第3話 〈923club〉


〈924club〉は、サンフランシスコに1909年にオープンしたビリヤード場である。

 素晴らしい装飾と雰囲気を持ち、アメリカで最も素晴らしいと言われた、ビリヤードが娯楽として全盛期だった時代の象徴であった。

 ラスベガスにできた〈923club〉はその偉大なビリヤード場にあやかって名付けられたものであり、本家に敬意を表して数字を一つ減らしている。

 それでも、古いビリヤードファンにとってはすぐに由来がわかる、ある意味で狙った名前をもつプールバーであった。

 タクシーから降りたアキナは、そのまままっすぐに店内に入る。

 中にはスリークッション用のものも含めて、三十の台が所狭しと並んでいた。

 昼間だというのに、半分近くの台が客で埋まっている。

 ほとんどが一人か二人で練習をしているようだった。

 この店の本当の姿は日が暮れてからだ。

 その時になって多くの客が続々と訪れる。

 勝負のためにだ。

 一回のゲームで動く金は百ドルから、多い時は一万ドル。だが、誰もが千ドルは当然に持って現れる。それでなければ勝負の土台にすら立たせてさえもらえない。

 金のないものは戦う資格すら与えられないのだ。

 ここはベガスにおける賭けビリヤードの中心地、世界においても名高いハスラーの聖地なのであった。

 アキナはカウンターに行き、店員に話しかける。


「ハイ、少し遊んでいっていい?」

「ああ、いいぜ。日本人か? ここの遊び方は知っているか?」

「ゲームするのは無料ただ。かわりに割高のドリンクを注文しろってんでしょ。ネットで見たから知ってるよ」

「そうかい、ならいい。あんた、米語は喋るみたいだし、何かあったら俺かウェイトレスに声をかけてくれ」

「オッケー」


 アキナはとりあえずコークを頼み、渡された瓶を持って店内を彷徨い始めた。

 大きな店だった。

 二階を含めれば、日本の高校の体育館よりも広いだろう。

 雑然とした雰囲気で、ジュークボックスからはやや古いロックが流れている。雰囲気作りの一環であろう。

 おかげで、やや人格障害気味と揶揄されるほど物事に興味を覚えないアキナでさえ、少しだけ観光気分を味わえた。

 中二階にある踊り場から、こちらを見下ろす青年がいた。ふわりとした白い変形コートをまとった帽子をかぶっている。

 最初は目的の相手かと身構えたが、アキナの捜している敵は、黒い服ばかりを着ていて、しかもあの青年のようににこやかに笑うことはない。

 常に小馬鹿にしたような下品な嘲笑を浮かべた嫌なやつなのだから。

 どことなく似た雰囲気はあるが完全に別人だったので、青年を無視してアキナは店内散策を続けた。

 しばらくすると、視線が彼女に集まり出す。

 まだ昼間で人が少ないということあるが、鮫のイラストのついたキューケースのせいである。

 他にも、彼女自身が東洋風の魅力的な美貌を持っていたということもある。

 川澄アキナは自分では意識していないが、目の前に立たれると思わず自分から下着を脱ぎたくなる魅力的な異性―――パンティドロッパーPanty Dropperだった。

 壁際に寄りかかった相手を見繕っていた若者が近寄ってきた。


「姉ちゃん、そのジョーズはなんだい?」

「見てわかんないの? あたしがハスラーだってことの免許証だけど」

「ここがどこだかわかっててて、やってんのか?」

「もちろん。で、わざわざ声をかけてきたってことは、あたしと勝負ゲームしたいの?」


 声をかけた白人の若者は、馬鹿にしたように口笛を吹く。

 眼には蔑みと好色の光がある。

 アキナを獲物と見たのだ。

 飛んで火にいる夏の虫だと。


「一ゲーム、百からだぜ」

「二百からでいいよ」

「―――負けて泣いたって許さねえぞ。とりあえずナインボールでいいな」

「あんたじゃあ、スリークッションはできそうもないからね」

「その言葉は高くつくぜ」


 若者は、アキナのことをただのいきがった観光客とタカをくくっていた。

 彼は普段からこうやって愚かな観光客から金をせしめていたから、今度もうまくいくだろうと思い込んでいた。

 そのため自分の腕に自信のある彼は、なんとアキナに先制のブレイクを譲るなどという真似までしてみせた。

 他の常連客たちも、また始まったよという面白半分で最初は二人の試合を見物していた。

 いつもの通り、観光客カモがむしられて終わりという光景を期待して。

 そして、今日のカモは目が覚めるような美人パンティードロッパーだ。

 だが、その期待はすぐに裏切られる。

 爆発的な威力を持つブレイクショットが九つの球が並べられたラックの頂点を吹き飛ばし、的玉を恐ろしい勢いで四方に飛び散らせる。

 その際に合計三つの的玉がポケットに飛び込む。

 この時点で右隅の穴のベストポジションに⑨と①が並んでしまった。

 つまり、反対側にある手玉を撞いて、キャノンショット一発ですぐに第一ゲームは終了というあっけない結果になってしまったのである。

 若者は苦虫を噛み潰した。

 いらない余裕から二百ドルを失ってしまったのだから。

 ポケットに突っ込んだ百ドル札を取り出そうとしたとき(ここ〈924club〉では一ゲームごとににこにこ現金払いだ。ツケは許されない。そんな真似をしたらすぐに追い出される)、日本人の女は意味不明の行動を開始した。

 なんと、①の的玉をバンクショットで弾いて、②の的玉を無理矢理に落としたのだ。

 ⑨を落として勝利を勝ち取るのがナインボールだ。

 それなのに、対戦相手の女は⑨を無視して、なんと遠く離れた②を異常な正確さをもって落下させた。

 そして、それからが圧巻だった。

 女は残り五つの的玉をすべて落としていった。それも、全部二回以上枠にぶつけるバンクショットで。

 バンクショットとは、テーブルの枠になる壁のことで、そこに手玉をぶつけて角度を変えて打つ手法のことをいう。

 角度と力の入れ方の計算があることから、素人にはなかなかに難しい。

 もちろん、〈924club〉に通うようなプレイヤーにはできて当たり前の技術だが、それがすべて二度の跳ね返りを伴うとなるとミスなしとはいかなくなる。

 スリークッション用とは違いテーブルの狭いナインボールでは難易度が跳ね上がる。

 それなのに日本人の女は余裕でこなしたのだ。

 しかも、わざとであることは明らかだった。

 軸の歪まない正確な構えスタンス、細い繊手には不釣合いなブリッジとグリップの握り、機械のようにズレのないストロークはどうみてもアマチュアレベルではない。

 それだけでない。

 目の肥えた客たちが思わず唸ってしまったのは、アキナの手玉を操るポジションプレイの巧さだった。

 的玉を落とすことよりも、手玉をどこに配置するのか、それを第一に考えた巧みな戦術が図抜けているのだ。

 対戦相手の若者でさえ、瞠目してしまうほどに。

 第二ゲームが始まると、さっきの技術がフロックではないことが確実となる。

 ブレイクでは一つの的玉も落ちなかったが、またもやアキナは九つの的玉すべてをミスなく落としきった。

 しかも、今度は、マッセやジャンプ、スリークッション用のクロステーブルショット―――いわゆるバタバタショットまで披露する有様だ。

 つまり、これはゲームではなく、アキナの腕前のお披露目会、ただのショーになってしまったのだ。

 一度も手玉を撞くことなく四百ドルを取られた若者が苦々しくいった。


「てめえ、俺をコケにする気なのかよ」

「そんな気はないよ。ただ、ちょっと実力を披露しておきたかったんだ。気に障ったのなら謝る」

「……俺をピエロにしたってことか」

「そういうわけじゃない。あたしはここに、ミスター・アンシーリーコートと戦いに来たんだ。だから、それ相応の実力を示したかったというだけ」


 周囲の空気が変わった。

 彼女が何気なく口にした名前に、耳を傾けていた見物客が後ずさりしたのだ。

 顔に驚愕と、恐れの色を浮かべて。

 その反応をアキナは当然だと流した。

 はるか海外のアメリカから流れてくるアンシーリーコートの評判も異名も、その行動もすべて知っている。

 対戦した相手の送った末路も。

 オカルトそのものの悪評であったが、おそらくは事実だろうと理解していた。

 この世界には触れてはいけないものがある。

 あの黒い服の若者は、その触れてはいけないアンタッチャブルの最たるものであるのだ。


「……マジかよ」

「マジだよ」


 そして、彼女は訊いた。


「ミスター・アンシーリーコートはいつも夜にはここに来るの?」


 白人は答えた。


「いいや、普段は近寄らない。ただ、あいつに挑戦したいってやつが来た時は、間違いなくやってくる。おまえが今、挑戦したいって表明したからには、どういう手段かはしらないけどあいつは絶対に聞き付けてやって来るよ」

「そうなんだ。で、何時ぐらい?」

「夜の十二時過ぎだ。その頃に来ればいい。―――マジであいつとやるってんなら」

「ありがと、じゃあ、情報代に三百ドルは返すよ」


 そう言って、アキナは若者のポケットに三枚のドル札を突っ込んだ。

 それから手近にいたウェイトレスに百ドルを渡し、「夜に来るからまたコークを頂戴」と言うと手を振りながら笑顔で〈924club〉をあとにする。

 少ない昼間の客がいなくなったかのような沈黙が店内を包み込んだ。

 常連の老人客がつぶやく。


「あの小娘、マジでアンシーリーコートと戦うつもりなのか」

「正気じゃねえぞ」

「自殺する気かよ」


 男たちが口々にささやきあう中、ウェイトレスが言った。

 

「……でも、あの娘、信じられないほどに強かったよ。ほら、昔、有名だったジャパンのスパイシーガールみたいに」

「―――マサコ・カツラか? そんな馬鹿な」


 人々はこぞって時計を見た。

 深夜の零時まであと十時間ほど。

 そのときにまたここにこなくてはならない。

 あの小娘と、悪魔アンシーリーコートの戦いを見るために。

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