕の先のブラウンのネイルが美しい。見とれていたことを悟られないよう、博士は努めて平常心でおりこをラボに招き入れた。歩くおりこのスリットからのぞく足に目が奪われ、すれ違った際には香水に鼻をくすぐられた。強すぎず、弱すぎず。品性を感じさせる絶妙な加減で香水をつかっている。そしておりこは振り返り口を開いた。


「腸管出血性大腸菌O157の準備はできてる?」


腸管出血性大腸菌O157。なんとなく知性を感じる言葉だが、おりこにとってその本質は殺人のための道具だ。品のある見た目とは裏腹に発せられた恐ろしい言葉のギャップに一瞬たじろいだ博士だが、それがむしろ、そこに立っている人物がいつものおりこであることに気づかせてくれた。


「あぁ。もちろんだ」


ラボの中に入り、インキュベーターの振とう培養器から試験管を取り出し、蛍光灯にかざす。透明だった黄色い培養液は今や黄色いカルピス(原液)だ。それをラボの中から、ラボ外にいるおりこに見せる。


「ごらんの通りだ。できるだけラボ外に出したくないんだが、準備はラボ内でできるのか?」


「そうね」


というと菓子折りを2箱取り出した。外箱を見る限り中身はマフィンのようだ。4個入りと10個入りといったところか。ドライフルーツが生地に練りこまれているタイプでボリュームもありそうだ。


「はさみかカッターある?」


博士がデスクに置いてあるカッターを指すと、おりこはそれを手に取り4個入りの箱を開け始めた。マフィンを1つ博士に渡す。さらにカバンからアトマイザーを取り出した。


「このマフィンにO157をスプレーしてちょうだい」


「わかった」


そういい、マフィンを受け取りラボ内にもっていく博士。実験台にマフィン、O157の入った試験管、そしてアトマイザーをおく。O157をアトマイザーに入れようと試験管のふたを開けたが、培養液の匂いに鼻をつかれ、思わず頭をそらした。このままスプレーしては教授も食べないだろう。


「一応確認だが、このマフィンは教授が自分の意思で食べるんだよな?」


「そうだけど…。どういう意味?」


「いや、O157の匂いが気になってな。教授を眠らせてから口に押し込むなら気にする必要はないだろうが、もし自分の意志で食べさせたいなら対策しないとな…」


博士は少し考え込んでから、O157をマイクロチューブに移して遠心分離にかけ始めた。スピードは10,000rpm。1分も遠心分離にかければ十分だ。上清をきれいに取り除いて、沈査を水で懸濁してにおいをかいでみる博士。匂いはかなり軽減されたようだ。それをアトマイザーにいれてマフィンと共にバイオセーフティーキャビネットに持ち込む。


スプレー1回のプッシュで約0.1ミリリットル程度の液体が噴霧される。培養液の濁度はおそらく吸光度で1.0くらいだ。つまり0.1ミリリットルあたり100万匹のO157が含まれていることになる。科学的根拠はないが、ある文献は10匹のO157が症状を引き起こすのに十分な数だといっている。100万匹いれば間違いないだろう。


マフィンの表面に軽くO157を噴霧する。マフィンの表面に光沢を出している糖にO157がなじむまで、しばらくバイオセーフティーキャビネットにおいておく。その間におりこに実際の計画を聞き出すことにした。


「いまO157をマフィンの表面に噴霧したところだ。軽く乾燥させたら持っていけるぞ」


「ありがとう。そうしたら…」


そう言いながら3つのマフィンが残っている小さいほうの箱を博士のデスクに置いた。


「これはいらないから好きにしてちょうだい」


ちょうど小腹がすいていた博士にはちょうどいい。


「どうやって大腸菌入りマフィンを教授に食わせるつもりなんだ?」


「今から研究室に訪問して、マフィンをお土産として置いてくるわ。あのサイコ野郎、夜遅くまで研究してるんだけど、夕方に必ず冷蔵庫を覗くのよ。そこでお土産の残りを見つけたら必ず食べちゃうの」


なんだか、国民的マンガでみたことあるような方法だな。相づちを打ちながら博士はそう考えた。


「そのマフィン、間違って他の学生が食べてしまうことはないのか?」


「そんなに遅くまで残っている学生はいないし大丈夫じゃないかしら。今から行けば4:30くらいに研究室につくから、マフィンをあげて少し学生と話していれば皆帰り始めるわ。誰もいなくなった隙に残りのマフィンを回収して、O157入りのマフィンを箱に入れて冷蔵庫に入れれば大丈夫なはずよ」


「なるほどな…」


お粗末な計画のような気もするが、うまくいくような気もする。そろそろO157はマフィンになじんだろうか。


マフィンの様子をうかがいにバイオセーフティーキャビネットに向かう博士。バイオセーフティーキャビネット内でマフィンをいろんな角度から見てみる。変哲なところは見受けられない。何も知らなければ食べてしまうだろう。マフィンをバイオセーフティーキャビネット内において、O157に汚染されたグローブを捨てる。実験机にラップを敷き、ジップバックを準備したら、新しいグローブでマフィンをバイオセーフティーキャビネットから取り出してラップの上に置く。この時どこにも触れないように注意しなくてはならない。ラップの上にマフィンをおいたらグローブをまた取り替える。マフィンに触れないようにラップでマフィンを包装し、ラップごとジップバックに入れれば携行O157の完成だ。本来はユッケもこうして持って帰ってきたかった…。外装のジップバックに70%エタノールを噴霧した。ペーパータオルでエタノールを拭いて、博士はマフィンをおりこに渡す。


「うまくいくといいな」


「そうね」


うなずくおりこの目には強い意志が宿っているように博士に見えた。それとも、不安に押しつぶされそうな自分を奮い立たせるために無理をしているのか。世界を壊したいと考えていた博士だが、特定の人物を殺したいほど憎んだことはない。おりこが今、何を考えているかを知るのは博士には難しい。ただなんとなく、ラボを出ていくおりこの後ろ姿から目が離せなかった。

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