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非干渉

 さっきまでのランチタイムの喧騒は波が引くかのようにどこかに消え、店のなかは静かになった。ここ小路亭は空洞化が進んで人寂しくなった街の中心街にありながらも、代々続く味を守り続けていることもあってか常連客が多く、今日も大忙しだった。店の時計が13時を告げた。

 カウンター席では常連客の篠塚くんがまだ日替わりランチを食べていた。篠塚くんは店の近くにあるIT企業に勤めている。その隣には彼と同じ会社でバイトをしている留学生のバスティアンさんが座っている。バスティアンさんは大学で理論物理学を学んでいるのだが、ITにも興味を持っていて将来はそっちの方面に就職をしようと考えているらしい。二人とも客先での打ち合わせが長引いたために遅めの昼食になってしまったようだ。

「いそいで食べ終わりますから」白米をかき込みながら篠塚くんが言った。隣のバスティアンさんも口のなかに詰め込みながらウンウンと顔を上下に動かして同意する。

「店を閉めるわけじゃないからゆっくり食べていっていいよ」この店を一人で切り盛りしている店主、小路丸さなえは皿洗いをしながらにこやかに言う。

 小路丸のポケットに入っている携帯が震えた。濡れた手を布巾で拭き、携帯を取り出して画面をみると山下からの電話だった。小路丸は少し嬉しそうな笑みを浮かべながら画面をタップし、「はい」と返事をする。山下は小路丸の学生時代の先輩でフリーのカメラマンとして世界各地を飛び回っている。確か今は外国のどこかに行っている予定だったはずだ。

「もう暇になっただろ。時差が13時間もあるんでまいったよ。おまけにサマータイムだからな、いま何時だと思う」

 唐突に小学生でも暗算できる質問を山下はしてきた。

「こっちが13時ですからそっちは0時でしょう。馬鹿な質問なんかせずにもう寝たらどうなんですか」

「お、即答だな、やっぱりお前は頭いいな」

「先輩、明日は休みなんですか、だったらこのままでもいいですけど、仕事だったら休んだほうがいいっすよ、体力仕事なんですから」

「いや、大丈夫だ。それに電話したのはほかでもない、お前の力を借りたくてな。いや力じゃなくって知恵のほうなんだが」

「またなにか珍しい食べ物目当てに行動してやっかいごとに巻き込まれたんですか」小路丸は粘菌騒動や人参果騒動のことを思いだしながらしかたないなあという表情をする。(粘菌騒動に関しては「mycetozoa goal」、人参果騒動に関しては「nation causality」のほうに書かれているので興味あるかたはそちらを読んでみてください、ただし今回の話とは無関係なので読まなくても支障はありません)

 山下は珍しい食べ物に目がなく、仕事であちこちを回りながらその地の珍しい食べ物探しに余念がなかった。だから彼の仕事仲間などは、カメラマンは副業で食べ物探しが本業だろうと言う。当人もたまにどっちが本業なのかわからなくなることもある。

「はははは、聞いて驚け。今回は食べ物には関係ない。まだ食べ物にはたどり着いていないんだ。そうなんだよな、こっちに来てそれなりに食べ物はうまいんだが、まだこれは、ってのには出会っていないんだよな」と悲しそうに言う。

「先輩、ひょっとして酔っ払っていますか。なんかいつもとちょっと違いますよ」

「いや、酔っ払ってはない。酒はのんでないぞ」

「でもなんか変ですよ」

「まあそこは気にするな。ところでおれはいまどこにいるかわかるか」

「また質問ですか、そうですね時差が13時間となると日本の裏側ですね、でもそれ以上はわかりませんよ」

「ま、そうだな、いまおれはハイチに来ているんだ。でな、ゾンビっていると思うか」

「ゾンビってジョージ・A・ロメロ監督のあのゾンビですか。生きている死体の。そんなの映画の世界の話で現実にいるわけないじゃないですか」

 ゾンビという言葉を耳にして、日替わりランチを食べ終えた篠塚くんが口を挟んできた。「え、山下さん今度はゾンビに関わってるんですか。僕もその話ちょっと聞きたいな」

 それを聞いた小路丸は「先輩、篠塚くんがまだ店にいるんですけど、篠塚くんも興味を持ったみたいなんです。いっしょに聞いてもらってもいいっすか」と山下に聞く。篠塚くんの隣にいるバスティアンさんも目を輝かせながらウンウンと顔を上下させる。どうやら彼も興味を持ったようだ。

「篠塚くんもそこにいるのか、ちょうどいいな。頭数はあったほうがいいし」

「じゃあ篠塚くんにも聞いてもらいますね」小路丸は携帯をスピーカーモードにしてカウンターの上に置いた。

「山下さん、ゾンビですって」すかさず篠塚くんが山下に話しかけた。

「そうなんだ。おれも未だに信じられないんだが、死体がよみがえったんだよ」


 アメリカを経由してポルトープランス国際空港に降り立ってすぐに山下はこの世界のすべてを押し流そうとするかのようなスコールにみまわれた。

「これは幸先いいな」と山下は思った。今回の山下の仕事は雨が降っていることが必須だったからだ。山下がいるのはカリブ海に浮かぶイスパニョーラ島の西側に位置するハイチ共和国だ。空港で現地のスタッフのアンドレと合流をした山下は早速仕事の打ち合わせを始めた。しかし山下の口から出るのは仕事に関する内容だったが山下の頭のなかはハイチ料理のことで一杯だった。今回の仕事は天候にさえ恵まれれば一週間のスケジュールのうち三日もあれば十分だったからだ。残りの日は珍しい食べ物探しに明け暮れられる。

 打ち合わせが終わるとさっきまでのスコールは終わって青空が頭上に広がっていた。山下はアンドレとともに国境付近の村をめざした。

 舗装されてなどいない道はいたるところ窪みがあり、スピードを出しやすい道ではなかったが、そんな道でもアンドレは舗装されている平らな道であるかのようにスピードを出して車を運転していた。二人が乗っている車はサスペンションの良い高級車などではない。乗っている人間に道の状態をそっくりそのまま伝えてくれる。

「もう少しゆっくり走ったほうがいいんじゃないか」山下は運転しているアンドレにそう叫ぶ。

 しかしアンドレは「大丈夫、大丈夫」となにが大丈夫なのかわからないがニコニコしながら答え、アクセルをさらに吹かした。

 しばらくするといくつもの建物が見え始めた。名前はわからないが村のようだ。ロケーションとしてはここも悪くはないなと山下が思っていると車が大きく揺れた。

「平気、平気、山下さん、大丈夫ね、このくらい」

 アンドレは気楽に返事をするが、山下はアンドレの顔を見る余裕もなくシートベルトを両手でつかみ、両足を床に踏ん張る。車の揺れはひどくなり、山下の右手に見える建物が崩れ始めた。建物まで壊れるほどなのかこの車の揺れは、と考えたところで気がついた「地震だ、アンドレ、車を止めろ」

 アンドレが急ブレーキをかける。

 シートベルトをしていなかったら頭からフロントウィンドウを突き抜けるくらいの勢いで車が停まろうとしたが舗装されていない道だ。二人が乗った車はタイヤがロックしてそのまま砂利道の上を5メートルほど滑ってようやく止まった。このまま車の中にいたほうがいいのか、それとも外に出たほうがいいのか逡巡していると揺れはやがておさまり、かわりにあちこちから悲鳴や怒号が聞こえ始めた。

 左手に崩壊した建物が見えた。建物のなかから怪我をした人々がおぼつかない足取りでお互いに支え合って外に出てくる。

 そのいっぽうで元気そうな人々が崩壊した建物に集まっていく。

「あの建物のなかにまだ人が閉じ込められているみたいです。山下さん」

「人手は多いほうがいいな。助けに行こうじゃないか」

 二人は崩壊した建物に向かって歩みをすすめた。

 2010年に起こった大地震にくらべると今回の地震は小さいようだった。時折小さな揺れが起こるが、めまいとおなじ程度の揺れでこれだったら大きな余震を気にしなくてもよさそうだった。崩壊した建物も彼らがいま瓦礫を取り除いている建物ぐらいで、周りを見回しても火災が起きている様子もない。

「Melissa! Melissa!」

 瓦礫を片付けている山下の横を一人の女性が通り抜けていこうとした。誰かを探しているのだろうか。

「そこは危ないから」山下が声をかけるが、日本語なので相手には通じない。しかたなく彼女の手をつかみ、顔を横にふる。

「Eske ou te we ti fi a?」女性が話しかけてきたが山下は何を言っているのか理解できない。

「アンドレ、ちょっと来てくれ、彼女が何をいっているのか通訳してくれないか」

 少し離れたところにいたアンドレが近づいてきて女性と話し始める。よくみると女性も額や腕から血を流している。彼女の手当もしてやらなければと山下は思う。

「山下さん、彼女は自分の子供を探しています。地震が起こる前、この建物のなかで娘を待たせて別の場所に行ってしまったでせいで離れ離れになってしまったようです。子供の名前はメリッサ、彼女の名はスーザンです」

「この建物って、お前、崩れてしまってるじゃないか。ひょっとしてまだこの瓦礫の下にいるってのか」

「そうかもしれません。急がないと」

「彼女も怪我してるから手当をしないとな。おれは車から医療キットをとってくる。アンドレは他の人たちに彼女の子供を探す手伝いを募ってくれないか」

 そう言うと山下は車まで戻り、医療キットを持ってきて彼女の怪我の治療をしはじめる。彼女の怪我はそれほどひどくはなく止血をするまでもなく血は止まっていた。山下が手当をし始めると彼女は涙を流し始めた。


「Ti fi!」

「Twouve!」

 しばらくして叫び声が聞こえてきた。声のほうを見ると人の輪ができている。山下の隣で泣いていたスーザンが立ち上がって声のほうに駆け出していった。

「山下さん、見つかったようです」

 二人は彼女のあとを追いかけ、人垣をくぐり抜けて輪のなかに行くと、スーザンは女の子を抱きかかえて泣いていた。女の子の頭からは血が流れ出している。開かれた目は空を見ているようだが焦点はどこにも定まっていない。時折手足が痙攣をしている。

「だれか、医者はいないか」山下はアンドレに聞く。アンドレも医者はいないかと叫ぶが、その声に反応する者はだれもいなかった。

 平時でさえハイチの医療事情は悪い。仮にこの場に医者がいたとしても何もできなかっただろう。山下の車に乗せて首都のポルトープランスまでいけば病院で見てもらうことができるかもしれないが、じゃあその治療費はだれが払う。母親に払うことができるのだろうか。それとも山下が代わりに払うのか。薄情かもしれないが、山下は他人だ。そして山下にも払うことのできる金額なのかどうかもわからない。カメラマンである山下はつねに観察者だった。観察者は観察する対象には影響を与えるようなことはしない。もちろんそれは仕事をしている場合のことであって、今のような場合とは違うといえるが、山下は観察者としての行動をとってしまう。

 病院へ連れていっても助からないんじゃないか、と山下は免罪符のようにそう考えてしまった。

 スーザンを取り囲んでいた人の輪から一人、また一人輪から離れていく。彼らにも彼らのしなければいけないことがまだあるのだ。

 やがてその場にいるのは山下とアンドレだけになった。しばらくしてスーザンは娘を地面に寝かせると懐から小瓶を取り出した。蓋を開けると口元にもっていき、中身を口に含み噛み砕くように口を動かした。そして娘の顔のうえに覆いかぶさると娘の口を開かせて自分の口を重ねた。瓶の中身を娘に飲み込ませようとしているらしい。しかし意識のない娘が飲み込んだのかどうなのかはわからない。飲み込ませたのはなにかの薬なのだろうか。スーザンは起き上がるとなにかつぶやき始めた。

「Nzambi……Oprime……Soufrans…………Pa gen plisi……Nzambi……Nzambi……」断片しか聞き分けることができなかったせいもあってアンドレにも彼女の言葉の意味はわからなかった。スーザンの足元にさっきの小瓶が転がっているのを山下は見つけた。その小瓶を拾い上げて中身を確認すると瓶の底に灰色っぽい粉末が残っているだけだった。なめてみようと思ったが止めておくことにした。

 「彼女はなにをしているんだ」アンドレに聞くがアンドレにもわからなかった。

 彼女の奇妙な行動を見守っていると、突然糸が切れたかのようにスーザンは地面に倒れた。

 山下とアンドレはあわてて近寄るとスーザンを抱きかかえた。呼吸は正常だし、脈拍も大丈夫だ。額に手を当てて熱があるかどうか調べてみたが、熱もなさそうだ。どうやら失神したようである。

「まいったなこれは。誰か彼女の知り合いはいないのかな」あたりを見回すが周りには誰もいない。

「山下さん、あっちに怪我した人や具合の悪い人のためのテントが作られています。ひとまず彼女はあっちに連れていきましょう」

「そうだな、アンドレ、お願いするよ。娘は……、うかつに動かさないほうがいいかもしれないな。薄情な気もするけど、おれにもどうしようもできない」そう言うと山下はタオルを取り出すと持ってきたペットボトルの水でぬらして、横たわっている女の子の顔の汚れを拭いきれいにしてやる。


 顔の汚れがきれいになったころ、山下の見守るなか、女の子は息をひきとった。山下は女の子のからだを拭く手をとめず顔の次は手足をきれいにする。


 毛布でもあればいいのにと思ったがそんなものは見つからない。女の子の他にも何人かの人が今回の地震で亡くなったようだった。崩れた建物の一部が片付けられ、遺体はそこに安置されていた。

 女の子もそこに連れていこうと山下は女の子を抱えて立ち上がる。

 さっきまで暖かかった彼女の体はもう冷たくなりはじめて、彼女の生きていたという名残はほんのわずかに感じられるぬくもりだけだった。

 両手で抱きかかえてみてその軽さに山下は少し驚いた。こんなにも軽い。いや軽いということは小さいということで、こんなに小さい命があっけなくこの世から消えていったことは山下の現実感を軽く喪失させた。

 と、そのとき山下の腕のなかで女の子の体が動いた。びっくりして女の子を落としてしまいそうになったがかろうじて踏みとどまった。再び彼女の体が腕のなかではねた。山下はあわててその場に腰を下ろし、女の子の体を地面に横たわらせた。

 地面の上でピクリ、ピクリ、なんども女の子の体がはねる。

 やがて動きが止まった。そして目が開いた。

「Manman」

 女の子の口から言葉が出た。

 女の子の発した言葉は山下にも意味がわかった。

「お母さん」


「ということで生き返ったんだよ」山下が電話の向こうで言った。

「生き返ったんならよかったじゃないですか、なにがゾンビなんですか、縁起でもないっす」小路丸が答える。

「いや、そうじゃなくって、死んでるんだよ」

「死んでしまったけど息を吹き返したんでしょう」

「そうじゃない、生き返ったけど死んでるんだ。体は冷たいままだし、心臓も動いていない。でも生きてるんだ、おぼつかないけれども言葉はしゃべるし動くこともできる。だけど心臓は止まったままだ。血液は流れていない」

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