第6話 たすけ

博士ひろしはこれまでの事情をおりこに説明した。おりこのうらむ教授殺害のためにO157を利用しようと思ったこと。O157を採取するために焼き肉店を回っていたこと。採取するために自分が感染したこと。今実際に血便が出ており、菌が採取できていることを、時々腹痛にうめき声をあげながら説明した。


「コニカルチューブの中に綿棒が入っているだろう。ここに俺の下痢を採取してある。頼む。O157を分離してくれ」


「うっ…そういうことだったのね…」


糞便からの細菌同定は一応大学で履修した。とはいえ実際にその知識を使う日が来るとは思いもしなかったおりこ。なおかつ知人の糞便を検体にすることになるとは…。糞便の採取は早い方がいい。採取してから時間が経過するにつれて細菌の生存率が下がっていく。さらにここでうまくO157を分離することができれば…。おりこの目にはトイレで苦しみ、悶えている教授の姿が浮かんでいた。教授は独身だ。水分を補給することができなければそのまま衰弱死してくれるかもしれない。


「どうすればいいの?」


「コニカルチューブに生理食塩水を1ミリリットル入れてボルテックスにかける。そこに白金耳はっきんじを差し込んで、2枚の寒天培地に塗抹するだけだ。プロトコルと培地は昨日のうちに準備してある」


「わかったわ」


「全部の作業をバイオセーフティーキャビネットの中でやれば匂いもしないし、お前がO157に感染することもない。白衣を着るのも、手袋をつけるのも忘れるなよ。うぅ…。あとは頼んだ」


パタリ。ドアが弱々しい音を立てて閉じた。


「ああはなりたくないわね」


博士の下痢にもだえる姿を自分に重ねて、絶対に自分は感染したくないと、白衣を羽織ったおりこは気を引き締めて実験室に向かった。まずはバイオセーフティーキャビネットの正面のサッシを開けて電源をつける。大きな吸気音と排気音とともに準備運転が始まった。バイオセーフティーキャビネットは内部を陰圧に保つことで内側の病原体を外環境に出さないようにするため、相当量の空気を取り入れ、また送り出している。ファンの駆動音がとてもうるさい。おりこは準備運転を始めてから反対側の机にあるプロトコルと培地を確認することにした。


準備されていた培地は2種類。EMB寒天培地とVi EHEC寒天培地と書いてある。どちらも大腸菌を分離培養するための寒天培地であったことは覚えているが、確かではない。とりあえずプロトコルを読みすすめていく。


1.糞便を含むコニカルチューブに1ミリリットルの生理食塩水を加える

2.15秒間ボルテックスミキサーで強く振とうしてサンプルとする

3.滅菌した白金耳でサンプルを採取する

4.寒天培地上に画線塗抹する。このときコロニーの分離をよくするために1度目の5.画線と2度目の画線で白金耳を新しいものに変えること。

6.37℃で一晩培養する


手順はかなりシンプルだ。要は博士の下痢便を薄めて寒天培地に塗りたくればいい。明日の朝にはO157がもりもり育っているはず。おりこは培地と博士の下痢便が含まれたコニカルチューブ、生理食塩水、そしてディスポーザル白金耳を、準備運転が終わったバイオセーフティーキャビネット内に入れる。プロトコルを再度確認して必要なものがバイオセーフティーキャビネット内にあることを確認する。入れ忘れていたボルテックスミキサーを設置すれば準備は完了だ。バイオセーフティーキャビネットに向かって座る。実験用グローブもつけた。いざ。


まずはピペットマンを使って1ミリリットルの生理食塩水を吸い取る。そして博士の下痢便が含まれているコニカルチューブのふたを開ける。少し怖かったが匂いは全然しなかった。バイオセーフティーキャビネットが内部の空気圧を低くしてくれているおかげだ。生理食塩水を加えてふたを閉じてからボルテックスミキサーで強く攪拌した。攪拌したチューブをラックに立て置きディスポーザル白金耳の封を開ける。1つ取り出した白金耳を右手に、左手で場を整える。向かって1番左側には下痢便入りチューブ。真ん中に2つの寒天培地。右側にサンプルを塗抹し終わった白金耳を捨てるためのバッグ。これで流れ作業のように実験作業を行うことができる。場を整える作業をおこたると実験が滞るのよね。そんなことを考えながら、目の前の整った実験環境におりこは満足げだ。


早速チューブを開けて白金耳を差し込む。白金耳は先がループになっていてそこにサンプルを付着させることで細菌を採取できる。とても小さい金属探知機のようなものを想像してくれると分かりやすい。白金耳に付着した下痢便をEMB寒天培地の隅っこに塗りたくる。寒天培地に液体が吸収されたことを確認したらつかっていた白金耳をバッグに捨て、新しい白金耳を取り出す。先ほど下痢便を塗りたくった箇所に白金耳を触れさせ画線塗抹する。これにより下痢便中に含まれる細菌集団を1つずつのコロニーに分離することができる。同じチューブの下痢便を今度はVi EHEC寒天培地に塗りたくる。EMB寒天培地とVi EHEC寒天培地の違いは何だったか。博士が下痢から回復したら聞いてみよう。おりこは同じ作業を10本の下痢便チューブで繰り返した。


「ふぅ」


画線塗抹が終わった20枚の培地を見て安堵のため息が出る。あとは培地を37℃のインキュベーターに入れるだけだ。おりこはそっと培地をバイオセーフティーキャビネットから取り出して実験ベンチにうつした。それからバイオセーフティーキャビネット内をきれいにしていく。下痢便の入ったチューブはふたがちゃんとしまっていることを確信して実験ベンチにうつした。白金耳はちょうど使い切ったため、空のパッケージをごみ箱に捨てる。使用済みの白金耳が入ったバッグはバイオハザードボックスに入れたい。おりこが周囲を見渡すと派手な「Biohazard」と書かれたシールが貼ってある赤色のゴミ箱をみつけた。そこにバッグを捨てる。最後に消毒用エタノールでバイオセーフティーキャビネット内を消毒したらおしまいだ。バイオセーフティーキャビネットの電源を落とす。


「さて。インキュベーターは…」


実験室を見渡すと、実験ベンチの隣の床に直置きされていた。インキュベータの直置きはコンタミネーションのもとだが、細胞を育てるわけでもない。別にいいだろう。インキュベーターに寒天培地を入れれば作業はおしまい。下痢便おとこに下痢便サンプルをどうするのか聞いて部屋に戻ろう。時計を見ると11時を指していた。実験は想像以上に時間がかかる。

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