第15話 幸せであることの恐怖

 お風呂上り、私と凛音は脱衣所にてドライヤーで髪の毛を乾かしていた。好きな人と一緒に鏡をみつめてほほ笑み合う。本当に幸せな時間だった。でもだからこそ、私の心では不安の種が芽吹いていた。


 こんな幸せがいつまでも続くとは思えない。


 そう思ってしまうのは、私のこれまでの人生が不幸一色だったからなのだろう。凛音ほど私を思ってくれる人はいなかった。だから失うのが恐ろしいのだ。


 もしも今、凛音と一緒に死ねたのならそんな不安もなくなるのだろう。なんて思ってしまう。でも隣でニコニコしている凛音をみると、口に出すのはだめだと思った。


 凛音が感じる幸せを私の不用意な言葉で邪魔したくはない。


 そうして黙り込んで髪の毛を乾かしていると、昔のことを思い出した。


〇 〇 〇 〇


 小さなころ、私は両親に愛されていた。自分が望まれた存在だということを、疑わなかった。でも少しずつ、両親の関心は優秀な兄に移っていった。


 自分の価値を信じ込んでいた幼い日の私には、そのことが理解できなかった。どうして誰も私を見てくれないの? 私を愛してくれないの? そんな風に答えの出ない問いかけを延々と繰り返していたのを覚えている。


 でも大きくなるにつれて、誰もが無条件に愛されるわけでないことを私は知った。


 学校でも勉強ができたり、運動ができる人はもてはやされる。でもできない人は端っこで寂しそうにしているだけだ。私は自分がそっち側の人間なのだと気付いた。


 だから頑張った。また小さな頃みたいに愛してもらうために、必死で必死で兄の背中を追ったのだ。寝る間も惜しんで勉強して、みんなが遊んでいる間も教科書に向き合った。


 努力の甲斐あって、私は学校のテストで100点を取った。褒めてもらいたくて急いで家に帰ると、兄は科学の賞で大賞を取ったのだと両親に報告していた。


 両親は私には見せたことがない笑顔で、兄を褒めていた。兄はとても嬉しそうにしていて、私はどうしようもない気分になった。憧れと憎しみと苦しみと、ありとあらゆる感情に飲み込まれて、気が狂ってしまいそうだった。


 私はうつむきながら自分の部屋に向かうと、無言で、100点の答案を破いた。


 涙を流しながら、何度も何度も繰り返し破いて。


 ようやく心が落ち着くころになると、私はまた机に向かった。


 それ以外に、私は知らなかった。親に愛される方法も、愛されない自分を許す方法も。


 褒められるために頑張っている間だけは、自分を受け入れることができた。努力は無意味だと薄々気づいてはいた。でもきっと私からすると頑張るというのが、壊れていく心を何とか保たせるための精一杯だった。


 そのおかげもあって、学校ではそれなりに優秀な生徒として認識されていた。でも友達はいなかった。私は人に友好的に接する方法を知らなかった。友好というのは何かしらを対価にして与えられるものであって、無条件に与えられるものではない。


 そう思っていたからだろう。どうしても人に冷たくなってしまうのだ。


 だからこそ、私からすると凛音は不可解な存在だった。


 最初、凛音は私を騙そうとしているのかと思っていた。でも話していることは真実で、その上「私に恋をした」なんて微笑むのだ。理解できなかった。


 私は自分が嫌いだ。こんな自分を好きになってくれる人なんているはずがない。


 そう、思っていたから。


 だから最初は拒絶した。でも凛音は必死で思いを伝えてくれた。私は次第に凛音を信じたいと思うようになった。短い時間だけれど、凛音は私にたくさんの愛を示してくれた。おかげで、凛音のことなら、信じられるようになった。


 でも、幸せへの恐怖は今も消えてくれそうにない。


〇 〇 〇 〇


「美海さん。どうしたんですか?」


 表情から不安を見抜かれてしまったのだろうか。凛音が私の顔を覗き込んでくる。言葉にはしたくなかったけれど、本気で心配してくれている凛音をないがしろにもしたくはない。


「幸せ過ぎて、怖いなって思うんだ。もしかするとこれは不幸のための幸せで、私はこれから死んだほうがましなくらいの不幸を経験するんじゃないかって、そんな気がするんだよ」


 すると凛音は髪の毛を乾かすのをやめて、私を抱きしめてくれる。


「美海さんはこれまでずっと苦しんできたんですよね?」


「……うん」


「だったらこれくらいの幸せ、あっても良くないですか? 美海さんはもう一生分の不幸を経験したんです。これからは幸せしかないですから、大丈夫です。私を信じてください」


 何の根拠もない言葉だった。だけれど凛音の言葉だと思うと、信じてもいいんじゃないかと思えてくる。大切な人の言葉は、言葉自身も価値をもつ。私はその価値を信じてみたいと思った。


 私は凛音に優しくキスをする。凛音も笑顔で私のキスを受け入れてくれる。これから当たり前になるだろう非日常が、あまりにもまぶしすぎて、気付けば私は涙を溢れさせていた。


 凛音はそんな私の唇を優しく食んでくれる。欲情とかじゃなくて、純粋な愛される喜びだけを一心に感じながらゆっくりと目を閉じる。そうして私は凛音の優しさに触れるのだった。

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