第五話・振り返る(其の二)

 呼吸がうまくできなくなっていた。身体が痙攣してきて、力が入らなくなり、倒れるのを堪えて座り込んだ。鈴木さんが紙袋を私の口元にあてると、痙攣はおさまり、身体が少し楽になった事を覚えている。

 過呼吸が、初めてじゃなかったのが幸いしたのかもしれない。


  ✳  ✳  ✳


「落ち着いた? 苦しいなら話の続きはまた今度でも良いのよ。ここまでの移動の疲れもあるでしょう」

 私は、手首を軽くおさえて、脈をはかる。脈拍はだいぶ落ち着いている。今まで、何度か経験した過呼吸で、冷静になる事を少しは、学習しているつもりだった。この感じなら大丈夫。まだ全部話せてない。

「鈴木さんのお時間が大丈夫なら、私は話しておきたいです。日を改めるより、今、吐き出すことが大事だと思うから」

「あなたが大丈夫なら、話をしましょう。次、気分悪くなったら日を改める。それで良いかしら」

「はい」

 私は、温くなったお茶を飲み、また、深呼吸した。ここには、春哉はいないんだから、大丈夫。そう言い聞かせながら。

「今まで俺は尽くしてきた、大事にしてきてやった、そう言いながら、何度か蹴られました。蹴った後、ごめんって優しい声で、私を抱き締めながら謝るんです。だからその時は、たまたま機嫌が悪かったのかなと思い直しました。それまでは、いろいろ協力的でしたから。春哉とたくさん話し合って、卒業旅行は、仲の良い女友達二人だけで行くなら良いって、それで納得してくれたんです。話は変わりますが、この友達が、明後日の会を教えてくれた子です。ネットで検索してくれて。県外なら安心じゃないかなって」

「そうなのね。あなたの変化を感じ取ってくれて、今回も駅まで送ってもらったんでしょう? 大事にしないとね」

 私は言葉に詰まって、しばらく、首を縦に振ったり、深呼吸したりしていた。

「大学卒業して、私が正社員で働き始めた時から、春哉はピリピリしてました。夜ご飯を食べた後、自分から職場はどうかと聞いたくせに、いざ話すと怒るんです。私はまだ研修中で、特別誰かと親しくなくて、同期の人や先輩と話した内容を伝えただけだったのに、くだらないとか、いろいろ貶すんです。それから、その頃は、なんだか無理やり、いやだと言っても身体に触れてきて、その……」

 言い難い話だった。思い出すのも気持ち悪く、私は口籠る。

「辛い話よね。それもまた、DVになるの。それは、つまりセックスの強要?」

「はい。研修中で私は疲れてるから、早く寝たいと断っても。それから、私は夜が少し、怖くなりました」

 夜の静けさ、時計の針の音、風が窓を叩く音、ベッドに近付いてくる足音。

 聴覚過敏。眠気が来ても、少しの物音で覚醒するものだから、眠れなくなる。

「研修で居眠りしそうになって、困りました。そして、総務課に配属先決まってから、教えてくれるのが男の先輩になってしまって」

 私の目の下のくまを、先輩は心配してくれた。慣れない仕事で、眠れてないのかと。私は否定した。仕事のせいじゃなかったから。

「職場の話をしたくなかった。春哉は、私の心配というより、私が誰と話してるか、それに執着してるだけだったから、話をそらそうとしたんです。そうすると、ご飯食べてる最中に、頬を叩かれて、口の中を切りました。それ以外に、別の日には、歯がぐらつくくらいに殴られたりも。あまりに酷いと顔が腫れるから、マスクをつけて仕事に行くようになりました」


 

 

 

 



 


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