ホットスポット

牛丼一筋46億年

第1部

 あと数秒、あと数秒で恐らく俺は死ぬ。

 夜明け前のアフリカのサバンナ、太陽は地平線から顔を少し出しているだけで、辺りはまだ薄暗い。数分前、ゾウの頭は撃ち抜かれ、頭から流された血を白い大地は貪 欲に飲み込んでいった。それはまるで大地への生贄のようだった。

 死が近づいている。地面に這いつくばり、男の死体を盾のように自分に覆いかぶせて、あいつらを見る。サバンナには遮蔽物がないので、その姿がよく見える。彼らは撃ってこない。多分、俺を確実に殺せる距離まで近づいてから狙いを定めるのだろう。


 全身から冷や汗が噴き出る。汗のせいで白い砂が俺にへばりつき、汗を吸い取っていく、白い砂がいやらしく俺にまとわりついてくる。まるで大地が俺の命まで欲しているように思えた。

 その時、俺はようやく答を導き出した。

 なぜ生きるのか?

 なぜ奪うのか?

 なぜ奪われるのか?

 なぜアームストロングは月から戻ってきたのか。

 答はホットスポットの中にあった。でも俺はあと数秒で死ぬ。



 正確に、枠からはみ出さないように、向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押す。ハンコを枠の中に押し続けている。夜のオフィスにいるのは俺だけだった。みんなは俺に仕事を押し付けてもう帰ってしまった。

 これは夢だとすぐに気が付いたが、それでもハンコを押し続ける。そうしていると心が休まるからだ。ハンコを押すたびに俺と言う存在が希薄になっていく。それがとても心地よい。


 社長が高価なものだと自慢していたハンコは、象牙で出来ているらしい。あんな愚かな人間を喜ばせるためだけに死んだゾウが不憫でならない。

 まず、未処理の書類の山を、自分の右側にまとめて置く。そして、ひとつずつ、書類に目を通す。金額、数量、文章に間違いがないか指でなぞり、口に出して確認する。間違いがなければ、左側に資料を置いていく。全てが終わると、左側に資料の山が出来る。そこまで終えると、俺は資料を全てもう一度、右側に置いて同じことを繰り返す。そこまでしてから、ようやくハンコを押す。人は信用できない、必ず間違いを犯す。もちろん自分も。だから必ず二度確認する。それでも万全ではないと考えている。


 丸い円の中を枠の中に描いていく作業は嫌いではなかった。ハンコを押すのは小さな会社の経理作業の殆どを一人で行っていることに対して、自負心や達成感を確認する儀式でもあったからだ。激務ではあったが、必要とされていることで、小さな承認欲求は確実に満たされていた。

電話が鳴る。すぐにとる。


 「先輩。そういう考え方マジでキモイですよ」

 電話口からは京子の声が聞こえた。

 「京子、今どこにいる?」

 「月の上です」

 「俺も行っていいかな」

 「駄目です」

 「どうして?」

 「自分で考えて、先輩。本当に生きているか自分に問いかけてみて」

 「俺はどうすればいい?」

 「自分で考えて、先輩」

 


 「先輩、おはようございます」

  起きると、窓辺に京子が立っていて、彼女は町を見下ろしていた。

 「また、日本にいるときの夢を見たよ」

 「毎晩見ていませんか?」

 「そういえば、京子も夢に出てきたよ。声だけだけど」

 「夢の中の私、なにを言ってましたか?」

 「俺に、キモイっていってきた」


 彼女は振り向いて、顔をくしゃりと歪めて笑った。彼女はアフリカに来てからも黒のパンツスーツに身を包んでいる。体の割りに大きな顔、短い手足、既に二十代も半ばを過ぎている彼女だが、実年齢よりもだいぶ幼く見える。それなのに声は、酒やけしたみたいに少しだけしゃがれている。愛らしいシルエットと特徴的な声はまるで幼児向けアニメに出てくるキャラクターみたいに、親しみやすさを持っていた。事実、会社で彼女のことを嫌いな人間は誰一人としていなかった。

 「やだなあ。そんな辛辣なこと言いませんよ」

 「いや、言うね。お前は猫かぶってるけど、かなり腹黒いからな」

 「それは先輩が私のことをそういうバイアスをかけて見てるからですよ」

 俺は京子の隣まで歩き、外を眺めた。



 アフリカ某国の首都にあるビジネスホテルに泊まって、もう一か月になる。会社の金を後輩の京子とともに持ち逃げして、海外へ高飛びすることになったとき、最初は東南アジアに行こうかと思っていたが、京子は首を横に振った。


 「東南アジアは既に、日本人コミュニティが多く形成されています。捕まるリスクはかなり高いと思いますよ。せっかく海外に行くんだから、遠いアフリカにしたらどうでしょう。今、チャイナマネーが流れ込んできていて、凄まじい勢いで発展していますよ。既得権益がない分、全てのスピードが速いんです。私なら断然アフリカにしますね」


 調べてみれば、彼女の言う通り、アフリカは想像を絶するスピードで近代化が進んでいた。アフリカ大陸に住む人々は殆ど全員スマートフォンを持っているし、輸血のための血液はドローンで送られる。都市部には高層ビルが立ち並び、サムスンのような国際企業のオフィスもある。

 転落を始めた日本経済とは、対照的だった。彼らは今から、高度経済成長期を迎えようとしているのだ。沈没していく船から、今まさに海原へと出発しようとする船に乗り換えるのは、至極当然のように思えた。

 ただ、正直に言えば、俺はどこでもよかったのだ。日本でなければどこでもいい。アフリカに決めたのは京子がそう言ったからで、きっと彼女が「東南アジアいいっすね」と言えば東南アジアに行っていただろう。


 アフリカといってもかなりの国がある。俺たちが選んだ国は物価は高いがその分、近代化が進んでおり、なおかつ治安も良い国だ。さらに公用語は英語である。そこはアフリカで一番平和な国と言われていた。深く考えることなく、その国に渡ることを決めた。金銭的な心配はしなくて良いことが無計画に拍車をかけた。

 アフリカに来てしばらくの間は全てが真新しくて、よく外出をした。昼は近くのレストランでトウモロコシをペースト状にした食べ物であるシマとステーキのランチを食べ、夜になれば酒場でビールを飲む生活。たまに車を借りてショッピングモールにも行った。モールの中にはマクドナルドもある。ハンバーガーを頬張った後、服を見て回った。


 この国は今まさに成長しようとしている。町を歩く人々は活気に溢れている。彼らは真新しい原色のシャツを着て、その長い足で踊るように地面を踏みしめて歩く。彼らは日本人がかつて持っていたものを持っている。希望だ。

 彼らが輝いて見えた。この国は日本に比べて素晴らしいとも思ったが俺は彼らに溶け込もうとはしなかった。逆にどんどん孤立化する道を選び、アフリカに来て二週間が経ったとき、ホテルの部屋から出なくなった。食事はルームサービスで済ませ、一日中ネットで映画を見て過ごした。


 ある日の深夜、俺は『ファースト・マン』という映画を見た。人類で初めて月に降り立ったニール・アームストロングの伝記映画だ。家族との死別、マスコミからの批判、更には訓練中の仲間の事故死、などなど様々な苦境に立たされながらもひたすら宇宙を目指すニール・アームストロングの姿を描いた一大巨編だ。

 ベッドに寝っ転がってテレビを見つめていると、京子も隣に座ってテレビを見つめだした。


 「覚えてる? これ、二人で見に行ったよな」

  俺がそう言うと、彼女はテレビから視線を外すことなく言った。

 「2019年の2月の確か第三週の金曜日。レイトショー」

 「よく覚えてるね」

 「私が覚えてるってことは先輩も覚えてるんですよ。きっと心の奥に記憶を沈めているだけで」

 「この映画さ。思ったより面白くなかったよな。全体的に陰気で。主人公のアームストロングが凄い暗い奴でさ、なんにも喋らないんだよな」

 「先輩は爆破シーンが在れば名作認定するからチョロいですよね」

 彼女は短く笑う。俺も笑う。

 「なんでニール・アームストロングは月に行こうとしたんだろう。娘は病気で死ぬし、訓練で仲間は死ぬし、家族とは不仲になるし、それなら地球で大人しく暮らしていた方がよほど幸福だったんじゃないかな」

 「逆ですよ、先輩。娘が死んで、訓練で仲間が死んで、家族とも不仲になったからこそ月に行ったんじゃないですかね。月には何もなかったみたいだけど」

 アームストロング。重力が支配する世界へおかえり。誰もサークルから逃れることは出来ない。ちゃんと枠の中にハンコを押さなきゃ。向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押すんだ。


 「悲しい考察だな。それなら月で死んだ方が良かったんじゃないか」

 「先輩、あなたはきっともう答を知っています。アームストロングは月でなぜ死ななかったのか? よく考えて」

 京子は挑発するような笑みを浮かべて俺を見つめた。俺は困ってしまった。だって、答がまったくわからないから。彼女の顔を見ていると何故か胸が締め付けられる。この感覚を俺は知っている。子供の頃、学校で先生に当てられた時と似ている。

この答が分かるかな。君ならきっと分かるはずだよ。

 ごめんなさい。わかりません。

 泣きそうになっている自分に気が付く。きっと京子は俺の目に涙が溜まっていることに気が付いているだろう。それでも京子は俺から視線を外してくれない。彼女は俺を見つめ続ける。笑みを浮かべながら。


 

 町を見下ろすと、区画整備されて、広く走りやすい道路が見える。それらは現実感を感じさせない、まるでレゴブロックで作ったレプリカみたいに見える。

「俺は生きているのかな、死んでいるのかな?」

 京子はベッドに腰を下ろして俺を見つめていた。

「せっかく日本を脱出できたのに浮かない顔ですね。先輩は日本から出れば自由になれると思っていたのかもしれません。でも、サークルを出てもそこにあったのはまた違うサークルというジレンマが先輩を苦しめているのだと思います。仕方ない、私が元気が出る方法をお教えしましょう」

「どうすればいい」

「そんなの決まってますよ、バーに行ってビールをごくごく飲んじゃいましょー!」

 そう言って彼女は飛び跳ね、俺はその無邪気さに数日ぶりに笑った。

 俺は彼女の助言通り、夜、ホテルから近いバーに出向いた。



 厚着をしているのに、アフリカの冬の夜は身震いするほど寒かった。今は七月だが、南半球に位置するアフリカは冬なのだ。灼熱のサバンナ、半裸の民族、みたいなイメージをアフリカに持っている人も多いだろうがふざけちゃいけない。アフリカにだって当然のように冬はやってくるのだ。


 アフリカに降り立ち、空港を出た瞬間、あまりの寒さに身震いした。冬だとは知っていたし、防寒具に身を包んでいたが、それでも寒くて仕方がなかった。なんでこんなに寒いのだろうか。なぜか涙が出てきそうで、落ち着くためにしっかりと自分を抱きしめてその場に座り込んだ。

 「とうとう独りぼっちになっちゃいましたね。これが先輩の望んだことだったんですか?」

 隣で意地悪く京子が呟いた。彼女は寒さなんてへっちゃらみたいで、パンツスーツにマフラーを身に着けているだけだった。

 「ひとりは嫌だから、ここまでお前と来たんだろ」

 俺は隣の京子見上げた。彼女はとても悲しそうな顔をしていた。

 

 

 バーに入った瞬間、人と暖房の熱気にむわりと全身を包まれた。店内はほぼ満席だった。テーブルもカウンターも人でごった返している。天井には紫色のネオンが点灯していた。当たり前だが、俺意外はほぼ全員黒人だ。黒人は皆香水をつけているからなのか甘い匂いがした。彼らの匂いと酒の甘い匂いが混ざり合い、日本では嗅いだことのない匂いが鼻孔をくすぐる。無理やり例えるなら熟れたパイナップルにバターを詰め込んだような匂い。彼らは真っ白な歯を見せて笑って楽しそうにお酒を飲んでいた。酒場の雰囲気というのは世界中でほとんど共通していると思う。

うるさくて、みんな笑っていて、温かくて頭がぼんやりしてくる。ここでのマナーは笑って楽しむこと、そうすればみんなと同じになれて心地よくなれる。だからみんな酒場にやってくるのだ。個人を消して、集団という匿名性に身を包んで、気持ちよくなるためにみんなやってくるのだ。



 カウンターで冷えたビールを少し舐める。

 俺の隣で京子が微笑む。

 「少しは気分が晴れましたか」

 彼女はまだスーツを着ている。

 「来なければ良かったよ。これを飲んだら帰る」

 果たして、俺は笑うことなど不可能だった。なにがみんなそんなに面白いのだろうか。

 「駄目です。ほら、友達を作って、誰かに声をかけて」

 俺は黙り込んでビールを飲みこむ。京子は多分、俺がもう友人を作る気がないことを知っている。それなのに、なぜ俺をけしかける。本当の善意からなのか、それともこれは彼女の加虐心からくる言動なのか。

 ハッキリ言って俺は生きるということにウンザリしている。京子は日本にいたとき、こんな話をしてくれた。


 我々の世界はサークルで、人はその内側をぐるぐると回るビー玉にすぎない。まるで、恒星の周りを回る惑星、惑星の周りを回る衛星のようなものだ。そして、人はサークルの中でしか生きることが出来ない。彼女の話は正しいと思う。そして、俺は内側を回り続けることが狂おしいほど苦手なのだ。京子、君も知っているだろう。円を描いていると誰かを弾いてしまうんだ。人は生きて円を描く過程で人を円の外に弾いてしまう。円の中には定員がある。だから意図的に弾く人間もいるし、図らずも弾いてしまう人間もいる。ただそれは過程の差異であり、結果は変わらない。弾かれた人間は孤立化する。まるで宇宙空間で背中を押されたみたいに、どこまでも遠くへ行ってしまい、そして帰ってこられなくなる。俺はそれを望んだ。誰かを弾いた罪悪感と、弾かれることに対する恐怖心に苛まれて生きるくらいなら、自ら遠くに行ってしまった方がマシだと思ったんだ。もう、何もかもが嫌だったんだ。幸運に恵まれるのは巣箱のミツバチなのだ。彼らは集団を享受し、個人が希薄で、考えることと人を傷つけることに鈍感なのだ。彼らの事を否定する気はない。俺なんかよりも彼らの方がよっぽど人間として上等なのだろう。ただ、俺はそういった感性を持っている彼らが羨ましくて仕方がないのだ。俺には無理だったのだ。だから日本から逃げてきた。

 それなのに、君は円の中に帰れと言う。それは残酷なことだ。


 「それは違います」

  京子はきっぱりとそう言った。

 「私はただ先輩に生きていて欲しいだけなんです」

 「それを俺が望んでいなくても?」

 「先輩、よく考えて、アームストロングは月でなぜ死ななかったのか?人はなぜ奪い、奪われるのか。生きるとは何か、思い出して」 

 その時、後ろから、あのー、と言う間延びした声が聞こえてきた。久しぶりに聞く日本語。振り向けば髭面の男が立っていた。デカいリュックを背負って、汗で汚れたシャツを着ている。恐らくバックパッカーだろう。

 「日本の方ですか?」

 「我不是日本人(中国語で「私は日本人ではありません」の意味)」

 そう言うと彼は困惑したみたいだ。もしかすると京子との会話を聞いていたのかも知れない。

 「意地悪しないの」

 京子に叱りつけられて、俺は観念した。

 「そう、俺は日本人だ」

 俺がそう言うと、バックパッカーはニコリと笑った。

 「よかった! もし良かったら一緒に飲みませんか?」

 俺は断ろうとしたが、その前に京子が是非! と答えた。俺は京子のことを睨みつけたが、彼女はどこ吹く風だった。

 「一緒に飲もうか」

 俺が諦めてそう言うと、彼はとても嬉しそうだった。

 「Have a great night」

 京子が俺の耳元でささやいた。



 そのバックパッカーの青年は、久しぶりに日本語が話せる嬉しさからか休むことなく口を動かしていた。彼はアフリカ大陸を一人で横断しているらしく、そのどこかで聞いたことのある非凡で平凡な旅について事細かに話してくれた。京子は相槌を打ったり、えーっ!とリアクションをしていたが、途中から飽きてしまったらしく、爪を見つめたり、髪の毛をいじりながら、時々思い出したように唸りとも相槌とも言えない声を漏らしていた。


 俺はというと、彼の話を聞いている振りをしてひたすらビールを飲んでいた。彼はなぜアフリカ横断などしているのだろうか。疑問をぶつけてみるも、返ってきたのは自己改革と言うあやふやな言葉だった。違うだろ。現実逃避だと言え。お前は日本に帰る。俺と違ってな。そして、その長い髪を切ってつまらない会社に入ってつまらない仕事をして、面白みのない女とセックスして、面白みのない子供が産まれる。お前は自分が凡庸な人間であると認めたくない凡庸な人間なのだ。旅などという凡庸な逃避をしている時点で気がつけよ。思考が回る。酒が回る。でも口だけは回さず、ニコニコと彼の話を聞いてやる。懐かしい感覚だった。右の資料の山を左の資料の山に移していくのを思い出す。誰もサークルから逃れることは出来ない。ちゃんと枠の中にハンコを押さなきゃ。向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押すんだ。それがサークルに残り続ける唯一の方法。



 しばらくの飲酒により意識があやふやになってきた。気が付いたとき、俺とバックパッカー以外にも、もう一人テーブルに黒人の青年がいることに気が付いた。

彼の名前はケネスというらしい。農村部からビジネスで都市部にやってきた。明日には故郷の村に帰るので、その前に酒をここで飲んでいたらしい。陽気な青年だった。まるで日本人が考えるステレオタイプの黒人。ダンスと音楽が好きで、息をするように冗談を繰り出し大笑いする。バックパッカーは彼を気に入り、肩を組んで酒を飲んでいる。彼は拙い英語でケネスに話し、そしてケネスはそれを聞いて大げさにリアクションしてやる。

 「We are friends!」

バックパッカーが俺とケネスを両腕で抱きしめてそう叫んだ時、背筋が凍る気分になった。京子はカウンター席に移っており、ニヤニヤしながら俺のことを見ている。これが解決方法? 日本にいた時と同じじゃないか。お前だって嫌いだろ?こういうの。


 ふいにバックパッカーの青年の手から力が抜けていく。彼はゆっくりとテーブルの上に倒れこんでいく。それをケネスは抱きしめてやり、優しく椅子に座らせた。

 「おい、大丈夫か」

 バックパッカーの肩を揺さぶるも完全に力が抜けている。酔いつぶれているのではなく完全に意識を失っている。

 「病院だ」

 スマートフォンをポケットから取り出そうとしたが、その手をケネスに掴まれた。

 「睡眠薬を盛っただけだ。酒と睡眠薬の組み合わせは最悪だが、死ぬほどの量は入れてない。明日一日地獄を見るかも知れないけれど、死ぬことはない」

 もうケネスは笑っていなかった。手際よく彼の体をまさぐっている。そして、腹に巻いたポーチから紙幣を見つけ、身をかがめて、彼の靴下から非常用であろう紙幣を探り当てると紙幣を無造作に自分のポケットに突っ込んでから、バックパッカーの上体をテーブルの上に寝かせ、美味そうにビールを一口飲んだ。


 「ひどいな」

 俺は思わずつぶやいた。

 ケネスは驚いたようだった。

 「そんな、俺は優しいだろ?殺してバラシて全部売っちゃう奴らもいるんだぜ。寝かして金だけ取るのは良心的だ」

 「そうか、俺は帰るよ」

 そう言って立ち上がった俺の手をケネスは掴んだ。

 「せっかくだ、店を変えて飲もうぜ、マイフレンド」

 カウンターの京子の方を見る。彼女はサムズアップしている。マイボスからはゴーサインが出た。行くしかない。



 「マイボス、ケネスのことどう思う」

 「本人が言うように悪人ではないし、意味もなく人を殺すような人ではないと思います。でも」

 「でも?」

 「でも、意味があれば人を殺す人間だと思います。また、意味もなく誰かを飲みに誘うような人でもないと思います」

 「なら、何かしら頼まれることになるかな」

 「恐らく」

 「怖いな」

 「嘘つかないでください。先輩は怖がっていません。でも、だからこそ、ケネスと出会えたのは良かったかも」

 「どうして?」

 「きっと、先輩は死の恐怖が間近にやってこないと答が分からないだろうから」

 「アームストロングは月でなぜ死ななかったのか? ってやつか」

 「おい、何話してんだよ」


 ケネスが振り向いて、俺と京子を見る。俺たちはバーを出て、通りを何本も歩いた。すっかり都市部からは離れ、住宅街の中に入っていた。通りには酔っ払いが何人か歩いていた。夜間気兼ねなく外出できる国は多くない。ましてやアフリカでだ。あらためてこの国の治安の良さを思い知った。

 我々は住宅街の中にある一軒家を改築した小さなバーに入った。きっと観光客はおろか地元の住民も来ないような寂れた店だった。白いコンクリートの打ちっぱなしの壁。木製のカウンター、テーブルが数個、そこに並べられた椅子はちぐはぐだ。中は案の定誰もおらず、ただ換気扇のファンが気怠そうに回っているだけだった。俺たちはビールを頼み、酒を待つ間にケネスは話し始めた。


 「俺は無駄話が嫌いだ。だから単刀直入に言うと、俺に投資して欲しい」


 ケネスは農村部の出身だった。都市部は急速な近代化が進んだが、農村部は未開発な地域も多い。ケネスは十七歳の時、農村部から都市部に出稼ぎにやってきた。

 ケネスには夢があった。それは都市部にある高層ホテルに住むこと。そこの最上階で窓辺に座り、ニーチェの『ツゥラトゥストラはかく語り』を読みたいと言い、懐からボロボロになった書籍を取り出して、俺のバイブルだ。と言った。そして、都市部にやってきたケネスはニーチェの教え通り強者となるべく、道徳と倫理感を捨てて、自己の価値観のみで金稼ぎを開始する。こう話すと難しく聞こえるが、早い話、強盗になったのだ。金を稼ぐという一点において、これほど合理的な選択はなかった。


 ケネスの考えは正しかった。旅行者を狙い、強盗となった彼は短期間でまとまった金を稼ぐようになった。そして、犯罪組織にスカウトされ、その組織の末端構成員になる。その組織を仮にAと呼ぶことにしよう。Aの主な収入源は象牙の密猟だった。我々が今いるこのアフリカ某国には大きな記念公園があり、雄大な自然の中で多くの動物が生きている。そこで象を殺す。頭から牙を抜きテロ組織に売る。するとテロ組織は象牙をブラックマーケットに流し、金が流れ込んでくる。要するにテロ組織の下請けである。


 ケネス曰く、かなりボロい商売だったらしい。記念公園の保護レンジャーの装備は貧弱で、尚且つ人数も少なく、センサー類も公園の一部しかカバー出来ていないため初動も遅く容易に逃げることが出来る。だから、毎日ゾウを殺して、首を刈り、牙を抜いて楽しく金を稼いでいた。そして、真面目にゾウを殺していたケネスはAの幹部となる。更に収入が増える。ケネスは喜んだが、喜びもつかの間、密猟に暗雲が立ち込める。


 ゾウ達が集まる場所をホットスポットと呼んでいた。例えば、あの水たまりはホットスポットだ。二、三日おきに群れが来る。ここに張り込んでいたら簡単にゾウを殺せる。といった具合だ。そんなホットスポットの情報を何か所もAは仕入れていた。


 しかし、とあるホットスポットに張り込んでいたAのメンバーが数人殺された。彼らは生きたまま焼かれ、その死体は通りに晒されたのである。そういったことが何件もあった。メンバーが犯人を調べようとしたがまるで手がかりは掴めなかった。自然と密猟をしたい人間は減る。しかし、それでは困る。軌道に乗り出したビジネスを手放すわけにはいかない。部下達にはもっとゾウを殺してもらわないと。そこで幹部であるケネス自ら密猟に行くと宣言した。今も昔もアフリカで重要なことは勇気を示すことなのだ。もしもケネスが行けば、部下たちは誰も文句は言えなくなる。部下は死ぬだろうが、金が手に入らないよりかはマシなのだ。ケネスには懸念があった。それは恐らく組織内に裏切り者がいることである。Aが独自に調べ上げたホットスポットの場所が何か所も狙われるのは明らかに不自然だったからだ。ケネスは密猟に際して最低でもあと一人は同行してくれる仲間が必要だと考えていた。しかし、組織内の人間は信用できない。町の奴らも同様である。ケネスは黒い肌の人間を信じられなくなっていた。そこに現れたのが、黄色い肌をした日本人である。


 「あんた、訳ありだろ」

 ケネスは低く落ち着いた声で俺に話しかける。彼の顔をもう一度よく見る。よく見れば、目元に幼さが残っている。恐らく二十歳を超えたところだろう。

 「俺なら偽造ビザやパスポートをすぐに準備してやれるし、この国にいる限り、金銭と身の回りの安全は確実に保証する。女だっていくらでも用意してやる。病気じゃなくて、尻と胸がでかい女を用意してやる。密猟と言っても牙を抜くときと、運ぶときに少し手を貸して欲しいだけだ。悪い話じゃないだろ」

 「悪い話だろ、要するに密猟を独占したい別の犯罪組織があんたらを襲いだしたってことだろ。そいつらに殺されたら元も子もない」

 「お前が殺されることはない、安心しろ」

 「無理あるだろ」

 「お前が信頼に足る人間だと分かったら理由を教えてやる」

 「選択肢はないですよ」

 隣でビールをごくごく飲んでいた京子が、ふーとため息をつきながら言った。日本語だからケネスに会話を聞かれる心配はない。

 「どう言う意味だ」

 「ケネス青年は聞いている感じ、かなり用心深いし、今はトラブルで更に猜疑心が強くなっています。また彼がニーチェのあの難しくて、長くて眠くなる本の内容をどこまで理解しているのかは分かりませんが、超人思想を実践し、更に永劫回帰やらニヒリズムを理解しているのであれば、計画の一部でも話した先輩を、生かしておくことはしないでしょう。でも、ケネスくんのこと私、結構好きですよ。先輩と同じです。私たちは円を描いているんです。その中でしか生きられない。先輩もケネスも円の外に出た気でいますよね?まるでニール・アームストロング。二人は目的地が違うだけで基本的に過程は同じです。いい出会いだと思います。やっぱりバーに行ってよかったじゃないですか」

 そう言って京子はにっこりと笑う。


 『サークルを出てもそこにあったのはまた違うサークル』


 俺はバーに来る前に京子に言われたことを反芻した。

 「ケネスはサークルの中へ、俺はサークルの外へ。でもお互い、また違う円の中に入っただけ。うん? ちょっと待てよ、象牙? 象牙って言ったよな。おい、京子、象牙ってもしかして」

 「そうです。社長の印鑑ですよ。ワシントン条約で国際取引は禁止されてますけれど、日本国内での売買は合法です。だから、象牙の違法取引を日本が増長しているなんて意見もあったりするんですよ。皮肉ですよね。地球の裏側まで来たのに、結局ぐるぐる回って、同じところに私たち来ちゃいましたね」

 「正確に枠からはみ出ないように、向きを間違えないように、傾けないように、滲まないようにしっかり押す。ハンコを枠の中に押し続けないと。永劫回帰とは皮肉も極まってくるな」

 俺は京子と目を見合わせて笑った。ケネスがこちらに鋭い視線を送ってきている。

 「おい、お前酔ったのか? さっきからなんで一人でぶつぶつ呟いているんだ」

え? なに? なんて言った? 一人? 俺が? なあ、こいつちょっとおかしくないか?


 京子の方に目を向けると、そこには誰もいなかった。

 そこでようやく俺は全部思い出した。最悪の気分だった。この瞬間はいつだって慣れない。深すぎる絶望に襲われて、俺は自分の頭を抱えて、両手で顔を覆う。重力が無くなり、自分の存在が不確かで仕方なくなる。自分が深い闇の中に落ちていくのが分かる。光さえそこからは逃げ出すことが出来ない。


 京子は既に死んでいるんだ。


 そうですよ先輩、そんなことにも気が付かなかったんですか。

 俺は彼女を弾き出したサークルを憎んだ。そして、そこから出たが、しかし、そこにあったのはまた別のサークル。そして、俺を嘲笑うかのように、ゾウがまた現れた。ゾウは俺にハンコを押させようとする。ゾウを殺さなければ、ゾウを殺してサークルの外に出なければ。


 「ケネス。俺は日本で犯罪を犯した。もう日本には二度と戻れない。お前の話に乗るよ。手伝ってやる」

俺はビールを飲みほした。濁っていた意識が鮮明になっていき、俺は日本での生活を思い出す。京子のことを思い出す。

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