24話 カラスのおもいで【ヒロイン視点】

 直道を無事にアパートまで送り届けて、彼が部屋のドアの奥へ入っていったのを見届けた後、烏丸まどいはその隣の自分の部屋へと戻った。部屋の明かりもつけずにそのままバフッとベッドのうえに倒れこむ。メガネを外してから柔らかい布団の上に自分の顔を押し当てて、こみ上げてくる笑みを必死に抑えていた。


「直道くん、直道くん、直道くんっ――」


 半分無意識に、その名前を口ずさむ。そのたびにまどいの心はぽかぽかと温かくなっていき、やがて締め付けられるように苦しくなって、それから我に返った。


(大丈夫よね。うちの声、隣に聞こえちょらんよね)


 入学直後の新歓コンパで大失態を犯したまどいを、助けてくれたことがきっかけで始まった直道とまどいの奇妙な縁。今やまどいの大学生活は直道を中心に回っているといっても過言ではない。


 直道の行動はまどいには理解できないことばかりだった。

 直道にとって何のメリットもないはずなのに、初対面のまどいのことを助けてくれて。

 その後もまどいの独りよがりな罪滅ぼしにイヤな顔ひとつしないで付き合ってくれて。


 あげく今日は同じサークルに入ろうと誘ってくれた。


(世の中にはてげ優しい人がおるんやなぁ)


 そしてついさっき、直道はそんな自身の優しさの理由の一端を語ってくれた。彼の言葉の一つひとつは、まるで自分に向けられているようで、思わずまどいは泣いてしまった。


(きっと変に思われたやろうな。でもあんなのガマンするのなんてムリだよ。だって――)

 


 まどいの意識が回想に沈む。

 

 

 まどいは子どもの頃からいじめられがちだった。烏丸という苗字のせいで、周囲からはカラス、カラスとからかわれた。


 生来の気の弱い性格のせいで何も言い返すこともできず、ジッと俯いて、波が過ぎ去るのを待つだけ。そんなまどいの態度が周囲の嗜虐心しぎゃくしんを煽ってしまうのか、からかいはどんどんエスカレートしていく。

 

 そんなまどいが決定的にいじめられるようになったのは、忘れもしない中学一年生の冬、体育の授業のときだった。その日は朝から体調が優れなかった。競技科目は長距離走で、先生に見学を申し出たけど、ズル休みは許さんと一蹴されて、重たい身体を押して参加した。

 

 その無理がいけなかったのだ。


 途中、すごい吐き気が襲ってきて、まどいはその場で戻してしまった。

 

 その日からあだ名はカラスからゲロしゃぶ女にアップデートされた。

 まどいが教室に入るとクスクスと笑い声が起きて「なんか臭くない?」と陰口が始まる。

 あるときは机一面に「クサイ、帰れ」と落書きされ、またあるときは上履きや教科書をゴミ箱に捨てられたりした。直接的な暴力を振るわれることこそなかったけれど、逆にそれ以外の理不尽は大体経験した。


 まどいの故郷は過疎化が進む田舎なので、地区内には小中高とそれぞれ一校ずつしかなく、進学してもクラスメイトの顔ぶれは変わらない。いじめはずっと続いた。


 最初のうちは周囲を恨んだ。なんで誰も助けてくれないのか、なんで自分ばかりがこんな辛い目にあわないといけないのか。

 だけど段々とその気持ちは自分自身に対する嫌悪感に変わっていった。


 自分は周囲に迷惑ばかりかける存在。だからいじめられるのも仕方がない。そんな諦念がまどいの心を蝕んでいく。


(うち、生きる価値ないやん――)


 高校一年の冬、もう何もかもイヤになって、学校の屋上に登ってみたことがある。フェンスを乗り越えて、縁に立って地面に目をやると、急に怖くなって足がガクガクと震えた。必死でフェンスにしがみつき、もつれる手足でよじ登り、やっとの思いでフェンスの内に戻った。


(うっ、ううぅ、ぁあああああっ――)


 まどいはうずくまって息ができないくらい激しく泣いた。

 自分は周囲に迷惑しかかけない人間。生きていてもいいことなんて一つもない。死にたいと思っているのにまどいにはその勇気がない。


(もう、どうすればいいか、なんも分からんよ――)


 その日、まどいは家に帰ってから、辛い気持ちを洗いざらい母親にぶちまけた。もう学校に行きたくないことを伝えると、母親は泣きながら、まどいを抱きしめてくれた。

 

 その日からまどいは学校に行かなくてもよくなった。いわゆる不登校。けれども、両親が高校に掛け合ってくれて、授業はリモートで受けたうえで、定期試験で一定の成績を確保すれば出席扱いとする特例措置を認めてくれた。

 勉強を自分一人で進める必要があったけれど、もともと真面目で成績優秀者であったまどいにとっては、まったく苦じゃなかった。もう学校に行かなくてもいいことにホッとした。

 

 初めのうちは一日中、自分の部屋でずっと過ごしていたけれど、そのうち、よく近所の図書館に行くようになった。

 一日の勉強を終えた後、閉館時間までずっと本を読む。もともと、そんなに本を読む方じゃなかったけれど、本を読んでいる間だけは惨めな自分を忘れることができた。


 ある日、一冊の小説と出会った。とある冴えない男子大学生が、自身のキャンパスライフについて理想と現実のギャップに苛まされながらも、最後には等身大の自分を受け入れる青春物語だ。

 軽妙洒脱でテンポのいい一人称の語りと、マジックリアリズムが多分に取り入れられた物語展開など、閉塞的な現実に鬱々としていたまどいの心は瞬く間にとらわれた。


(いいな、大学って楽しそうやな。うちみたいなのでも、大学にいけば、こんなふうになれるんやろか)


 それからというもの、まどいは大学に通う自分を想像しては、胸をときめかせたり、夢想したりした。


(うち、大学にいきたい。うんと遠くの大学、うちのことを知る人なんて一人もおらんところ。東京がいいわ。人が沢山いちょるから、うち一人おっても誰も気づかんやろ)

 

 そしてその憧れは抑えきれず、まどいは両親に、大学に進学したいことを思い切って相談してみた。

 両親は快諾した。不登校の娘から進学の希望。両親の目には前向きな変化に映ったのだろう。


 それからまどいは猛勉強を開始して、無事第一希望である都鳥大学に合格することができた。そのときの喜びは言葉では言い表せないほどで、自分の人生が開けていくような気がした。

 

 だから高校の卒業式の日――この日だけは勇気を出して登校することにした。まどいなりのケジメのつもりだった。

 数年ぶりに顔を合わせるクラスメイト達。みんなが卒業証書を手に笑顔で談笑したり、写真を取り合ったりする中、まどいはポツンと一人で時間が経つのを待つだけだった。

 

 そんな中、一人の少女――蜂谷はちやすずめがまどいに話しかけた。


「まどいちゃん、東京の大学いくって聞いたよ」


 まどいは返事を返すことができなかった。なぜならすずめはまどいに対するいじめの中心人物だったからだ。


「うちも春から東京やけん、向こうで会ったら


 その声を聞いたとき、心臓が底冷えしたように冷たくなった気がした。思わず声が詰まる。眩暈がした。

 すずめは意地の悪そうな笑みだけ残して、軽やかな足取りで他の女子たちの輪の中に戻っていく。


 猛烈な吐き気に襲われたまどいは、そのままトイレに駆け込んだ。胃の中のものをすべて吐き出しても胃のケイレンは治まらず、まどいは涙を流しながらえずき続けた――


(――ッ! これ以上思い出すのは――)


 息が詰まりそうになって、まどいはもう一度自分の顔を枕に強く押し当てる。こめかみのあたりがドクンドクンと脈打つのを感じた。


(大丈夫、学校だって別やし、もう会うことなんてないんやから――)


 そう自分に言い聞かせながら、真っ黒な感情のさざなみが過ぎ去るのをじっと待つ。一分くらいそうしていて、やっと落ち着いてきた。まどいはゆっくりと頭をもたげる。

 直道の言葉をキッカケに前向きになった気持ちが、再び落ち込んでゆくのを感じた。

 

 この辛い記憶は、後何年、いや何十年経っても、まどいの頭の中から無くなることはないのだろう。呪いのようにまどいを蝕み、その歩みを鈍らせるに違いない。

 

 そんな悲観から思わず大きなため息をついたそのとき、まどいのスマホがブルッと震えた。

 暗闇の中青白く発光する画面を見やると、メッセージの新着通知が届いていた。

 差出人は――直道だった。まどいは慌ててベッドの上に正座する。ドキドキしながらメッセージを開いた。

 

(直道:今日はありがとう)

(直道:これからは同じサークルの部員同士としてよろしく)

(直道:それで……ちょっとお願いがあってですね)


 やや間が空いてから次の文章が送られてきた。


(直道:明日の一限起こしてもらっていいですか?)


 その文面を見て、まどいは思わず口元をほころばせた。隣の部屋でばつの悪そうな表情を浮かべている直道を想像すると、おかしくて笑いをこらえられなかった。


(まどい:はい、お任せください)


 それだけ返信をして、まどいはゴロンと仰向けになる。

 

「ふぅーっ」


 そのまま大きく深呼吸。スマホを胸元でぎゅっと握りしめた。

 心の中に巣食っていた暗い影は、いつの間にかどこかに消えて、変わりにまどいの胸を満たすのは直道に対する温かい気持ちだった。


(あの思い出を忘れるなんてムリ。だけど、いつか受け止めることはできるんやろか)


 まどいには分からない。だけど、今彼女の胸を満たすぬくもりは、悲しい記憶に負けないための唯一の手掛かりになるような気がした。

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