名もなき墓標

山口 実徳

バベル

 作戦は順調だったんだ。傍受した奴等の通信を俺が訳し、部隊長が決断をする、そうして野戦を戦い抜いた。森を抜ければ奴等の拠点、木々より多い援軍を呼び寄せて一気に叩く、我が軍の勝利は目前だと誰もがほくそ笑んでいた。

 罠だった。

 銃弾の雨が降り注ぎ、同胞は飛沫を上げて永遠の眠りについた。生き延びてしまった俺だけが、むせ返るほど鬱蒼とした森に身を潜めている。

 奴等に銃弾を突き返す、それが行き場を失い、死に場所を探す俺に残された使命だった。


 当てどなく森を彷徨い、標的を探す。しかし、ずぶの素人の俺などに討てる敵など、そう簡単には見つからない。奴等が抱える最新式の連発銃と俺が縋る旧時代の単発銃、数も力も圧倒的に劣っている。この状況で俺が取るべき戦術は隊長クラスに狙いを定め、反撃より先に身を隠すヒット・アンド・アウェイただひとつ。あとは援軍の到着を待つほかない。

 その機会を窺っているうちに、奴等はアメーバのように森へと広がる。ぼやぼやしていると、俺まで呑み込まれてしまう。早く一矢報いなくてはと焦りはじめた、そのときだ。


 ひとりだ。引けた腰が奴の実力を表している。部隊からはぐれたのか、奴等の気が抜けているのか、どちらにせよ俺には好機。

 いや、これもまた罠かも知れない。あいつを囮に残存兵を誘い出す、つまり俺に狙いを定めずに俺に仕組んだトラップ。

 そうだとしたら、どれだけ不幸な奴だろう。引き金にかけた指先が人間を取り戻そうとしてしまう。


 後ろを取られた。

 緊張の糸を辺りに張り巡らせて、背後を視界の隅にそっと映した。

 援軍だ、しかし遠い。彼らは奴を射程に収めていない。如何なる状況にせよ、俺の引き金が再開の合図となるのは、間違いない。


 見えない力に背中を押され、おどおどとする奴に照準を定める。恐れるような相手ではない、やつには怪我を負わせれば十分だ。が、後のことを考えると、一刻も早く楽にしたほうが奴にとって幸せだ、そうと決めて額を狙う。


 俺は、引き金から指を外した。手の平ひとつで援軍を制止させ、身を低くして奴の元へと走っていった。


『何故、君がこんなところに?』

 一本の木に身を隠し、どちらの国でもない言葉を彼にかけた。

『その声は……いや、まさか、君も?』

 彼も、どちらの国でもない言葉を返した。この言葉を知る者は、この場においては恐らく俺たちふたりだけだ。

『そうだ、国交開始依頼だな』

 俺の声が、すぐそばに立つ木の裏からだと気がついて、彼はそれに寄りかかって木漏れ日を揺らした。俺も彼に背を向けて腰を下ろした。


 木のぬくもりが汗ばむ背中を心地よく冷ます。解けた瞳が映すのは俺に制された援軍の苛立ち。この木陰は、俺と彼だけの穏やかな時間が流れる戦場のエアポケットだ。


『外国語を介してだが、双方の言葉を解する通訳は俺たちだけだ。君が死んだら、俺の国との交流が途絶えてしまうのではないか? 君の国は、俺たちとの対話を諦めたのか?』

『そんなにたくさん喋るなよ、俺の頭が追いつかない』

『ああ……すまない。たかが通訳、たかが兵士に政治を語る資格はないな』

『まったく、優秀な通訳だ。語る資格の問題ではない、語れる時代じゃないんだ。そうだろう?』


 互いに苦笑したかった。だが、辺りを覆う緊迫した空気がそれを許すはずがない。


『君に、いいことを教えてやろう』

『俺も、君に伝えたいことがある』


 息を呑み、今すぐ捨ててしまいたい銃に縋る。


『俺たちの軍勢が、君ひとりを狙っている』

『俺たちの軍勢も、君ひとりを狙っている』


 そうか、君にはわかっていたか。木立の影に身を隠している援軍が痺れを切らし、君に贈る銃弾を込めていることを。

 そして、俺も知っている。銃を構えた軍勢が俺ひとりを狙っていることを。君が彼らを、術なく見つめていることを。


『そして、俺には君を殺す使命がある』

『同じだ、俺にも君を殺す使命がある』


 俺も彼も、込めた銃弾に視線を落とした。弾は一発、残弾ではない、互いに撃ち込めるのが一発だけだ。


『俺は、左に出る』

『わかった、俺は右に出る』

『いいか、君は俺が殺してやる』

『本望だ。ならば君は俺が殺す』

『ありがとう』

『さようなら』


 安全装置を解除して、引き金に指を掛ける。膝を折り、銃を構え、木の裏側を睨みつける。互いの準備が整った、漂う匂いで確かめて、俺と彼は呼吸を合わせた。


 立ち上がり、銃口を向け、引き金を──。


 背後から音速の雨が降り注ぎ、木立は真っ赤な霧に包まれた。俺を狙った弾丸は逸れて、対話を許した木の皮を削った。正面からの銃弾は瞬く間に尽き、わずかな対話を許した木陰は俺たちのものになっていた。


 結局、俺は一発も撃てなかった。

 棒立ちの俺を置き去りにして森を進む仲間たちを見送ってから、木の裏側を覗き見た。

 彼は、全身を穴だらけにして突っ伏していた。声を掛けても返事をしない、そんなことはひと目でわかった。


 君は何故、最後に俺を欺いた。やはり君には、俺を殺せなかったのか。それとも君は、俺だけを生かしておきたかったのか。言葉を繋ぐ希望を、俺に託したかったのか。

 もう、君に聞けないのはわかっている。だが、聞かせてくれ。君の願いとは、何だったんだ。

 どんな国の言葉でもいい。知らない言葉でも、俺が絶対に翻訳するから。 

 だから、教えてくれ。君だけが死んだ理由を。

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