第53話 2032年5月2日(日)晴れ

 翌日。幸いにも僕の怪我は通院で良いとの許可が出た。

 走ることはできないが歩く分には痛みもないので、日常生活に問題もなさそうだ。


 そして僕は今、『ゲフェングニス・ホテル&リゾート』に来ている。

 改めて見ても、僕の人生でこんなリッチなホテルに泊まることはないと自信を持って言えた。


 もちろん泊まりたくて来たわけじゃない。


 決して良い思い出、だなんて言えるものじゃないけど……

 あの経験を忘れることなんてあるわけがないと分かっているけど……


 それでも取り壊し前に一目だけでも見ておきたかった。

 ケジメ……心の区切り……言葉で表すならそんなところだ。


 第二ホテルまで車で送ってもらうことも可能だったけど、なんとなく行きと同様の場所から歩いてみたくなって、日差しの下、周りの喧騒や風景を楽しみながらホテルに向かっていた。


 でも……薄々は感じていたが、第二ホテルまでの道はすでに工事、という名目で閉鎖されていて、入口さえも拝むことはできないようだ。


 第二ホテルは木々の合間から上層が見えるくらいだったけど……

 僕はしばらくの間、そこで佇んでゲームを振り返っていた。


 もう……忘れないといけないんだろうな……


 瞼を下ろし一つ頷き、ホテルへ背を向けて歩き出そうとした時だ。

 1人の女の子が歩いてくる姿が目に入った。


 相手も僕に気が付いたようで、切れ長の瞳が僕を捉えている。


「まさか……また会うことになるなんて……思ってなかった……」


「ああ。それは僕もだ。でもよかった。一言だけで良いから伝えたかったんだ。ありがとうって……」


 僕は一歩踏み出し右手を差し出した。

 相手ももう触れていいことに気が付いたようで、自身の右手に視線を落とした後、僕の手を握り返した。


「ううん。お互い様だから……えーっとねずみさん……」


「ははっ。僕はもうねずみじゃない。天雄あまおだ」


 もう僕のゲームが終わった以上、あのアバターともお別れだ。

 だからもうその名前では呼んでほしくない。


「そっか……分かった。私は……菜留なる天雄あまおくんのおかげでまたこの世界でVを続けることができる……ありがとう……」


「いや、僕のほうが助けられてばかりだったよ」


 暖かい日差しの下、つい先日一緒に殺し合いの場に居合わせたことが嘘かのように優しい会話が途切れることなく紡がれていく。

 ダウントーンでありながらもさすがに人気配信者ということもあって、話の切り口が多く、また同時に聞き上手な菜留なるに乗せられて口下手な僕でもスムーズな会話のキャッチボールに心が弾む。


「やっぱり……菜留なるもプレミアム配信は断ったんだね」


「うん……私は戻ってやらないとなこと……いっぱいだから……」


 普通はそうなんだろうな……

 僕はもう何をしたいかも分からない……あの頃のようにガワ師としての熱意を取り戻せる日は来るのだろうか。


 あれっ……?


「あ……あのさ、答えにくかったらいいんだけど……ガレットの配信って……」


 いくら視聴層が違うとはいえ……

 擬態アバターと思っている視聴者が大半だとは思うけど、終始ブレることのない言葉遣いに本人だと信じて疑わないやつだっているに違いない。


「あ……うん。天雄あまおくんは詳しくないから……知らないんだろうけど……ガレットはもともと休止してたの……だからもうガレットはこのままお終い」


 菜留なるの言葉に胸を撫で下ろす。

 それが一番だろう。

 でも……


「でも、Vを続けることができるって……新しいガワで再始動ってこと?」


「ううん……アバターはもう一つあるから……」


 用意がいい。

 でも、それと同時に少しだけショックを受けたかもしれない。


「そ……そっか……いや、あのさ……僕は仕事でイラストからモデルまで作るから、お礼って言うのもおかしいけど、そういうことで恩を返せたらって思ったんだ」


「え……天雄あまおくんはイラストとかモデル作れるの……? すごい……あ……でもそれなら……もう一つのアバターのモーション回りの調整……私向けにしてほしいかも……」


 菜留なるの返事に僕は思わず浮足立つ。

 それは少しだけあの時の思い出。

 ルネ姉――いや……カヨとモデルを作った日々が僕の中を過ぎったからに他ならなかった。

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