灑珠れいじゅの居室であるという部屋に通された浚明しゅんめいは、そこに広がっていた光景に目をみはった。同じ物を同じ瞬間に目にした玲伯れいはくも、一瞬丸くなった目をすがめると静かに呟く。


「これは……」


 そこは窓辺と思わしき壁一面に黒い布が垂らされた薄暗い部屋だった。広くもない部屋の中心に卓が置かれ、卓の前に三本置かれた燭台では今でも明々あかあかと炎が燃えている。卓の上には硯や筆とともに文字が書き連ねられた紙も乗せられていた。その光景から、蒼鈴そうりんがこの部屋に踏み込む瞬間まで灑珠が書き物をしていたことが分かる。


 言葉を失う二人を残して部屋の奥まで足を進めた蒼鈴は、窓を覆うように垂らされた黒布を掴むと左右へ引いた。だが釘でガッチリと固定されているのか、布は多少揺れただけで元の場所に戻ってしまう。


「こんな場所で、ずっと過ごしていたというのかい? どうして誰も……」

「言ったでしょう? 『入内を口実にこちらの舎殿に監禁され、「淡夢たんむ双妃そうひでん」の執筆を強制されていた』と」


 蒼鈴が何をしたいのか覚った浚明は、蒼鈴の後を追って部屋の奥へと踏み込んだ。


 カサカサと紙がこすれる音に視線を巡らせれば、両側の壁際にズラリと並べられた棚には乾燥待ちの紙が几帳面に収められていた。


 上下に細く感覚を空けて網のような棚板が並べられた特殊な棚は、次々と書き上げられる書類を効率的に乾かすために置かれる書類乾燥棚だ。本来ならば書記部のように書類を量産する部署に置かれる物で、少なくとも後宮の妃の居室に置かれるような調度ではない。


 ──こんなに棚板が多い乾燥棚が、空間を埋め尽くすかのように……


 さらに左右の壁を埋めるように配された棚のほとんどが書き上げられた紙で埋まっているという事実に、浚明の背筋はゾクリと悪寒を走らせる。


 ──まさしく、書き物のために連れてこられた虜囚だ。


 その寒気をグッと奥歯を噛みしめることで追いやった浚明は、蒼鈴の傍らまで足を進めると後ろ腰の帯の下に隠して帯びていた薄刃の剣を抜いた。体の曲線に合わせて刃が湾曲するような薄くやわい刃だが、訓練を積んだ者が振るえば布くらい簡単に断ち切ることができる。


 浚明が無造作にその刃を振るうと、切断された黒布はバサリと浚明達の足元に落ちた。目礼で浚明に礼を伝えた蒼鈴は、続けて窓を大きく開け放つ。


「ああ……」


 爽やかな日差しに招かれるように、ユルリと部屋の中を風が渡った。立ち込めた墨のにおいと籠もった空気が、開け放たれたままの扉から廊へ抜けていく。


 その風の中にポツリと、かすれた声が落ちた。


「なんて、きれい……」


 声の方を振り返れば、入口近くに立ち尽くした灑珠が魂を抜かれたような表情で窓の外の景色を見つめている。どこか遠くを見つめている灑珠の瞳からジワリとあふれた涙は、そのまま頬を伝うとポツポツと床へこぼれていった。


「……この部屋には、外から鍵がかけられておりました」


 ポツリと、傍らから声が聞こえた。視線をそちらへ向ければ、灑珠を見つめた蒼鈴が無表情のままわずかに瞳を細める。その横顔がどこか痛ましく見えたのは、はたして浚明の思い違いだったのだろうか。


「中に踏み込んで、一目で分かりました。彼女は、物語の紡ぎ手であると」


 装飾品のひとつもない髪は、後ろでひとつに結い上げられて団子状に纏められていた。襷紐たすきひもがかけられた装束は、明るい光の下で見ると黒と見紛う濃紫であったことが分かる。さらによくよく目を凝らせば、装束のあちこちに墨跳ねが見えた。


 左腕と比べて若干太い右腕。墨の汚れが染み付いてしまった指先。目の下の濃いくまは、文官の中でも目を酷使する部署の人間によく見られる特徴だ。


「部屋の状況から、監禁されていたことは明白。宮女達は、灑珠様に仕えるためではなく、灑珠様を監視するためにつけられた人員だったのでしょう」


 監視兼、写本制作役、と言うべきか。


『物語が好きな妃のために文筆家が宮女として召し抱えられている』のではなく、物語を書き綴っていたのは妃本人で、宮女達はただの作業要員であった。その妃を囲い込んで逃さない檻として、薔薇そうび殿でんは機能していた。


 その解釈が正しいならば、あの空気感と、応対に出てきた宮女の態度にも納得ができる。


 ──しかし、なぜ薔薇殿様が『淡夢たんむ双妃そうひでん』の作者だと分ったんだ?


 ここに踏み込んだ時点で蒼鈴に分かったことは、『灑珠が監禁されていて、何か書き物を強要されている』ということだけだったはずだ。書いていた物はただの書類という可能性もあっただろうし、何か他に事情があると考えることもできたのではないだろうか。


 そもそも、展開が早すぎるのだ。


 この部屋にかけられていた鍵を何らかの手段で開けてこの監禁部屋に踏み込み、灑珠から事情を聞き出して取って返す。言葉にしただけでもそれがいかに難しいことかは分かる。


 蒼鈴ならば錠前破りくらいは事もなくやってのけそうな気がするが、『灑珠が「淡夢双妃伝」の作者であることを聞き出す』『監禁と執筆は強制されたものであると断定する』という二点は、灑珠からの反応を得なければならない以上、蒼鈴単体の速度だけではどうにもならないはずだ。こんな様子の灑珠が、部外者である蒼鈴になめらかに口を利けたのかという部分だって怪しい。


 どう考えても、浚明と玲伯が稼いだあのわずかな時間だけで全てをこなせるとは思えない。


 つまり。


 ──蒼鈴殿には、すでにある程度の真相が見抜けていたということだ。


「書かれている物が物語であることは、棚に入れられている書類の文字を見れば分かりました。彼女が『淡夢双妃伝』の作者であることは、単刀直入におうかがいしたので分かったというのもあるのですが……」


 浚明が疑問を込めて蒼鈴を見つめると、一度チラリと浚明を見やった蒼鈴が再び足を動かした。


 蒼鈴が進む先には、窓の外の光景に見惚れる灑珠がいる。


「失礼ながら、翠仙すいせん先生でいらっしゃいませんか?」


 ──翠仙先生?


 耳慣れない名前に浚明は内心だけで首を傾げる。


 対する灑珠の反応は鮮やかだった。


「っ!」


 ハッと弾かれたように我に返った灑珠の視線が瞬時に蒼鈴に向けられる。涙さえ弾く強さで蒼鈴に焦点を結んだ灑珠は、震える声で言葉を紡いだ。


「なぜ、その名前を……っ!」

「……やはり、そうでしたか」


 対して蒼鈴は表情を変えないまま、わずかに瞳を陰らせた。その陰りの正体は痛みや悲しみ、怒りといった感情だろう。


 ──どういうことだ?


『淡夢双妃伝』の作者の名は、『灑珠』でもなければ『翠仙』でもなかったはずだ。突然出てきた名前が意味するところを、浚明は察することができない。


「宮廷書庫室は、宮廷で生み出される書だけではなく、市井で流通する書も広く収集しております」


 その戸惑いを、蒼鈴は当然把握しているのだろう。


 卓まで歩み寄った蒼鈴は、『鉄壁の凪』の下にあらゆる感情を押し込めていると分かる声色で、努めて淡々と己の思考の軌跡を説明し始めた。


「我々宮廷書庫室の司書は、市井の書を収集する際、なるべく原本を手に入れるように努めます。写本が流通していれば、なるべく初期のものを。口伝で流布した歌や物語であれば、なるべく初期の形を留めるように」


 版木を用いた印刷や、石碑から文字を写し取る拓本という技術もあるが、世に流通している書の大半は手で書き写された写本だ。


 誰かが最初に己の手で物語を書き記して原本ができ上がり、写しを手元に置きたいと願った誰かがそれを書き写すことで写本が作られる。人の手によって書き写されるのだから、正確に内容が書き写される保証はない。故意であれ過失であれ、書き写されていくごとに正確性というものは失われていく。


 宮廷で生み出される書類を必要に応じて編纂している宮廷書庫室だからこそ、その危うさは誰よりも理解している。ゆえに正確性を求めて、宮廷書庫室は流行本を求める時も原本に近い書を探すことに力を入れていた。


「四年程前でしょうか。とある物語の噂を耳にして、その物語の原本を取り寄せたことがございました」


 何でもその物語は、幼い子供達が楽しく勉学に励めるようにと、私塾の講師が書き綴ったものだという。それがまた中々に面白く、難しい学問を噛み砕いて学べるものだから、私塾の生徒達の口から様々な人間に伝わった。生徒達が書の練習がてら写本を作っていたから、口伝と同時に写本も人々の手に渡り、やがて評判本になったという。


 その物語の作者の名が『翠仙』であった。


「宮廷書庫室が手に入れられたのは写本でしたが、御祖父様おじいさま……書庫大師が縁あって翠仙先生直筆の『雑話集ざつわしゅう』を手に入れております。わたくしも拝見させていただきました」


 蒼鈴はささやくように紡ぐと、卓の上に置かれていた紙を手に取った。そこに整然と並んだ文字に一度視線を落とした蒼鈴は、顔を上げると確信とともに灑珠を見据える。


「今ここに並んでいる文字は、まさしく直筆の『雑話集』と同じ筆跡です」


 ──なぜそんなに自信を持って断言できるんだ?


 蒼鈴の言葉には筋が通っているように思える。だが浚明は完全に納得することができなかった。


 ──いくら直筆を見たことがあると言っても、四年も前の話だろう? いちいち覚えていられるものなのか?


 おまけにその『文字』は書画などではなく、当時流行していた物語本の文字だ。よほど特徴的な字でない限り、四年の時を越えて記憶の中の文字とこの暗がりで見た文字を照合することなどできないのではないかと、浚明は疑念の目を蒼鈴に向ける。


「文字というものは、筆跡のみで鑑定するものではありません。字間や行間といった呼吸、全体的な癖、判定要素は様々です」


 浚明のその反論は、蒼鈴も予想していたものだったのだろう。書きかけの書面を手にしたまま、蒼鈴が半歩足を引いて浚明を振り返る。


「それに今回は『文字』という単体ではなく『物語』という全体での照合です。癖はもっとはっきりと出ます」


 ──それってもしかして……


 つまり蒼鈴は、『淡夢双妃伝』を一読した時点で、筆跡や文書の癖から作者に思い当たりがあったと言いたいのだろうか。確信がなかったから、浚明には言わなかったというだけで。


 ──いやいやいや、それにしたって、四年も前に読んだ物語なんだろう? 題材だって、勉学のための訓話と妃達の悲恋じゃかなり違う。癖を覚えていたと言っても……


「それに。……翠仙先生の存在を思い浮かべたのは、単純に書き癖からの類推だけではありません」


『どんな記憶力をしているんだ』とも『推理するにしたって無茶苦茶だ』とも思う浚明の心の声をねじ伏せるかのように、蒼鈴は言葉を続けた。


「翠仙先生の訓話は、書に纏められた物の他に、口伝がいくつもありました。いくつか訓話が溜まると書に纏められていたので、最新話は口伝で回るのです。……その口伝が、三年程前を境にパタリと絶えました」


 その声に、凍りついたように蒼鈴を見つめていた灑珠がビクリと肩を跳ね上げた。


 一目見ただけで何もかもを読み解いていく蒼鈴には、その反応さえ予測済みだったのだろう。


 蒼鈴は再びゆっくりと灑珠へ相対する。その一瞬、蒼鈴が痛みをこらえるかのようにわずかに瞳を震わせたのを、浚明は確かに見た。


「私も大師も新作を楽しみにしていたので、不思議に思って理由を探ったのですが……。そのは、急に私塾を辞めてしまったというのです。後任には親類筋の男講師がやってきたが、居丈高な性格から評判が落ち、やがて私塾も閉められることになったと」


 その私塾の運営者は崔銘さいめいという氏だったと、蒼鈴は続けた。


「三年前、崔銘家から後宮に嫁した女性。……灑珠様、貴女様が翠仙先生であると仮定すると、色々と筋が通るのです」


 翠仙がしるした『雑話集』と書き癖が一致する『淡夢双妃伝』。三年前に突如姿を消した女講師と、三年前に後宮にやってきた妃。


 確かに灑珠が翠仙であり、『淡夢双妃伝』の作者であると仮定すれば……さらに何者かが後宮で灑珠に『淡夢双妃伝』を執筆させるために灑珠の輿入れを強行したと仮定すれば、すんなりと全てに筋が通る。


 ──何者か、ねぇ。


 この場合、それが誰であるかなど、既に分かりきっている。


 何せ灑珠の薔薇殿入りは、御寿頭みすずの権力によって強行されたものなのだから。


「……『淡夢双妃伝』には、何点か展開に不自然な部分があります。翠仙先生は、あんな不審点ばかりの駄作など書きません」


 前回の任務の主犯とも言える人物達がここでも関わっていたのかと、浚明は内心だけで舌打ちを鳴らす。


 そんな浚明に気付いているのかいないのか、不意に蒼鈴が話題を変えた。


「恐らく貴女あなた様は、監禁主から『このような話を書くように』と細かく指示を受けていたのでしょう」


 蒼鈴の言葉に、灑珠は凍りついたまま目をみはる。微かに動いた唇は、恐らく『なぜ』という言葉を紡いだのだろう。続く言葉は『分かるのか』であるはずだ。


「なぜ、貴女様はその要望に応ずることになったのですか? 指示主は、何のために貴女様にそんなことを命じていたのですか?」


 お聞かせください、と語りかける蒼鈴の声は真摯だった。


 その声音に、灑珠の瞳からまたポロポロと涙がこぼれ落ちていく。


「私だって、こんなこと、したくありませんでした……」


 涙にぼやけた瞳の奥に、粉々に砕かれた心が見えたような気がした。


 それが全てに絶望してしまった者の瞳だと、浚明には分かる。


「私が生み出した物語のせいで、人が死んだと聞きました。……私の綴った物語が、人を殺したと」


 灑珠の涙は止まらない。そうでありながら静かな声音で言葉を紡ぎ続けながら、灑珠は己の両手に視線を落とした。


 墨に染まった、妃らしからぬ手。所々に不自然なタコができた指は、常に筆をり続ける文字書きの手だ。


「私は……っ! 許されるならば、ずっと子供達のための物語を綴っていたかったっ! こんな人を殺すための物語なんて、書きたくなかったっ!!」

「では、なぜ」

「あなたに説明したところで、あなたに私の事情が理解できるのですかっ!? 才能があり、地位を与えられ、絶対的な権力に守られたあなたなんかに、私を糾弾する権利があるのですかっ!?」


 ──マズい、錯乱している。


 噛み合わなくなってきた灑珠の言葉に、サワリと不安が心を撫で上げる。


 蒼鈴は灑珠を糾弾したいわけではない。ただ事情を説明してほしくて問いかけているだけだ。


 だが精神が追い詰められている灑珠は、蒼鈴の言葉の全てが自分を非難していると思い込んでいる。いや、今は蒼鈴が口火を切っているから蒼鈴だけに噛みついているが、これが玲伯や浚明に変わっても灑珠は同じことを叫ぶだろう。


 ──どうにか落ち着かせないと……


 このままでは目の前にした真実を掴めない。救える者を救えない。せっかく灑珠が置かれた状況を把握できたのに、それを打破することができない。


「私っ……私、はっ! だって、仕方がなかったんですっ! この道を行くしか……っ!!」

「……わたくしが恵まれていたというのは、間違いなく事実です」


『言葉が通じないならば、ひとまず物理的に意識を落とすか』と、浚明は袂に隠した手の中に密かに麻酔針を忍ばせる。


 だが浚明が物理に訴えるよりも、蒼鈴が静かな声で切り出す方が早かった。


「わたくしには『未榻みとう』としての才がありました。その才を認めてくれる師がおりました。師は『未榻』の長であり、同時に胡吊祇うつりぎの権力者でもありました。絶対に誰にも崩せない庇護が、わたくしには与えられておりました」


 その玲瓏な声は、錯乱しかけた灑珠の意識にもしっとりと染み込むように届いたのだろう。


 さらに言えば灑珠は、蒼鈴がこの難癖を肯定するとも思っていなかったに違いない。その証拠に灑珠は、呆気に取られたような顔で言葉を止めている。


 そんな灑珠を真っ向から見据えて、蒼鈴は淡々と、深々と、静かに灑珠へ語りかけた。 


「では問いますが。同じだけの『力』が目の前にあったら、貴女様は躊躇ちゅうちょなくその『力』を手に入れるために手を伸ばすことができましたか? 『力』を振るうために、血反吐を吐きながら努力することができましたか?」

「そ、それは……」

「貴女様がなぜこのようなことに巻き込まれたのか、おおよその推測はできております。確かに貴女様が置かれた状況では、逃げることも戦うことも許されなかったのでしょう」


 灑珠の実家である崔銘家は、御寿頭の縁者であるという。


 巷では『崔銘家側が御寿頭の縁故を使ってゴリ押しした』と言われている灑珠の薔薇殿入りだが、実際のところ灑珠の輿入れを強行したのは御寿頭側だろう。なぜそれが『淡夢双妃伝』の執筆に繋がるのかは不明だが、先の『華玉かぎょく問答集もんどうしゅう』の一件からして御寿頭が何か良からぬことを企んでいたという事実は明白だ。


 三姓家の一角であり、本家筋にあたる御寿頭家から命じられれば、小さな分家にすぎない崔銘家が否と言えるはずもない。御寿頭に目をつけられた灑珠も、灑珠の家族も、指示に従うしか道はなかったのだろう。


「ですから、わたくしは今までの貴女様の行動を糾弾いたしません。わたくしが問いたいのは、これからの貴女様の覚悟です」


 そんな灑珠へ、蒼鈴はひたと強い瞳を据えた。


 夜空に煌々と輝く天狼てんろうの星のような。そんな強い光を宿した瞳を。


「貴女様の身命を、胡吊祇に差し出す覚悟はございますか?」


 その視線に、言葉に。


 頬を張られたかのように、灑珠の意識がめたのが、手に取るように分かったような気がした。


「貴女様が今まで行ってきたことの全て、貴女様が知り得た情報の全て、そして貴女様の才、身命、これからの未来。その全てを胡吊祇に捧げて生きる覚悟があるというならば……それだけのことをしてでも現状を打破したいという覚悟があるならば。わたくしの身を守っているものと同じ権威の傘の中に、貴女様を迎え入れて差し上げましょう」


 さぁ、これでわたくしと貴女様は同じ土俵に立ちましたね?


 蒼鈴は静かに囁くと、わずかに瞳をすがめた。


 たったそれだけの所作で、場にかかる圧が跳ね上がる。


「力があろうと、才があろうと、絶対的な庇護があろうと。……己の足で立つ覚悟がなければ、何も状況は変わりません」


 その圧に、灑珠の喉がヒュッと鳴る音が聞こえた。そこまでではないが、玲伯も同じように息を呑んだのが分かる。


 かく言う浚明も、一瞬呼吸の仕方を忘れた。


 それくらいに今の蒼鈴が放つ圧は重い。ともすればその圧は、絽棗ろそう殿でんで皇太后から感じた圧よりも上かもしれない。


「わたくしは物心ついた頃から、実の両親にこう言われて育ちました。『お前が男であれば、どれほど良かったか』と」


 全員の喉を干上がらせる圧を放ちながら、蒼鈴はポツリと言葉をこぼした。その声がひどく乾いて聞こえるのは、蒼鈴が極限まで感情を削ぎ落として言葉を発したからだろう。


「わたくしが元々置かれていた世界は、『女』というだけで一切の才を封じられる場所でした。才を研ぐことすら、許されぬ場所でした」


 その言葉に、浚明は出会った当初の自分が蒼鈴に浴びせかけた言葉を思い返していた。


『お、女がこんな場所で何をしているっ!!』

『ここは王宮だぞっ!? お前のような女がいて良い場所では……っ!!』


 かつて浚明が叫んだ言葉は、純然たる男社会である玻麗はれい王宮の無意識を凝縮させた発言だったのかもしれない。蒼鈴のたぐいまれな才を痛いほどに思い知った今は、自分がどれだけ愚かだったのか嫌になるほど理解できる。


「そんなわたくしに『未榻』の名乗りが許されたのは、確かに師にして祖父、未榻甜珪てんけいに見出されたからというのが最大の理由です。しかしそれはきっかけにしかすぎません」


 玻麗王宮に蔓延はびこる『常識』という名の理不尽を打ち破り、己はこの地位にあるにふさわしいのだと無能な男どもに知らしめさせた『書庫室の仙女』は、挑みかかるように灑珠を見据えた。


「庇護があろうとも、その庇護を振りかざす腕力がなければ庇護は機能いたしません。権力を乱用するにも、才を見せつけるにも、それができるだけの腕がなければなりません」


 その圧に、視線に、灑珠は息を詰めたまま凍りつくことしかできない。


 だが心までもが凍りついたわけではないということは、灑珠の瞳をひたひたと満たしていく光を見れば分かった。


「わたくしは、その『腕』を、血反吐を吐いて這いずり回ってでも手に入れました。貴女様が『私にはそれがなかった』と叫ぶそれらを行使するために、わたくしは負けられない戦いに身を投じてきました」


 負ければ、きっかけを与えられる前に振り戻される。才を研ぐことも、世間に突き立てる爪や牙を備えることも許されず、無能な男どもが回す世界の端くれにすがって、ただただ無為に残りの人生を過ごすことになる。


 そんな日々を、己は決して受け入れたくなかった。


「貴女様は、わたくしと同じきっかけを与えられれば、わたくしと同じだけ足掻くことができるのですか?」


 できると言うならば、先程の貴女様の叫びは責任転嫁などではないと認めましょう。


『今までは仕方がなかった』『だけど現状を変えるために足掻きたい』『だから助けてほしい』『足掻くためのきっかけがほしい』という叫びの声に、耳を傾けましょう。


「できないならば、『でもでもだって』と汚く喚いていないで、さっさと事実だけを吐きなさい」


 一切の感情を載せず、ただただ圧だけを存分に込めて蒼鈴は言い切った。干上がった喉をさらに締め上げるかのような言葉に、浚明はもはや指先ひとつ動かせずに成り行きを見守る。


「あ……ぅ……っ!」


 その、視線の先で。


 一度、絶命間際のようなうめき声を上げた灑珠は、グッと奥歯を噛みしめるとキッと蒼鈴を睨みつけた。拳の形に固められた右手の甲がグシグシと目元をこすって涙を払う。


 それからスッと息を吸い込んだ灑珠は、全てをぶちまけるかのように腹の底から声を張った。


「輿入れは御寿頭の指示。私の実家は、御寿頭本家からの借金があって、私はそのカタに後宮入りを強いられた。後宮に入ってからの監禁も、『淡夢双妃伝』の執筆も、実家を盾に取られてたから、反抗できなかった」


 今まで耳にした灑珠の声とは響きが違う声に、浚明は思わず目を瞠る。だが蒼鈴は一切表情を変えることなく、ひたと灑珠を見据え続けていた。


「『淡夢双妃伝』への指示は、全部書面で渡されていたから、本当に御寿頭が指示を出していたのかは分からない。目的も知らされていない。私はただ指示の通りに書いただけ!」


 勢いよく言い切った灑珠は、フーッ、フーッと肩で息をする。先程まで蒼鈴が灑珠に向けていた挑みかかるような目を、今は灑珠が蒼鈴に向けていた。


「ひとまずキモの部分はここでしょう? 落ち着けば、もっと話せることはたくさんあると思うわ」

「……いいでしょう」


 不意に、蒼鈴が醸していた圧が霧散した。何が変わったというわけでもないのに、急に呼吸の自由が戻ってくる。


「今から貴女様は、わたくしの同士です」


 浚明が思わず小さな空咳をこぼす中、蒼鈴は卓を回り込んで灑珠との間に残っていた距離を詰めた。


 何をするつもりなのかと浚明が視線を向ける先で、蒼鈴はスッと片手を差し出す。


「理不尽を蹴散らす気概のある同士を、わたくしは歓迎いたします」


 浚明の位置からは、蒼鈴の顔は完全に死角に入っていてその表情をうかがうことはできない。


 だが浚明には何となく、蒼鈴が嬉しそうに微笑んでいるように思えた。

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