ジ・インヴィンス・アキナ ‐無敵の女子大生‐

陸 理明

第1話 不可解にして不愉快なチャンピオン


 もうすぐ前期のテストが始まるため、普段よりもサボりの人数が少ない講義室の中は、じっとしているだけで汗が吹き出るほどに暑かった。

 川澄アキナの通う大学は、古い歴史と高い知名度を誇る、日本人ならば誰もが一目置くであろう最高学府であったが、いかんせん施設については難があった。

 多くの講義室にエアコンがなく、場合によっては大型の扇風機が隅で音を立てて回転しているところもあった。

 それだけではない。

 ネット回線がまともに完備されている場所も限られている上、アキナのような女子学生には死活問題ともいえる女子トイレが数える程しかないという酷さだった。

 入試の時は男子トイレが臨時に女子のために開放されていたという段階で気がつくべきだろうが、さすがに試験前の緊張状態ではそこまで頭が働かない。

 入学後にようやく気づいたその不便さに、アキナたちは閉口したものだ。

 休み時間になるたびに一部の学部の女子トイレに行列ができるという面倒は、なかなか味わえるものではない。

 アキナたちの女の先輩たちは学校当局に何十年と改善を訴えてきたのだが、対応は遅々として進まなかった。

 日本における最高学府であるという権威が、悪い方向に流れていってしまった結果であるのだろうと大方の女子学生は分析している。

 思えば、この大学は女性教授の数も他に比して格段に少なく、女子が学ぶことについてはまったく理解がないのではと疑われても仕方がないほどであった。

 エアコンの不設置もその次ぐらいに厄介な問題である。

 そんな暑いだけの講義室内で、壇上で汗をかきながら講義を続ける准教授の話を聞こうともせず、アキナはスマホの画面を見つめていた。

 画面には遠く離れたカタールの地で行われていたあるスポーツの試合が映し出されている。

 一畳よりは大きい長方形の枠の中に緑色のマット―――ラシャが張られて、色とりどりの一から九までの数字のついた球がその上を転がっている。

 ラシャを囲むように枠が作られ、成人の腰のあたり、一メートル以上の高さの台に載せられていた。

 その台を挟んで二人の人間が立っている。

 共に長いカーボン製の棒―――キューを持っていた。

 一方が腰をかがめてキューでラシャの上の白い球を撞き、枠の四方の隅と中央に空いたポケットに他の球を数字の順番に落とし込む。

 そして、最後に九番の球を落としたものが勝利することになる。

 スポーツの名はビリヤード。

 その中でもナインボールというルールに基づく試合の映像だった。

 だが、その映像はビリヤードと呼ぶにはあまりにも異様なものであった。

 一人はごく普通のパンツとシャツとベスト姿のいかにもなプレイヤーであり、その構えスタンスもナインボールの選手らしく顎がキューに触れる程に低い姿勢を保ち、しなやかな手首の動きを持って球を撞いて、そしてポケットに沈めている。

 彼だけを見れば、この試合はまっとうなビリヤードそのものであった。

 だが、その彼を高みから見下すように眺める対戦相手は違った。

 黒一色のマントのようにふわりとしたフォルムを備え、アコーディオンのように襞が広がり、まるで中世ヨーロッパの貴族を彷彿とさせるが、ある意味ではモダンそのもののフォルムをしたコートを着込んでいた。

 インヴァネス・マントのごとく布が肩から垂れ下がり、二片が胸の前で緩やかに結ばれ、まったく別形成の袖と背の部分が蝶の羽根のように流れている。ベルトやボタンらしいものは一切見あたらず、数枚の布だけで巧妙に仕立てられているようだった。

 腕を伸ばせば袖口がたわみ、とても動きやすい服装―――ビリヤードであれなんであれ、身体を器用に動かさねばならないゲームびをするには―――とはいえない、不向きそのものの格好だった。

 年はまだ若い。二十代半ばというところだろう。

 世界選手権の決勝に勝ち残るには若すぎるといえる年頃だった。

 だが、電子掲示板に映されたスコアは黒服の若者が対戦者を圧倒していることを示していた。

 対戦者は前年度どころかここ五年間、選手権を連覇してきた完全王者であった。

 例え調子が悪くても、絶対に勝利を収めてきた王者がなすすべもなく破れさろうとしていた。

 しかも、その顔は屈辱に塗れていた。

 彼の今のターンは彼が勝ち取ったものではないからだ。

 対戦している黒衣の若者があえて譲ったチャンスだった。

 いや、あえてなどという温いものではない。

 彼がミスせずに撞ききれば、逆転だってありえる状況において、わざとミスをするなんて普通では考えられない。

 若者の真意は見え透いていた。

 対戦相手に手番を与えることで、自分の力を誇示しようとしているのだ。

 人を虚仮にして、馬鹿にして、貶めようとしているのだ。

 小さな画面から見つめているアキナにすらわかる。

 あの若者は人の心をあざ笑うために、そんな真似をしでかしたのだ。

 そして、案の定、王者はミスをしてしまう。

 プレッシャーもストレスも、かつて一切ものともしなかったはずの王者は、簡単にあっさりと崩れ落ちた。

 すべては若者の目論見のままに。

 試合の映像が終わって、黒衣の若者のインタビューが始まった。

 カメラの前に立つ見た目はごく普通の若者だったが、その目つきはまともとは言えなかった。

 にたりと吐き気を催す嘲笑を浮かべ、若者は宣言した。


『おいおい、あんな弱い奴がチャンピオンなのかあ? 人間ってのは本当に大したことがねえな』

『……優勝について一言いただきたいのですが』

『人間なんかに俺が負けるわけねえじゃねえかよ。どんな奴がでてきたって俺の勝ちは決まっているのさ。これを観ているバカども全部に教えてやるぜ。―――てめえらじゃあ、俺には勝てねえ。人間なんてそんなもんさ、バーカ』

『あ、えっと、ミスター・アンシーリーコート。これはネット放送ですが、全世界に配信されるのですよ』

『知らねえよ、ボーケ』

『ミスター、あの、これは全世界に……』

『おい、これを観ているクソども。プライドがあるならどんどん俺にかかってきな。ぜーんぶ地獄の底まで叩き落としてやるぜ。ケケケケケ!』


 インタビューはその時点で打ち切られ、VTRは最後に番組の司会のいるスタジオに戻っていった。

 なんともいえない顔をしたアナウンサーの言葉とともにスタッフロールが流れ、番組は終了した。

 チャンピオンとなったものの暴言のせいで後味の悪すぎるものとなった動画も停止する。

 投稿サイトへのコメント欄を見ると、読むに耐えない単語が所狭しと並んでいる。

 世界中のビリヤード関係者が、かつての偉大なチャンピオン、レイモン・クールマンスが大切にした驕らない謙虚さなどクソ喰らえといったあの若者の傍若無人さに腹を立てているのだ。

 きっと誰もが同じことを思っていたのだろう。

 だが、アキナは違った。

 もう一度再生をクリックして、インタビューのシーンだけを繰り返す。

 終わったらまた再生する。

 一般人ならあまりの挑発的な態度に胸がムカムカするであろう映像を、五回ほど見返してから、彼女はぽつりと呟いた。


「おまえ、あたしに挑戦したな」

 

 と。


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