8月13日(土)#3


 思わず、私は口をぽかんと開けたまま息をのんだ。

 そんな器用なことができたのかと、いつもならセルフで突っ込むところだ。それもゴクッと喉から音がするほど、分かりやすく。

 唐突に肩を叩かれたにも関わらず、のんびりと顔を上げた彼はゆるりと緩慢な瞬きをする。透けそうなほどの白い肌に、重たげに開いた瞳。私が今までに見た誰よりも色が薄く、どこか灰色がかったようにさえ見える双眸。焦点が合ったのか、呆ける私を映して少し大きくなった。

―― 綺麗。

 絵に描いたように、とはこういう時の事を指すのだろう。あ、と初めに声を出した形のまま口を閉じられず、みっともないほどに見惚れてしまった。

 なんだ、この美人は。

 後ろ姿からはまるで想像していなかったその端正な顔立ちに、視線が絡めとられたように動かせない。寝起きでただ気怠そうなだけではない、妙に色気のある表情。

「…ん?」

 彼は自分の肩に置かれた私の手を見て、それから周りを見て、最後に私の顔を見て、不思議そうに首を傾げる。そのわずかな仕草もどこか艶やかに見えるというか。

「あ、あの…」

 いや、驚いた。

 俯いた状態の脱力した腕と丸まった背中だけを見て、勝手に年配の男性だと思っていたから。

 見たところ、私と年齢は大きく変わらなそうな気がした。童顔だからなのかどこか少年のようなあどけなさも残っていて、それなのに初対面の私に声をかけられてまるで動揺していない、不思議な落ち着き。年上と言われても年下と言われても納得してしまいそうな、今までに感じたことのない雰囲気に私が戸惑う。

 ……と、いうか。

―― いやいや、こんな至近距離で真正面で向き合ってるのダメでしょこれ!

 不自然な体勢と距離感に気づいて、慌てて離れて立ち上がる。

「きっ、気分悪いのかなって思って、…ごめんなさい!」

 きっと、この木陰で昼寝をしていただけだった。

 お節介を詫び、急いで頭を下げると「ああ……」とこちらの気が抜けそうなほど脱力した返事。

 顔を上げながら座ったままの彼の様子をちらりと伺うけれど、起こされた事に対して気分を害した様子は無い。なんとも思っていなさそうな、というかそもそも興味がなさそうな。少し大きめの白シャツから覗いた手で、猫のように目をゴシゴシと擦っている。

「あ…あの、でも寝てる間に熱中症とかなるっていうし…。気をつけたほうがいいですよ」

 余計なことを、と言いながら思ったが、人があまり通らないこんな場所でぱたんと倒れられても困る。

 この町にまだ人がたくさんいた頃、ここの道は通学路でもあり人々がよく行き交っていたけれど。私が中学に通い始めた頃から、そんな姿を見るのも減った。

 いくら涼しいからといっても、炎天下の屋外なのだ。昼寝をしている内に脱水症状などの自覚なく意識を失い、そのまま誰にも見つけてもらえなかったら…なんてことを考えるとゾッとする。

―― まあでも…子どもじゃないんだし。

 彼が目を擦る手を止めて少しだけ驚いた顔をしているのを見て、ただのありがた迷惑だったかと思って発言を取り消そうとした時。

「うん、わかった」

 と彼が返事をした。私の言葉を咀嚼するように、「気をつけるよ」と穏やかに続けた彼の瞳が僅かに優しく目が細まる。

 思いがけず普通に受け入れられて、あしらわれると思い込んでいた私の反応が数秒遅れた。

「あ、えと、それじゃ、それだけ、で…失礼しました…」

「うん。じゃあね」

 ペースを崩されて、自分でも何を言っているのか分からない。挙動不審なままその場を離れようとした私に、大きな幹を背凭れにしたまま「ばいばい」と子どもみたいに手を振る。

 曖昧に笑いながらなんとなく手を振り返すと、私はそそくさと背中を向けて家路を急いだ。

―― なんか、変わった人…。

 今すぐにでも振り向きたい衝動を抑えて、足早にその場から離れる。「うん、わかった」なんて、小学生のような素直なお返事。と同時にこちらに向けていたのは、肌の奥がざわりとするような、畏れに近い何かを感じさせる大人びた視線。

 熟れた大人のようで、それなのに毒されていない無垢な子どものような。対照的なはずの色が共存しているさまが、私の心に強烈な痕を残す。

 掴みどころがない、とはああいう人のことをいうのだろうか。

 結局こらえきれずに数メートルほど進んだところでこっそりと後ろを振り返る。しかし彼の方は私への関心が全く無かったようで、ふわりと大きく欠伸をしていた。



 大木を通り越して、さらに歩いて5分ほど。

 昔ながらで大きな瓦屋根の家がぽつぽつと点在する一角に、私の実家がある。

 田舎町の農業地域あるあるなのか、敷地がやたら広く母屋以外に蔵もあり、子どもの頃は家での遊び場所に困ったことはなかった。

 この、玄関横のだだっ広い土間コンクリートに設置されていたバスケットゴールをきっかけに、私はバスケにハマったのだ。使う人がいなくなった今も、変わらず同じ位置に立つ錆びた体と、すっかり汚れたリングネット。嫌でも目に入るそれを無理やり視界から外して、取っ手に手をかけた。

「ただいまー!」

 引き戸をガラッと開けながら家の奥に向かって叫ぶと、頭上でちりんと風鈴が鳴る。

 数年ぶりの我が家から鼻に真っ先に飛び込んできたのは、藺草と線香が混じった和の匂い。ここで暮らしていたときは鼻が慣れていたのか何も感じなかったけれど、この3年弱ですっかり忘れていたらしい。

 懐かしむように息を吸ったら、「おかえりー」と奥から声がして、パタパタとスリッパの足音が近づいてきた。


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