マリアナ沖海戦①

 “龍驤”から発進した九七式艦偵が「米編隊発見ス」の報を一航艦にもたらしたとき、真藤威利少佐は、司令部要員を含む艦隊の全乗員が交代で取るよう命ぜられた仮眠の真っ最中であった。

 さらに、夢の中で彼は愛妻の百合子と甘いひと時を過ごそうとする、まさにその瞬間であったため、機嫌は最悪であったといっていい。

 しかし、少なくとも旗艦“翔鶴”中央部に設けられた戦闘指揮所に駆け付けたときには、全く平素と変わらない態度を示していたから、彼もまた職業軍人であった。

 

 「戦闘指揮所」は、“翔鶴”級空母と現在建造中の“大和”級戦艦から新たに設けられた新機軸で、通信および電探レーダーの端末が全てそこに集められ、居ながらにして艦内外の状況をすべて把握し、連絡を取ることができた。

 それは日露戦争末期の日本海海戦、その最終盤で旗艦“三笠”への直撃弾が司令部をほぼ全滅させたという苦い経験――科学技術の発達がその教訓を形にしたものであるといえる。

 戦闘指揮所は艦の最中央部に設けられており、艦内でもっとも安全な場所だった。

 

 電探の端末のオシロスコープの光が目立つ薄暗い戦闘指揮所に真藤が入室したとき、長官と彼以外の参謀たちは全員がそろっており、備え付けの電気スタンドに照らされた海図台の周りに集まっていた。

 真藤の到着を待つようにして山口多聞司令長官が草鹿龍之介参謀長に説明を促した


「皆も聞いているだろうが、我が方の艦偵が米編隊を発見した。総計一〇〇機程度の大編隊だそうだ。このままの進路と速度を維持するとあと三〇分でサイパン上空に達する見込みだが、合衆国が我が国に宣戦布告したとの知らせは届いていない。なお、サイパン守備隊にはすでに警告が発せられており、第一・第二航戦より応援の艦戦隊が発艦準備に入っている」

 

 山口長官が参謀長の後を受けるように話し始める。


「まずはこの米編隊に対する意見を聞きたい。サイパン上空で迎撃すべきか、それともサイパンに達する前に叩くか」

 

 通信参謀の美原少佐が挙手して発言許可を求め、山口長官が目で肯いた。


「サイパン上空に到達する前に迎撃すべきではないでしょうか。状況から米編隊への我が国への攻撃意図は明らかですし、サイパン島への被害も極小化できると考えます」

 

 それに情報参謀の角田つのだ中佐が異を唱えた。


「合衆国の宣戦布告が確認できないままにそれを行うのは危険ではないか?合衆国に外交的に付け入る隙を与えかねない」


「いや、我が国の領土近海を大編隊で飛んでいる時点で迎撃されても文句は言えんだろう」

 

 航海参謀の内海中佐が反論する。


「いや、合衆国の傲慢さ、牽強付会は歴史の証明するところだ。我々が先に手を出したという事実さえあれば、彼の国は国内外へ向けて自国正当化の宣伝に使うぞ」

 

 角田中佐が再度反論する。

 そこで航空甲参謀の河野中佐が挙手した。


「今からの発艦であれば、サイパン到達前の迎撃は難しいと考えます。敵が実際に手を出してからなら名分も立ちますし、やはりサイパン上空で迎撃すべきではないでしょうか」

 

 山口長官はそこで議論を引き取り、全員に告げた。


「よろしい。航空甲参謀の意見を採用する。米編隊はサイパン上空で叩けと艦戦隊指揮官に伝えよ」

 

 敵編隊への対処についてはこれで決した。

 山口長官はさらに続けた。


「次に近海に存在すると考えられる米艦隊への対処について考えたい。皆の意見はどうか」


「発見に全力を尽くし。宣戦布告の確認が取れ次第、攻撃すべきと考えます」

 

 航空乙参謀の山崎少佐の意見に参謀のほぼ全員が賛意を示した。草鹿参謀長が先ほどから発言しない真藤を見て、意見を言うように促した。


「作戦参謀、何か意見は?」


「いえ、皆の意見はもっともです。ただ付け加えるならば――」


「付け加えるならば?」


「優先すべき攻撃目標は敵空母よりも、その後方に控えているであろう敵上陸船団とその支援艦隊です」


「なぜそう思う?」


「まず第一に今回の敵の目標がサイパン島占領であると考えられる以上、その阻止を確実にすべきということ。そして第二に――」

 

 そこで真藤は唾を飲み込んでから、一気に続けた。


「より多くの合衆国の人間の血を流すべきです。上陸船団が為す術なく、撃沈されたとなれば、合衆国世論に対する一撃になります」

 

 航空隊時代に真藤の部下だったこともある河野中佐は、自説を滔々と述べる彼を見て思った。


「やっぱりこの人は楽しそうにしてやがる。ちくしょう」


 


 第一次攻撃隊がもたらした「日本軍偵察機に発見さる」の報は、“サラトガ”と“レキシントン”の二隻の空母を基幹とする第三四任務部隊TF34に少なからぬ混乱をもたらした。

 

 攻撃隊の接近がサイパン島に通報されるのは間違いないとして、問題は偵察機の飛んできた方向であった。

 サイパン島から見てほぼ北東方向、一八六㏕(≒三〇〇㎞)の海域に展開している艦隊から、ほぼまっすぐに飛行していた攻撃隊のちょうど正面を横切るように偵察機は飛んできたという。

 

 偵察機がサイパン島から飛んできたのなら、すれ違うような位置に飛んでくるはずである。

 明らかに島とは違う方向から飛んできた偵察機は何を意味するのか。

 定期哨戒であればわざわざ方角を擬装する意味もない。

 

 日本軍の別の基地から飛んできたと見なすのも無理があった。

 サイパン付近で日本海軍の最新鋭偵察機を配備している基地は、他にトラック諸島があったが、この場合、偵察機はほとんど行動可能半径のギリギリを飛んでいたことになる。

 そのような行動をする理由は全く思い当たらない。

 

 あれこれと推論を経て、TF34司令部は一つの可能性にたどり着いた。

 即ち、「付近の海域に日本海軍の空母がいる」という可能性である。

 「なぜ」、「なんのために」ということは差し当り問題ではなかった。

 おそらく一隻ではあるまい。

 最低でも二隻。

 こちらと同等以上の敵が近くにいるかもしれない。

 しかも、こちらは艦載機の半数を攻撃隊として出している――。

 

 攻撃隊を呼び戻すか?

 しかし、通信を発すればこちらの位置がつかまれるかもしれない。

 それに攻撃隊がサイパンの戦闘機に背後を衝かれることにもなりかねない。

 ならば急いで偵察機を出して、日本軍の空母を発見し、先手を打つか?

 しかし、今出せるのはせいぜい一〇〇機程度。

 敵の戦力が不明な状況では返り討ちに遭わないか?

 

 幕僚たちが混乱の中から、何とか後者の案をベターであるとの結論を出したとき、TF34司令マーク・A・ミッチャー少将は、軍歴の大半を海の上で過ごした男に相応しい声で命じた。


「事態を後方の第三二任務部隊TF32に伝えよ。もはや本作戦は失敗したと判断せざるを得ない。我が艦隊は盾となってでも後方の戦艦群と貴重な上陸部隊を守るのだ」


 TF34から発進した第一次攻撃隊は北東方向からサイパン島に接近した。

 本来はダボチョ山にあるレーダーサイトに捉えられないように目標間近まで低空で侵入する予定だったが、日本軍の偵察機に見つかった時点で奇襲は失敗している。

 第一次攻撃隊隊長、ジョージ・A・ハットン中佐は開き直って高高度から侵入することにした。


 案の定、日本軍の零戦が待ち構えている。ざっと見る限り三〇機程度。

 こちらの護衛機のF4Fがちょうど三〇機だから互角というわけだ。

ハットンはニヤリと笑い、興奮したときの癖で口髭を触ると、マイクを取って僚機に呼びかけた。

 「優秀だが言行が粗野」と考課表に書かれたハットンらしい命令が隊内無線に流れる。


「いいか野郎ども!散開して小隊ごとに各々目標に向かえ。さっさと爆弾を叩きこんでシャンパンを開けるぞ!じゃあな!」

 

 「高度を下げるぞ!」。

 自分が直卒する小隊の二機の僚機に無線で知らせると、ハットンは操縦桿を前に倒した。

 彼にとっては身体の一部に等しいSBDドーントレスは、過たずに主人の操縦に従い、カワセミのように鋭く降下した。

 

「トム、後ろはどうなってる?!付いてきているか!」


 ハットンは、背中合わせの形で後席に座る投弾手兼機銃手のトーマス・シャーマン一等兵曹に怒鳴るようにして尋ねた。


「ええ、付いてきてます!ですが、敵機も一緒です!」

 

 心の中で舌打ちする。

 自分の小隊に与えられた目標は島の南部にあるアスリート飛行場だが、まだ先は長い。

 それまでに振り切れるか。


「一機やられました!」

 

 シャーマンの悲鳴のような叫びが聞こえた。任務は始まったばかりだった。




 敵戦闘機の目をかい潜って指揮官機の後ろに付けたのは幸運というしかなかった。 

 しかも、幸先よく一機撃墜できたとあれば、さほど信心深くなくとも神とか仏とかいう存在に感謝すらしたくなろうというものだ。


 志村少尉は神仏への感謝を述べる代わりに唇を軽く舐めて、ゴーグルの下の目を不敵に細めた。

 敵の機体はドーントレス。最高速度は時速四〇〇キロ程度と言われている。

 時速五三三キロを誇る零戦の敵ではない。


 だが、敵の二番機はジグザグに飛行しつつ後部機銃を打ってくる。

 腕の良い機銃手らしく、こちらが避けるのに合わせて機銃を打ってくる。

 隙がない。

 だが、焦ってはいけない。


 志村は舌打ちしそうになるのを抑えながら、操縦桿を後ろに引いて上昇した。

 こちらの急上昇に敵二番機の機銃手はついてこられなかったらしく、火線が途絶えた。

 その隙を逃さず、急な放物線を描くように機体を急降下させる。

 運動性に優れた零戦ならではの動きだ。

 あまりに急激な機体運動に気を失いそうな重力がかかるが、耐える。


 敵一番機の機銃が打ってくるがすんでのところで避ける。

 二番機の操縦員の顔を照準器に捉えた。

 向こうも飛行帽とゴーグルをしているのでどんな顔かは分からなかった。

 機首の七・七mm機銃の引き金を引いた。

 敵機の風防の中が赤く染まるのが見えた。

 糸の切れたマリオネットのようにガクリと機首を下げ、敵二番機は墜ちていった。


 いまや僚機を失い、たった一機となった敵指揮官を墜とすべく、志村は一旦機を旋回させて火線から逃れた。

 敵の後部機銃は旋回式ではないから側面は死角になりやすい。

 旋回をする途中、眼下に自分が飛び立ってきたアスリート飛行場が見えた。

 いつの間にか敵を追って戻ってきたらしい。

 飛行場の向こうに複数の機影。

 あの方向から敵が飛んでくるはずはない。

 友軍だ。


「寄るな、おい、寄るな。これは俺の獲物だ――」

 

 志村は彼の中にある獣性の部分で、声に出さずに呟いた。


 


 現地時間昭和一六年一二月八日早朝にサイパン島北東方面から侵入した、米編隊による空襲は陸戦隊陣地に損害を与えたものの、全体としては軽微な損害に止まった。

 なお、アスリート飛行場付近に到達したのは数機であり、その全てが爆弾投下前に撃墜された。

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