3-A 覗

 友人夫婦が海外転勤になったので、ぼくは都内某所の高層マンション最上階の一室を借り受けることになった。

 駅から近く通勤が楽になったが、ぼくにとってこの部屋の地利は、実はそんなところにはなかった。越して数日後に気づいたのだが、街道といくつかの低い建物を挟んで二五〇メートルほど先に建つマンションの東面が一望できる立地にあったのだ。もちろん、そのこと自体は引越しの日、部屋の様子を最初に探ってすぐに気づいたのだが、目視すれば豆粒みたいなその建物の住人の中に彼女を見つけたのが<数日後>だったというわけだ。

 海外転勤になった友人が昔写真に凝っていたのが、彼女発見の助けになった。現在、彼は写真をやっていないので、転勤の際の荷物にカメラを加えることをしなかった。けれども引越しの際、カメラの所在を思い出すと、ぼくにそれを使う許可を与えた。レンズの中にはズームまでついた三〇〇ミリの望遠レンズが含まれていた。ぼくは特に写真に興味を持っていたわけではないが、ガイドを入れると長さ五〇センチにもなるその装置を目にすれば、誰だって一度はそれを覗いてみたくなるだろう。

 それまで、ぼくは特に目的を持って他人の家を覗いたことはなかった(当たり前か?)。そのときだって、積極的に覗こうという意志はなかった(はずだ)。ただただレンズの繰り広げる世界に身を委ねていたに過ぎない。そして、たまたまベランダの向こうに彼女のマンションがあっただけだ。とにかく、はじめてのレンズの驚異に、ぼくは一〇分近くもファインダーを覗いていた。そして、ベランダで観葉植物に水を与える彼女の姿を発見したのだった。

 彼女は細身で足がスラリと長かった。髪は肩を越えて背中まで延び、斜めに射す陽の光を浴びてキラキラと輝いて見えた。その姿を見たとたん、ぼくは彼女に魅了された。彼女の行動のすべてがしきりと気になるようになった。やがて、ぼくは彼女の監視者となっていった。といっても、ぼくの部屋から見える彼女の行動はたかが知れている。はじめに見つけたときのように観葉植物に水をやっているか、洗濯物を干しているか、ただなんとなく外の景色を眺めているか、あるいは鳥よけなのか、ベランダのコンクリートに接地されている猫の置物を撫でているか、せいぜいそんなところだった。彼女の部屋も高層マンションの最上階だったので、カーテンを開け放しにしていることも多かったが、そのときには、一部だったが部屋の中も見通せた。深夜に一度だけセミヌード姿を拝んだこともある。が、たいていは普通の若い女性のような彼女の行動を、ぼくはただ遠くから眺めるだけで満足していた。

 そんな彼女の行動が少しおかしくなりはじめたのは、監視をはじめて二ヶ月ほど経った頃からだった。どことなく沈んでいる雰囲気が漂いはじめた。観葉植物に水をやっているときも、洗濯物を干しているときも覇気がなく、力なく窓の外を眺めていることが多くなった(ような気がした)。そんな日が何日もつづき、やがてこちらから見える二部屋の右側の部屋を片づけはじめた。何をしているのか詳しいことはわからなかったが、どうやら画を、それもかなり大きな画を描いているようだった。気晴らしなのだろうか? もちろん、ぼくにそれがわかろうはずもない。ぼくはただの監視者なのだ。しかし、彼女に画というイメージは、それなりにぼくを楽しませはした。それに、溌剌とした彼女もよかったが、暗く沈んでいる彼女も、ぼくにはまた魅力的に思えた。何が彼女を憂鬱にさせているのだろう。友だちと喧嘩でもしたのか、それとも恋人に振られたのか? そういえば以前、ベランダに出ていて、急に奥の部屋に引っ込む彼女の姿をよく見かけたものだ。いま考えると、あれは携帯に出ていたのではなかったのか? 恋人からのラヴコール。そういえば、携帯を持って再度ベランダに現れたこともあったような…… そして突然、それが途絶えた。それで彼女は沈みがちになり……

 彼女を振る人間なんて許せないと思う。どんな理由があろうとも、だ。そんな人間は懲らしめてやる必要がある。誰もやらないならば、このぼくがやってやろう! ここ数日、ぼくはそんなことばかりを考えていた。けれども、ぼくには確証もなければ、もし本当にいたとしても、その相手を調べる方法がなかった。

 友人の<悪党>が高性能の盗聴器をくれたのは、そんな頃のことだった。悪党は不思議な友だちで、こちらから連絡しようとして連絡が取れることはめったにないが、ときどき目の前にふらりと現れては、奇妙アドバイスをしてくれたりする。そのときは『友人から貰ったが自分は使わないから……』といって、ぼくに盗聴器をくれた。薄い、カード型のマイクとそれよりは大きいが最新型のメモリプレーヤーくらいの出力器からなる装置だった。

 次の日の昼、会社を休んだぼくは彼女のマンションに出かけた。が、案の定、セキュリティ・システムがあったので、直接彼女の部屋に行くことはできなかった。そこで、ぼくは第二案を採用することにした。厚手の封筒の中に図書のチラシを入れ、その封筒の方にカード型マイクを仕掛け、それを模型飛行機で彼女の部屋のベランダまで運んで、落としたのだ。もちろん不審がられて、その場で空中に投げ捨てられたらお仕舞だが、何かの拍子にベランダに落としたと勘違いされて運良く部屋の中まで持ち帰ってくれたら成功だ。その後、封筒をごみ箱に捨ててくれれば、しばらくそのマイクは彼女の部屋に潜めることになる。最初の段階で単にゴミとして捨ててもらっても同様だ。出力器の方は、考えた末、同じ模型飛行機で彼女の部屋の真上に落とすことにした。電磁遮蔽されたコンクリートや窓でもない限り、これで充分目的は果たしてくれるはずだ。そして、ぼくは彼女が帰ってくるその日の夜を待った。

 幸いにして、彼女は封筒を発見して部屋に戻ってくれた。が、受信状態は最悪だった。ほとんどがノイズで、かけているらしい音楽の音しか聞こえなかった。が、まぁ、それはそうだろう。ひとりで住んでいてベラベラ喋る人間はあまりいない。だが時折、淋しさのせいだろうか、彼女は独り言を呟いた。その声はノイズにまみれていても、ぼくには天使の囁きのように聞こえた。そして数時間後、部屋の電気が消され、彼女は眠りについた。だが、それからしばらくして、ぼくは喘ぎ声とともに彼女の口からその人物の名前をはっきりと聞いた。

 翌日、盗聴器の入った封筒は部屋の外に捨てられたらしい。だが、ぼくにはもうそれは必要なかった。相手の名前はしっかりと記憶したのだから…… あのとき、なぜぼくが彼女の監視者に選ばれたのか、その理由を知った気がした。その相手とは、ぼくの知る人間だったのだ!

 今日、ぼくは刃物を買い、入念な計画を立てた。実行はいつになるだろう。二、三日後ということはないが、二週間以上先の話でもないだろう。

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