第 19 幕 献身Ⅱ


※軽微ではありますが、嘔吐の描写が入ります。苦手な方はご注意ください。



不覚だった。

皮膚を刺す痛みに歯を鳴らしながら、雪の中を歩く。

母さんが今日は手を上げなかったから、油断していた。

思い切り蹴飛ばされた腹の中がぐるぐるする。

ただでさえ少ない栄養を戻したくはなくて、吐き気を必死に抑え込んでいた。

急に母さんに家を追われたため、手持ちはゼロ。

毛布も食べ物も何も持っていないなか、どうやって明日まで生き延びようかと、半ば途方に暮れながら歩き回る。

少しでも動きを止めたら、凍死してしまいそうだ。

この集落で俺が入り浸れる場所なんて一つしかないのだが、果たしてこの時間でも空いているだろうか。

不幸中の幸いか、雪あかりのお陰でギリギリ足元は見えているし、後は記憶を頼りに進んでいくしかない。

爪が食い込むほど強く自分の体を抱きながら、俺は一歩ずつ足を進めた。




不安とともに手をかけたドアノブが、いとも簡単に開いていく。

吹き込む冷風に慌ててドアを閉めると、薄明かりが灯る室内が、変わらず俺を迎え入れてくれた。

幾つもの本と本棚が保管される図書館には、流石に暖炉はなかったものの、俺と母さんの家よりもしっかりとした作りのおかげでかなり暖かい。

安堵の息をついた後、ふと自分の顔が濡れていることに気がつく。

手で拭ってみるとそれは外気の影響かかなり冷えていて、上から頬へと伝っていた。

まさか、と思い舐めてみると


「……しょっぱい」


ぴりぴりとした塩っ気が、舌と頬を刺激する。

流石にこれが何なのか、そこまで分からない俺じゃない。

雪の中では必死で気が付けなかったらしく、既に流れた後の涙が乾き始めていた。

室内の温度にあてられてか、しもやけになった部分が痛みを増していく。

こんなに痛くて寒いのだから、知らずに生理的な涙を流していてもおかしくない。


「あ〜あ……後で赤くなっちゃうかもだなぁ」


重く苦しい胸とは裏腹に、自分の口からは軽い言葉しか出てこなかった。

いつまでもここで立ち尽くすだけでは辛くなってきたので、図書館での定位置となっている、奥から三番目のテーブルの椅子へと腰を掛ける。

濡れた手を服の裾で拭き、すぐ近くにあった本のページを開いてみた。

”英雄ケルメスと優しいお姫様”

そんなタイトルの小説は、俺にも分かる易しい文章と綺麗な挿絵で出来ていて。

寒さと飢えを忘れたい一心で、俺はその物語に没入することに集中した。

かつて国で勇者と称えられていたケルメスは、ある日厄介な怪物にやられてしまった日を堺に体を悪くしてしまい、勇者として平和を守れなくなってしまう。

国の人達はみんながっかりして、ケルメスのことをもう見ることもなくなり、新しい勇者を探し始めてしまった。

そこで、俺の目にケルメスの挿絵がうつる。

人々が行き交う街の隅で、苦しそうに蹲る、一人の男。

かつて自分達を守ってくれていた相手だというのに、道行く人達は誰も立ち止まりはしていなかった。

とっくに見捨ててしまったのか、変わり果てた勇者の姿を直視したくないのか、それとももうケルメスだと気がつけもしないのか。

酷く悲しい挿絵に、視界がぼやけそうになる。

落ち着いて、俺。

これはただの物語、きっと幸せに包まれて終わる、読んだ人を笑顔にするための物語だ。

ぶんぶんと頭を振ってから、次のページをめくる。

自分が守ってきた国民に冷たくされ、ケルメスはとうとう泣き崩れる。

どんな苦しい戦いでも挫けなかった勇者は、このとき初めて心の底から助けを求めていた。

そんなとき、ケルメスの横をきれいな馬車が通り過ぎる。

そしてそれは。


それは、心優しいお姫様が乗る、王様の馬車だったのでした。




ぷしゅんっ、という自分のくしゃみで目が覚める。

物語の途中で眠ってしまっていたのだろうか、部屋の空気は一段と冷えて、窓からは朝日らしきものが注ぎ込んできていた。


「あさ…………朝!?」


こうしてはいられない。

早く水を汲みに行って、食事の用意を始めなければ。

もたつく手足を急かすように動かし、本を片付けて図書館を後にする。

閉じてしまったページはまだ序盤。

ハッピーエンドにはまだまだ遠そうだった。





いつか昔のように戻れると、きっと笑える日が来ると、そう信じ続けてどれだけたっただろう。

代わり映えのない日常は、今も尚、ただただ重苦しいシーンをループさせているだけだ。

3,4回は冬を越したはずなのに、俺の身長は殆ど変わっていない。

もしかしてこの年数は勘違いで、本当は2年もたっていないのかもしれないが、それはまだ2年と喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか悩みどころだろう。

母さんに打たれるのも、それを隠すのも、覚えていない母さんに何ごともなかったかのように接するのも、とっくに慣れてしまった。

変わったことといえば、母さんが外で食事をしてくることが増えたこと、俺に殆どお金は回ってこなくなったため、食べられる野草を調べて食いつなぐようになったこと、くらいだろうか。

変わったことなど、殆どありはしない。

何も、悪い方向になんていっていない。

母さんは俺が家事をしてあげていないと困るらしい。

この村で俺が出来る仕事は見つからなかったけれど、俺が街に行くと母さんは困るらしい。

母さんは、俺がいるからやっていけるらしい。

母さんは、俺から奪うことで幸せになれるらしい。

母さんに奪わせて、与えてくれるのは俺だけらしい。

俺だけが、母さんに奪われてあげられる。

母さんに与えられる。

母さんを幸せにできる。

だってだってね笑うんだ。

別人みたいになって、俺から奪った後の母さんは幸せそうだ。

笑ってくれる、俺で笑ってくれる、母さんを笑わせられる、それしか俺には出来ない、どこにもいけないかもしれないけれどここがある、俺にしかそれは出来ない。

母さんには俺が必要、悪い気はしなかった。

導き出した結論に、自分で首を傾げる。

悪い気はしない、しないけれど、ついさっきまでは別の気持ちだったような気がする。

いつの間に変わったのだろうか。

けれどまぁ、ポジティブにものを考えられるのはけして悪いことではないはずだ。

満ち足りた気持ちで、母さんのいる家へと帰る。

道中で元気に犬が吠えてきたが、そんなことは気にしない。

さあ、早く母さんに会いに行ってあげなければ。

今日も喜んでくれるかなぁ。

心からの笑顔……あれ、笑顔?

なにか笑顔についても考えていたような気がしたが、特に思い出そうともせぬままドアを開ける。

家の中で母さんは、父さんの花の絵の前にしゃがみこんで、優しく微笑んでいた。

わかった、今の母さんは我慢しているときの母さんだ。

そうでなきゃ、元凶のあいつに向かって、今もこんなに穏やかに笑えるはずがない。

久々に、怒鳴り声以外も聞きたいな。


「母さん、ただいま」


母さんを傷つけないよう、できるだけ優しい声で……


「うるさい!!!!」


えっ

予想していなかった飛来物に、反応が遅れる。

普段投げてくるとしたら、大抵は木の器やスプーン、酷くて桶くらいだった。

なのに、この尖った先端は何だ。

見覚えがないわけじゃない、これは、ペン。

風をきる音と共に、頭の右側に薄く熱が走った。


「……っ、痛……!?」

「邪魔、邪魔しないでよこんな時まで!!あんたのせいなのに!私がこんなことになってるのは、あんたのせいなのに!!」


母さんの叫び声とともに、俺の右頬にだらりとした感覚が侵食してくる。

言葉は理解できているはずなのに、母さんが何を言いたいのか、少しも頭に入ってこなかった。

邪魔?なにが

あんた?だれ

せい?なにの


あ   ま   く   く   す   ?

  た   が   ら   ら   る


見慣れたはずの世界の中、母さんの腕に抱かれた写真立てと、嗅ぎなれない血の匂いだけが鮮明で。

母さんが俺よりあいつをとった、何もしない紙切れを愛した。

それを、酷く時間をかけて理解してしまう。


「か、あさ……?」

「出て行って」


掠れた声で呼んでも、母さんは睨むのをやめない。

お願いだから冗談だと言って、少し苛立っていただけだって。

だって知ってるんだ。

怒っているときの母さんは、嘘をつかないって。

俺に甘えているだけなんだよね、あいつなんかよりも俺のほうが…………

母さんの目に、殺意が灯る。

昔もらった温かいものよりも、大好きだと抱きしめてくれたときよりも、真に迫った本物の感情。

ひとまず今は離れなければ、本当に殺される。

そう直感した身体によって、ようやく俺はその場から逃げることが出来た。

ドアから飛び出してしばらく走れば、母さんはもう後を追ってこない。

本来なら安心するはずだが、捨てられてしまったような気がして無性に怖くなった。

今からでも戻ろうか、でも戻ったら今度こそ大怪我をするかもしれない。

そんな怪我がもとで俺が死んでしまったら、母さんはどうするんだ。

あんな弱くて脆くてとても綺麗で醜い母さん、俺以外が愛せるわけないだろう。

俺は母さんのために何でもしてあげる、だから母さんはもっと自覚してよ。

俺に母さんしかいないように、母さんには俺だけしかいない。

こんな世界の中で、母さん以外を信用なんて出来ないよ。

母さんだって、モンストルムじゃなかったらあんな仕事しなくてよかったんでしょう?

人間たちは母さんから奪われてくれなかった、いつも奪うだけだったじゃないか。

あいつだってそうだ!俺をつくるだけつくって、母さんをひとりにした!

なんでそんなやつに微笑むの?なんでそいつは憎まないの?そいつは母さんから奪ったんだよ!?

そいつじゃない、そいつじゃないよ母さん、そいつは母さんから奪われてくれない、母さんに何も与えない。

本当に母さんに与えてあげられるのは俺だけだよ、だから。

もう休んでいいよ。



「____っ!!」


濁流のごとく押し寄せる感情に、また吐き気がして、慌てて口を抑える。

自分の手でのばされた血液の匂いが気持ち悪い。

こんなところを誰かに見られるわけにもいかなくて、震えながら集落から離れていく。

すると、不意に大きな犬の鳴き声が聞こえてきた。

驚いて立ち止まると、誰かが飼い始めたのだろうか、急ごしらえであろう貧相な首輪をつけた犬が、俺に向かって吠えている。


「ごめ……今はやめて、お願い」


人に見つかりたくなくて、吐き気のなか必死に犬を宥める。

けれど、俺の血の匂いで興奮状態にでもなっているのか、犬は一向に鳴き止んでくれなかった。

焦りと恐怖のなか、犬の鳴き声がやけに大きく聞こえてくる。

頭が割れそうなそれに、気がつけば俺は足元にある、先の尖った木の枝を手に取っていた。


「ほら……っ!こ、れが怖かったらっ、吠えるのをやめろ!!」


鳴き声が止まない。

駄目だ、人が来てしまう。

そうしたらどうなる?どうなるかなんて分からない。

わからない、只々怖い。

早く、早く、早く!

ずっと同じことを繰り返す犬に、どうしようもないほど苛立ってくる。

何なんだ、本当。

お前は気楽そうでいいね。

愛想を振りまいて、ご飯をもらって撫でてもらって、それで飼い主に何かされたらすぐ逃げるんだろう。

そうでなくても、もうどうでもいい。

お前ばっかり選ばれやがって。

俺とお前に、何の違いがあるというんだ。

ただ献身的に愛しただけだ、愛されたいだけだ、求められたいだけだ。

なのに……何故?


「いいなぁ」


吠えるだけの犬に近づくのは、案外簡単で。

勢いよく振り下ろされた枝が、あのペンと重なって見えた。


ギャウンっ


犬の悲鳴は、思ったよりも小さかった。

文字通り尻尾を巻いて、犬は一目散に逃げていく。

一瞬だったが確かに刺さったのだろう、俺が握りしめたままの枝には、少量ながら赤い液体が付着していた。

我に返ったのは既に犬が走り去ったあとで、謝罪の言葉を口にすることも叶わなかった。

ふらつく足で、その場を離れる。

向かうのは草が生い茂る、人気のない雑木林の中へだった。

あそこは棘のある植物も生えていて少し危険だが、鬱蒼とした雰囲気もあって村人は殆ど立ち入っていない、天気がいい日であれば絶好の隠れ場所だ。

足元の茂みをそっと掻き分け、ある程度奥へと進んでから腰を下ろす。

息を整えながら視線を下に落とせば、図書館の図鑑で見たことのある草花がいくつか見つかった。

覚えているのは食べられるものくらいだから、名前を言っていける程ではないが、こうして咲いている花を眺めるのは、俺の密かな楽しみでもある。

少し、落ち着いてきた。

ひとまず集中するために目を瞑って、一定のリズムでの呼吸を意識する。

大丈夫、大丈夫だ。

やっぱり母さんは疲れていただけだろう、こんなのよくあることだ。

今回はたまたま母さんが手にしていたのがあの写真立てであったというだけで、母さんが俺を必要としてくれていることには変わりない。


「……血も止まってきたし、食べられそうなもの探さなきゃな」


脚に力を込めて立ち上がり、服についた汚れをはたき落とす。

けれど、そのとき気がついてしまった。

なんてことない土汚れの中に、見覚えのある色の花弁があることを。

やめておけ、という理性がはたらくよりも前に、俺の瞳がそれを捉えてしまう。

視線の先、茂みの途切れた草むらで咲いていたのは、俺の父親が好きだという、薄紫色の花。

もう随分前に、俺はその花の名前を本を通して知っていた。


「コルチカム…………イヌ、サフラン」


とても綺麗な、有毒の花。

母さんとあいつが好きで、俺が嫌いな花。

いいなぁ。

駄目だ。

いいなぁ。

止まれない。

いいなぁ、いいなぁ。

早く視線をはずせ。

この花が嫌いな俺はいらない?

これ以上は駄目だ、耐えられない。


「ずるいよ」


ぐちゃぐちゃになった花弁を、冷たい地面へと落とす。

今日はもう帰ろう、大丈夫、注意していれば殺されることなんてないだろう。

すぐに確かめたいことがある。

こびりついた血を乱雑に拭き取り、俺はまっすぐに母さんの家へと向かった。

物音ひとつ聞こえない家の前、そこのドアの奥で母さんの目を見た瞬間、俺はその場で卒倒してしまいたくなった。

俺が、ずっと見て見ぬふりをしてきたもの。

母さんの目は薄くて綺麗な空色だったはずなのに、いつの間にそんな、渦を巻いた悍ましい瞳となってしまったのだろう。

俺を見る瞳にも、表情にも、仕草にも、言葉選びにも、どこにも母さんが見当たらない。

母さんが俺に向ける殺意も、嫌悪も、たしかに本物の感情だった。

でも、昔もらった愛情だって嘘ではないはずだ。

けれど、もしそうなら、目の前のこのひとは。


「誰……です、か?」


そんな俺の短い問いすら聞ききらずに、目の前の女性は俺に掴みかかってくる。

喉を掴まれると同時に喉仏が押され、苦しさに反射的に女性を突き飛ばした。


「……っ」

「きゃっ」


短い悲鳴をあげて、女性は尻もちをつく。


「教えてください、貴女は誰ですか?」


間髪入れずにそう問うも、女性も直ぐに起き上がり、返答もせずに俺を押し倒した。

体重をかけた首絞めに、本能的な恐怖が走る。

痛い、苦しい、苦しい。

涙で女性の顔が歪んで、きっと怒っているはずなのに、まるで泣いているみたいに見えた。

首絞めは暫く続いたが、もう少しで五感がシャットダウンされてしまうというところで、突如女性の手の力が抜けていく。


「……っ!ごほっ、が、かは……っ!」


詰まらせた酸素と吐き気に悶えながら、つい今までのように身体を縮こめる。

絞められた喉が酷く痛んで、必要としているはずの呼吸をすることも苦痛だった。

床に倒れ込んだままの俺を、女性は黙って見つめている。

俺がよく知っている、冷たい目。

衝撃、悲鳴が漏れる。

普段ならこれで満足するのに、女性は表情を一切変えることもなく、俺の腹を蹴り上げ始めていた。

衝撃。

痛み。

冷たい目。

衝撃。

痛み。

冷たい目。

視界がちかちかと眩しくて、脳みそが同じことしか繰り返せなくなる。

俺はなんで戻ってきたんだっけ。何を確かめに来たんだっけ。

眼の前のこの人は誰だ?

音がよく聞こえなくって、自分が何を叫んでいるのかもわからな……?

……あぁ、当たり前じゃあないか。

俺が間違えるわけがない、認めたくなかっただけだ。

だって、勝手に口から飛び出すこれは。


「や……やだ、やめてっ、母さん!!」


俺のだいすきなひとのはず。


「うるさい!!」


叫んだのは、母さんでなく俺だった。


「うるさいうるさいっ!なんで分からない!なんでわかってくれない!!なんでなんで!俺は!俺はずっと……っ!!」


回らない頭で、激情のまま支離滅裂に喚き散らす。


「待ってたのに、ずっと待ってたのに!!貴女のためならずっとここにいる!俺だけは貴女の味方でいる!なんでもしてあげてたのに!何でもしてあげた!!」


こんな大声を出したのはいつぶりだろう。

叫ぶ度に内蔵がまるまるひっくり返って、身体が裏返されるかのように錯覚してしまう。

自分が今どんな形をしているのかも分からないまま、声を枯らして叫び続けた。

母さんの顔はよく見えないが、黙って俺を見下ろしているのだろう。

どうして何も言わないのだろう、どうして殴ってこないのだろう。

俺がこんなに訴えているのだから、何かしらリアクションしてくれてもいいじゃないか。

なんでもいいから、俺を見て。


「い゛っ……!?かはっ、ごほ……っ!」

「…………」


とうとう身体が限界を迎えたのか、俺は次の言葉を発することなく咳き込んだ。

俺が静かになってからも、母さんは何も言わない。

それからも数分、母さんは呼吸を整える俺をただずっと見下ろしていたが、やがて数歩俺に近づいてきた。

ぎゅっと見を固くした俺に、紛れもない母さんの声が聞こえてくる。


「……気持ち悪い」


ぼそりとそれだけ呟くと、母さんはドアを開け、外へと出て行ってしまった。

意外でもなんでもなかったはずなのに、むしろ望みどおり怒鳴り声以外を聞けたはずなのに、胸がぐちょぐちょしたものに支配されていく。

涙を拭き取り、痛む身体で気怠く起き上がると、俺はあの写真立てを確認しにいった。

見慣れないヒビが一筋入った、コルチカムの水彩画。

こんなヒビは昨日までなかったはずだから、おそらく俺を追い出したあたりでついてしまったものなのだろう。

母さんがいつもより攻撃的だったのは、これのせいだったのかもしれない。

そう納得してしまえば、胸のぐちょぐちょは写真立てへと向いていく。

今すぐ粉々にしてしまいたい衝動にかられて、ガラスの上の親指に力を込めそうになった。

駄目だ、今やったら本当に割れる。

写真立てのことで母さんに殺されかけるのは、もう今回だけで結構だ。

かとん。

ゴリッ。

写真立てを置く丁寧さとは反して、噛み締めていた自分の歯が鈍い音を立てている。

きっとこれが、今の俺の全てなんだろう。

赤黒くグロテスクな、首を絞められた痕がガラスに反射していた。

服をたくし上げて、身体の傷跡をしっかりと確認する。

数日前や数週間前に出来たであろう青痣、引きずられて出来た範囲の広い瘡蓋、段々と痛みがぶり返してきている腹の赤い腫れ。

服で隠すにも限界が近かった。

もう、母さんはずっと元には戻ってくれなくなった。

この傷達が絶えることはないのだろう。

俺と母さんはもとから村で浮いていたから、きっと直ぐに知れ渡ってしまう、そうしたら最後だ。

今まで俺が、言葉のとおり血反吐を吐く思いで守ってきた母さんの評価が汚れてしまう。

許すものか、そんなこと。



このことが露見する前に母さんを殺す。

そして、俺が悪人として罪をかぶる。

大丈夫、大丈夫だ、嘘をつくのは得意だし、どういった者に人が嫌悪感を抱くのかもちゃんと分かっている。

慎重にやっていこう、大っぴらに醜悪さを見せつけても疑われてしまうだろう。

本気でやらきゃ、本気で考えて、本気で殺して、本気で隠さなきゃ。

……そう思い立ってからは早かった。

殺害方法は直ぐに決まった、植物を使った毒殺だ。

俺がこっそり手に入れられるほぼ唯一のもので、ある程度の知識があるというとそれくらいだろうから。

加えて、この集落には植物を庭で育てている住民もいる。

ラポワールさんも毒のある植物を育てていたことから、あえて図鑑でページを破り、燃やさずに隠しておいた。

少々無理はあるかもしれないが、隠蔽工作にはみせてくれるはずだ。

夾竹桃は使わない、人の庭から手に入れるのはリスクが高すぎる。

ただこれで誰かがラポワールさんを疑って、更に望むならこれで俺の周到さに顔を歪めてくれればいいのだから。

第一段階として自殺にみせかけるのもいいかもしれない。

確か、昔母さんにもらった手紙があったはずだ。

家にポツリとそれが置いてあったときには、遺書ともとれる文章に不安で仕方が無くなって、母さんが帰ってくるまで泣いていたりしたな。

数少ない私物が入っている棚をあされば、シワの付いた手紙がすぐに見つかった。

質の悪い紙に、可能な限り丁寧に書かれたであろう滲んだ文字。

それがこれ以上歪まぬよう、勝手に滲み出す涙を抑え込んでシワを伸ばした。

準備するものは、この手紙とコルチカム、母さんの好物を作るための材料と、保険のイヌホオズキだ。

コルチカムは秋くらいにしか花をつけることがなく、春夏は葉しか見ることが出来ない。

あの生い茂る植物のなか、この花が使われたと分かるまでには時間がかかるだろう。

イヌホオズキは、たまたま近辺に生えていた毒草として採用。

ちょうど今の時期には実がなっているし……花言葉も気に入った。

決行は明後日、母さんの好物を作って、川辺に誘う。


正直、上手くいくとは思っていなかった。

でも、震える声でかけた俺の誘いに、母さんは珍しく承諾して川辺へと向かっていく。

素晴らしい幸運、それと同時に、どうしようもなく間が悪い。

コルチカムとイヌホオズキを混ぜたスープを、川辺へと運んでいく。

既に腰掛けていた母さんに器を手渡すと、母さんは何も言わずに食べ始めてしまった。

味でバレるかとも思ったが、特に疑われている様子はない。

少量だけスープを口にしてみるが、緊張からか、味はよく分からなかった。

思い沈黙のなか、母さんの喉が動く音と、風でそよぐ草の音だけがその場を満たす。

ここで俺にも毒が回って共倒れに、なんて最低な展開を期待しながら、俺は舐める程度にスープを口に運んでいた。


「……寒くなってきたね」


突然、母さんが呟いた。

俺に宛てたものかも分からないほどに小さいそれに、手の力が抜ける。

膝に載せていた器が傾き、スプーンは地面へと落下した。

それに俺が慌てていると、不意に、横で人影が動くのがわかった。

続いて聞こえてくる、紛れもない母さんの足音。

急いで振り返ったものの、身体がそれ以上動いてくれない。

あぁ、母さんが行ってしまう。

足音が遠ざかる。

まだ毒は効いてきていない、このままじゃ駄目だ。

きつく食いしばった牙が、俺の唇の皮膚を突き破るとほぼ同時に


俺の手が母さんを投げ飛ばしていた。


俺の細腕のどこからこの力が出たのかは分からない。

だがそれについて考える余裕もなく、倒れた母さんを掴み、強く浅瀬へと打ち付ける。

ガン、と嫌な音がして、母さんが激しく抵抗を始めた。

抵抗とはいっても、母さんはうつ伏せに押さえつけられているから、大したことはできない。

ただ、起き上がろうとする力がすごくて、俺は必死に母さんの首を押さえつけ、絞め続ける。

母さんのものか俺のものかも分からない油で、何度も手が滑りそうになる。

早く強く締め付けるなり、首を折るなりして楽にしてあげたいのに、上手に力を込めることが出来ない。

手間取っている内に、母さんの生暖かった首はどんどん冷たくなっていく。

最初は吐き出していた泡も、もうとっくに無くなっていた。


「…………あ」


動いてない。

恐る恐る手を引き抜くと、俺と母さんの色をした髪の毛が、数本指に巻き付いている。

そうだ、流さなきゃ。

傷ついた顔から出たのであろう赤い血が、サラサラと流れていくのを見てそう思う。

重くて冷たい母さんの体を押して、川の深いところへと持っていく。

ドボン、と一度深く沈んでから、母さんの身体は流れていった。

離れなきゃ、家に帰らなきゃ。

落としてしまった食器類を片付けて、ふらつきながら帰路へとつく。

ドアを開けて入る俺の家は、今朝とはまるっきり違うものに見えた。

食器をその場に放り出して、普段は母さんが使っていたベッドへと倒れ込む。

気分が悪い、少し休もう。


そう、眠りについてからもうだいぶ経つ。


「う゛……ゲホっ、うぇ、ぐ、う……っ」


もうずっと俺は、焼け付く気道に涙目になりながら、何度も何度も嘔吐を繰り返していた。

遅れて毒が回ってきたのだろうか、あれから体調不良が後を絶たない。

母さんの死体は見つかったのか、何人かの住民が家を訪ねてきたが、とても出られる状態ではなかった。

幸い、水は多めに汲んできていたため、なんとか命を繋げているが……

これで何時までもつだろう。

不安に襲われて母さんの名前を呼んだところで、誰も助けてなどくれない。

俺の唯一は、俺が殺した。

再び襲ってきた吐き気に負け、胃酸を吐き出し続ける。

もし生きて毒に勝てたなら、そのときはこの家を出よう。

俺が死ななければいけなくなるその日まで、知らないものを沢山見てみよう。

そうだ、母さんが昔話していた場所があった。

非・魔法都市ウォルテクス。

母さんと父さんが出会った場所。

口を拭い、僅かに差し込んでくる陽の光に目を細めた。

本当に、眩しくて嫌になる。

涙は流れなかった。




「……っがはっ!?」


尋常でない程の息苦しさに目が覚める。

酸欠でぐらぐら揺れる頭を勢いよく上げて、そのまま後ろへと倒れ込んだ。

喉を塞ぐ異物感に咳き込むも、なかなか消えてくれない。

段々と鮮明になっていく視界で確認すると、どうやら俺は川辺で気を失っていたらしかった。

そして、そのまま倒れて水に顔をつけてしまっていたと。


「げほ……っ、じゃ、あ今のは、走馬灯……?」


掠れた呼吸で酸素を送り込みながら、状況を確認する。

最後の記憶で出していたはずのピーズアニマ達はとっくに消えているのをみると、少なくとも一瞬ではなかった筈だ。

視界の端で、チカリと光るものが映る。

這うようにして近づき手に取ると、それはピーズアニマに加えさせていた鋏だった。

そうだ、俺はなんの目的もなしにここに来たんじゃない。

どれだけの時間がたったのか分からない今、早急にことを済ませなければ。

祈るような姿勢で、鋏を携える。

ある地域の教えには、死んだ後にも別の世界があって、いい人は天国に、悪い人は地獄に行くというものがあるらしい。

母さんはいいところ、天国にいけたんだろうか。

俺はきっと同じところに行けないな、そうでないと困る。

それでも迷っている暇はない、早く首を斬らなければいけないんだ。

早く死ね、早く。

こんなことをしておいて、お咎めなしなわけがないだろう。

母さんも村の人間たちもモンストルムの優しい人も、俺がいたから酷い目にあったんだ。

早く死ね、早く。

金色の切っ先を、喉の前へと移動させる。

これで、これでようやく。













                              __虚しいな








「やめなさい、ルークス!!」



衝撃とともに、鋭い痛みが喉を掠める。

ぶつかってきた何かに抵抗も出来ぬまま、俺は倒れたまま首元を抑えた。

苦手な種類の痛みに、ついぎゅっと丸くなる。

そんなことをしていたら、鋏を誰かに奪われたのが気配でわかった。


「ちょっと……私の話、聞きなさい!」


聞き覚えのある声、けれども予想していなかった声の主にハッとする。


「マーシャ……ちゃん……?」

「そうよ」


満月の光を背に浴びて、美しい少女が俺を見下ろしていた。



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