わん、わんわん

 ソファに座る恭くんの膝に、頭をこすりつける。

 恭くんは、テレビで動画を観ている。さっき上げたばかりのわたしの動画を。


『今朝の占い、大吉だったんだ。しかもラッキーナンバーは7! わたしの大好きな7だよ! みんなは占いって信じる? わたしはね……』


 恭くんは、犬のわたしの前で、人間のわたしの動画配信を見るのが好き。


 わたしはひたすら恭くんの膝に頭をこすりつける。

 人間のときの、わたしの映像なんて、見ない。見たくない。

 なにかが。なにかが、壊れてしまう。


 人間のわたしと犬のわたしは、丁寧に、繊細に、分離させなければならない。

 聖域を。そっと、つくり上げるみたいに。


「……7、好きなんだね」


 それは、人間のわたしに言っているのか犬のわたしに言っているのか。

 犬のわたしに。人間のわたしに対する問いかけなんて、しないでほしいから。

 だからわたしは、懇願するためにくうんと言った。頭を、頬を、何度も強くこすりつけながら。


「俺、最近思ってることがあるんだよな……」


 わたしは、問いかけるために顔を上げた。


「……時雨しぐれたち。意外と、馬鹿なんじゃないかって」


 わたしは首を傾げる。


「咲花さんは、俺に過去をバラされたらマズいと思って、接触してきたわけだよね。『男子中学生監禁事件』の加害者だった過去がバレたら、今の生活が続けられなくなる、って」


 もちろん、そうだ。

 だから――恭くんがわたしの過去をバラさない代わりに、わたしは四年間、恭くんの「飼い犬」になるって約束をした。


「だけど、時雨たちはそういう不安がまったくない。俺たちが……逆らうわけないって、思ってんだろうな……」


 ……なんの話だろう。


「逆らえないために、動画も撮ったんだろうしな。俺が、咲花さんを、……虐待しているような動画。あんなの確かに、……咲花さんは結構な有名人だからさ、ネットに上がったら問題だよな」


 ――ありがとう!

 動画の咲花が、明るく高い声で言っている。


 ――どくん、と。

 心臓が、大きく、高く跳ねたような感覚。


「でも……本当なら、脅されて然るべきはあいつらの方じゃないのか?」


 ――そうなのー! ねーっ! すごいよねー!


「咲花さんのように、あいつらは、名が知られるような活動はしてないみたいだけどさ。だけど俺が、あいつらのしたこと、あいつらの大学に、言ってやったら。あいつらの知り合いに言ってやったら。少しは。……少しは、騒ぎになるんじゃないか」


 ――だよねー! そうそう、この間……わたしね……。


「そもそもあいつら、俺と接触していいのか。事件の担当者とか、関係者に連絡したら、対処してもらえるかもしれないよな。法律、まだ少ししか学んでないけど……状況が状況だ」


 ――みんな、今日もありがとう! なんと今日は……同時視聴者数が一万人を超えていました!


「誰かに相談すれば、多少はやりようがあるんじゃないかな――」

「……わん、わん、わんわん」


 わたしは。

 思わず、恭くんの言葉を遮るほどの大声で、言った。……泣きながら。


 いやだ。いやだ、いやだ、いやだ。

 だれかに相談するなんて。だれかに言うなんて、思いつきでも言わないで。


 だって、だって。

 だれかに言ったら。


 ……お兄ちゃんたちは、わたしの動画を絶対にネットに上げる。

 わたしが……あんな姿で……あられもなく、情けなくペットプレイ、させられている動画が……永遠に消えない世界に、残る。

 ただでさえわたしは、加害者少女として世界に存在が刻まれてしまっているのに――今度は、犬として、……刻まれてしまうの?


 そうなったら。

 モデルも、動画配信も、大学生活も、ぜんぶぜんぶ、おしまいだ。


 わたしはこのまま、いいこでいるから。

 わたしから、わたしであることを、奪わないで。


 人間のわたしを、殺さないで。


「……や、やめて恭くん、お願い――」

「だめ、えみ」


 恭くんは、ソファに置いてあったしつけ棒でわたしの背中を叩いた。

 鞭ほど痛くはないけど、しつけ棒も、見た目よりは痛い。鞭打たれた傷が治っていない背中には、痛みがじんと広がる。


「……う、うえ、うえぇ、だ、だってえ」

「えみ。人間の言葉をしゃべらない」


 もう一度、しつけ棒で叩かれる――痛みもあるけれど、それ以上に、……しゃべることを許してもらえない自分の惨めさが、沁みた。


「……う、うう、きゅううん」

「よし。いいこだね」


 恭くんは、頭を撫でてくれる――わたしはほとんど反射的に、その手に頭をこすりつけた。

 撫でられると、とけてしまいそうなこの感覚からは。もう一生、……逃れられないのだろうか。

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