碧天を行く 〜航空戦艦『祥風』の軌跡〜

幻之蘆原

前説 戦艦『祥風』について

其の壱

 『祥風しょうふう』について語る前に、まずは瑞風みずかぜ型戦艦がどのようにして建造されたのかについて語らねばなるまい。


 明成八年(軌道歴三八五年)、軍備増強を推し進める列強諸国に対抗すべく灯華皇国もまた軍拡への舵を切った。とりわけ力を入れたのが、主力艦の国内建造であった。


 明成元年(三七八年)六月の灯羅戦争における一大会戦である若狭島空域会戦で灯華軍の勝利に貢献した主力戦艦は全て外国で建造されたものであった。

 それどころか、当時の灯華軍が所有していた軍艦の内、自国製のものは四割程度で、その多くが非武装の輸送船であった。


 このまま軍備を外国に依存して、真の独立国と呼べるのか。我が国も自国製の戦艦を所有するべきだ。

 そのような声が上がる中、軌道暦三八三年、ある事件が起きた。グロリア連合王国とフォン・デ・クロア同盟の間で生じた“アマゾン事件”である。


 当時、第四軌道では、グロリア連合王国とリュミル共和国間の紛争が両国の同盟国をも巻き込んだ戦争に発展していた。その戦いの中、軌道暦三八三年二月十七日、グロリア連合王国議会はある法案を賛成多数で可決した。


 “グロリア資本の造船企業及び輸送企業は軌道暦三八三年一月一日時点で本国及び植民地で建造もしくは運用されている船舶をその業務に支障をきたさないと判断した場合、国王陛下と臣民の安全と平和のために連合王国に提供する義務を負う”

 悪名高き船舶接収法である。


 今でこそ、ヴァスコニアや光威、そして灯華といった国々が造船業で名を上げているが、当時の造船業はグロリアで最も盛んであり、多くの国々から船舶の建造依頼を受けていた。グロリア政府はそれに目をつけたのである。


 この法案により、グロリア軍の戦力は拡張され、後に“ランスロー戦役”と呼ばれるこの戦争に勝利する要因となった。

 

 その影で涙を流すこととなった国家があった。

 フォン・デ・クロア同盟である。


 グロリアとリュミルの二ヶ国が対立していた頃、第零軌道ではフォン・デ・クロア同盟は隣国のアルバディアがユーリウシア王国の支援の下、国力を増大させていることに危機感を募らせていた。


 長年領島問題を有していた隣国の軍拡に対抗するため、フォン・デ・クロア政府はグロリアの造船企業“ハイエスト・スカイ”に戦艦六隻、巡空艦五隻の建造を発注したのであった。


 これによって、ユーリウシアの旧型艦が主力のアルバティアに対して優位に立てるはずであった。


 しかし、船舶接収法により建造されていた新型戦艦アマゾン級6隻と巡空艦5隻はグロリア軍に接収されてしまう。これらの艦船はランスロー戦役に投入され、アマゾン級戦艦全六隻の内、ニ隻轟沈、一隻大破、一隻中破、巡空艦は全て轟沈という結果となった。

 

 フォン・デ・クロア同盟の悲劇はこれで終わらなかった。アルバディアとの紛争に敗れ、領島を失い、ほぼ無傷で残っていたアマゾン級二隻を賠償の一部として引き渡すこととなった。


 それでも足りない分を捻出する為、破損してグロリア国内から動かすことができなかったアマゾン級戦艦二隻を鋼材として売却。残ったのはハイエスト・スカイ社への支払いだけであった。


 これがフォン・デ・クロアの経済に長きに渡り影を落とすこととなったアマゾン事件の顚末である。


 この事件により灯華皇国国内の国産戦艦建造の気運が高まり、明成九年(軌道暦三八六年)、瑞風型戦艦建造計画『六甲計画』が実行されることとなったのである。


 計画において、一番艦及び二番艦は造船技術の研究とノウハウの学習の為に国外の企業へ依頼し、習得した技術と設計を用いて三番艦以降を国内の造船所で建造するこ事が決定した。


 明成九年八月、一番艦をヴァスコニア連邦のヒューロン社、二番艦はグロリアのアルトリウス・インダストリアル社の造船所にて建造されることとなった。


 アマゾン事件の事もあり、グロリア企業に依頼することに対して軍内部から不安視する声もあったが、国内造船の信頼回復を急務としていたグロリア政府からの要望もあり、契約が結ばれたのであった。


 明成十二年(軌道暦三八九年)十一月六日、一番艦はヴァスコニアのポーツマスにあるヒューロン社のドックにて進水した。この艦が後に灯華皇国とヴァスコニア間で生じた喜望島戦争において、灯華軍第一艦隊旗艦としてヴァスコニア軍と砲火を交えることになるとは、なんとも皮肉な話である。


 ポーツマス港を出港した一番艦は二ヶ月程の長い航海を経て、明成十三年(軌道暦三九〇年)一月十二日に灯華皇国の三重島にある工廠の所有するドックに入渠し、技術検証を行った後、艤装が行われることとなった。


 一番艦に遅れることニヶ月、二番艦が三重島に到着。一番艦と同様の艤装がなされたのである。


 明成十三年九月七日。全ての艤装を終えた二隻は栄島軍港にて、共に第一艦隊へ編入されることとなった。この時初めて艦の名称が統合本部によって決定され、一番艦が『瑞風みずかぜ』、二番艦が『真風まなかぜ』となった。


 『瑞風』、『真風』の艤装工事が行われているのと時を同じくして、三番艦以降の建造が開始されることが決まった。三番艦、四番艦は摂津重工、五番艦から七番艦を奥羽造船、八番艦から十一番艦までを六甲重工が建造することとなった。

 

後に航空艇母艦に改修された艦も含めると、瑞風型は全部で二十七隻建造される。そして、豊実島にある摂津重工の造船所で建造された四番艦こそが後の『祥風』であった。


 『祥風』が艤装された当時の要項をここに掲げることにしよう。


全長:一七〇・七メートル

全高:四七・九メートル

最大幅(船体):三九メートル

   (含主翼):一五六・三メートル

浮力:六〇メートル級浮力筒 二基

推進:蒸気タービン二基四軸

速力(巡航):一八・二ノット

  (最大):三八・五ノット

兵装

  主砲:四〇センチ二連砲 二基

  副砲:三〇センチ二連砲 四基

    二〇センチ二連砲 二基

    二〇センチ側舷法 十二門

    一〇センチ対空ニ連砲 十八基

  対空機銃座 ニ十六ヶ所

  一〇センチ対地上ニ連砲 八基

  空雷発射管 四基


一番艦と二番艦である『瑞風』・『真風』は対地上ニ連砲の基数は十二基であり、『祥風』は四基少なくなっている。その代わりに対空機銃が増設されている。『祥風』以降の瑞風型戦艦の兵装は『祥風』を基本としている。


 瑞風型戦艦建造は純国産戦艦の為の踏み台という面があるのも事実である。しかし、今日の灯華造船の繁栄は瑞風型戦艦なくしては有り得ないのである。


 さて、この時点では、『祥風』は列強諸国との軍拡競争の為に造られた戦艦の内の一隻でしかない。この戦艦が、後の世において『最も数奇な運命を辿った戦艦』と称されることになるのは、建造から十四年後のことであった。



(星砂社KFP文庫 野田芳文著 ‘戦艦『祥風』の軌跡’より)


 



 

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