後宮には、皇帝のために集められた数多の美姫が暮らしている。贅を凝らした閉じられた花園は、ヒトもモノも酷くきらびやかだ。


 そんな世界にありながら、かつてこの世界の頂点に君臨し、その座を退いた今なお後宮の后妃達に敬意を払われる女主は、ひどく質素な宮に暮らしている。


「よく来ましたね、玲伯れいはく華鈴かりん


 皇太后が余生を過ごす絽棗殿ろそうでんは、後宮の奥まった場所、小高い丘の森に抱かれるようにして建っていた。絢爛豪華な装飾品を排した室内は質素でありながら、時を経てきたものだけが纏う風格と、見る者が見れば分かる上質な調度で構築されている。


 そんな宮の主に相応しい貴婦人は、柔らかな笑みとともに浚明しゅんめい達を出迎えた。


 ──皇太后、絽棗殿珱鈴ようりん


 御歳七十を越えているはずだが、凛と背筋が伸びたたたずまいは実年齢を感じさせない気迫を湛えていた。色こそ雪のように白いが髪は長くたっぷりとしていて、深くしわをたたえていながら肌は血色も良く健康的だ。萌黄の装束は質素でありながら品が良く、耳元を彩る翡翠の飾りが老いてなお余りある美貌に映えている。


 ──この方が、後宮の影の支配者。


 先帝時代、珱鈴が正后として後宮を治めていた間、玻麗はれい後宮には歴代稀に見る平和な時間が流れていたという。もちろん後宮という場所の性質上、全員が全員良好な関係を築けていたわけではないのだろうが、それでも妃達は皆、いつだって後宮の運営に心を砕いてくれていた正后に感謝と敬意を抱いていたという話だ。


 皇帝の代替わりとともに珱鈴も正后が住まう牡丹ぼたん殿でんを次代へ明け渡し、この絽棗殿に入った。皇帝が崩御すれば后妃達も後宮から出ることを許されるが、珱鈴は亡き皇帝への思慕の念と息子の后妃達の平安を守るために、里へ下がらず絽棗殿で暮らす道を選んだらしい。そんな女主を慕い、今でもこの宮には後宮の住人達が足繁く通ってくるのだという。


「それで? 今日はどういった用件だったかしら?」


 椅子に腰掛けた珱鈴はヒラリと肩越しに片手を振った。万事を心得ている侍女達は優雅に頭を下げると衣擦れの音さえ立てずに部屋から下がっていく。残されたのはひざまずいて礼を取った蒼鈴そうりんと玲伯、さらに二人の後ろでぬかづいた浚明だけだ。


「珱鈴大伯母様の庭を荒らすことになるかと思いましたので、先に御挨拶に馳せ参じました」


 玲伯が口を開くのかと思っていたのだが、浚明の予想に反し口を開いたのは蒼鈴だった。跪いた玲伯と額づいた浚明を他所よそに、蒼鈴がスクッと立ち上がったのが微かな衣擦れの音で分かる。


「荒らす? 未榻みとう君が飛ばしてきた式文に、そんな物騒なことは書かれていなかったはずだけども」


 ──未榻君?


 誰のことだ、と一瞬疑問に思ったが、式文……退魔術を用いて後宮の奥深くに暮らす皇太后まで直接文を届けることができる『未榻』など、浚明が知る限り一人しかいない。


 未榻甜珪てんけい


 先代書庫長にして、数多の伝説を残す偉人。蒼鈴の師であり祖父、珱鈴から見れば義弟にあたる人物だ。


 その名を聞いて、浚明はようやく自分達がここまで迅速に後宮に潜り込めた裏事情を知った。


 ──未榻甜珪書庫大師の一筆を受けて、否と言える人間なんてこの国にはいない。


「『皇帝書番の代理として蒼鈴を寄越す』と書かれておりませんでしたか?」


 蒼鈴が玲伯以上の強権を行使していたことに驚きながらも、浚明はその強権を背負うことができる蒼鈴自身に戦慄していた。


 ──つまり蒼鈴殿は、書庫大師の名代を務めることが許されているということか?


 この見目麗しい少女は、一体その細い体にどれだけの強権を負っているのだろうか。その行使を許されるという重責は、周囲が思うほど軽くはないだろうに。


 権力者の裏を探るために影に潜み、権力の近くに忍び込む浚明だからこそ。その重さに潰されず、振り回されず、ただ平然と立つことがどれだけ難しいかを知っている。


「……なるほど」


 変わらず額づいたままの浚明に見えているのは、絽棗殿の床板だけだ。御前に出たら許しがあっても顔を上げではならない、というのは貴人に対する礼ではあるが、今回は同行者二人に『たとえ許しがあっても顔を上げるな』と念を押されている。


 だから浚明は目の前のやり取りが気になっても顔を上げることができない。


 だが顔を上げずとも、声の調子で、場にこぼされる音で、分かることはある。


「『華鈴』が『大伯母』の顔を見に来たわけではなく、『蒼鈴』が『絽棗殿』に協力要請に来たということね」


 珱鈴は、実に人が悪そうに笑ったようだった。ニヤリと音が聞こえてきそうな笑みはきっと、書庫室で浚明を着替えさせる前に玲伯が浮かべていた笑みに酷似しているのだろう。


「さしずめ、今日の玲伯は添え物といったところかしら?」

「道先案内人、くらいには言ってよろしいかと」

「なるほど? 玲伯が持っている『胡吊祇うつりぎ本家』の権力と、『東宮殿下の幼馴染』『東宮正后の双子の兄』という関係性を利用して、最短最速で後宮に踏み込んできたわけね」


 珱鈴の言葉に玲伯が小さく肩をすくめる。


 事実、後宮の通用門を突破する際、玲伯はその辺りのありとあらゆる力とコネを存分に使い倒していた。そうでなければ蒼鈴はともかく、一目で男だと分かってしまう浚明がこうもたやすく後宮に踏み込めるはずがない。


 ──着替えさせられた格好も、性別を誤魔化してくれる物ではなかったからな。


 玲伯が用意した装束は神祇部じんぎぶの下級神官が着ている暗赤色の袍だった。儀式の時に用いられる面布が冠から垂らされていて、今の浚明は目元に開けられたわずかな隙間からしか視界を得られていない。正直なところを言えば、顔を伏せていようが上げていようが、珱鈴から浚明の顔を見ることはできないだろう。


 ──絶対に宦官装束よりも隠密行動には向いてないし、どう考えても悪目立ちしている……というよりも、はっきり言ってもはや不審者じゃないか……!?


 宦官装束のままならば、通用門であそこまで揉めることはなかったのではないだろうか。さらに言えば視界不良なこの格好は調査にも向いていない。なぜ玲伯がこの装束に着替えさせたのか、その意図が浚明には分からなかった。


 ──とはいえ、助かった部分もあったが……


 怪しまれず……いや、もう怪しまれているかもしれないが、とりあえず顔を隠していられることは、正直に言うと助かる。


 隠密監査官として、あまり捜査現場で顔を覚えられるのは困るという事情もあるのだが。


 ──そうだな。ここも『後宮』だから。


 もしかして二人は、何よりも覚られたくない浚明の事情までをも見抜いてしまっているのかもしれない。


「いいわ、。言ってごらんなさい?」


 一瞬横道にれた浚明の思考を引き戻したのは、軽やかな珱鈴の言葉だった。


 珱鈴の声は軽やかで親しみも感じさせるのに、話せば話すほど圧のようなものがズシリと身にかかるような気がする。やはり彼女は、一線を退いていても絶対的な権力者なのだろう。仮に許しがあったとしても、浚明は頭を上げられる気がしない。


「お前がこの絽棗殿珱鈴に望むものは? 見返りには何があるのかしら?」

「後宮内をあちこち嗅ぎ回ることへのお許しもいただきたいのですが。……その前に、まずはこちらを」


 その圧を、もちろん蒼鈴も感じているはずだ。


 だが密やかでありながら凛とした蒼鈴の声は、書庫室で聞く時と変わらず玲瓏なまま周囲の空気の中にスッと溶け込んでいく。


「御一読いただき、その所感を後宮の皆様にお伝えしていただきたく」


 その言葉とともに、蒼鈴は珱鈴へ一冊の本を差し出した。サラリと袂が広がる音で、浚明はその動きを覚る。


 そんな蒼鈴に、珱鈴は目をしばたたかせたようだった。微かに首を傾げたのか、結い上げられた髪が背中を滑る音が小さく響く。


「それは?」

「皇帝書番代行、未榻蒼鈴より、この度絽棗殿珱鈴皇太后陛下へ御献上申し上げる一冊でございます」


 その一言に、浚明はここへ至る道すがら、蒼鈴と交わした言葉を思い出した。


灰煙はいえん殿、主たる目的のすり合わせをしておきましょう』

『主たる目的のすり合わせ?』


 蒼鈴がそう切り出したのは、一行が後宮の通用門を抜け、周囲から人気が消える程度に中へ踏み込んだ頃だった。


『はい。「事件を解決する」ということの方向性……最終的に何をどこまで解決できれば目的達成と見なすか、ということについてです』


 後宮に踏み込むこと自体は成功した。だが長く滞在することはできないし、短期間に頻繁に出入りができる場所でもない。


 正面から潜り込めるのは、今回一回きり。制限時間は日が陰り始めるまで。


 許される時間はたったそれだけだ。調査をするにしても、何に対する調査を、どの段階まで進めるかということを明確にしておかなければ、全てが中途半端に終わってしまう。


『具体的に言うならば。灰煙殿は心中事件の具体的な経緯いきさつを解き明かし、二人が他殺であった場合には犯人を確保することを優先したいのですか? それともその一件に関しての優先度は低く、「淡夢たんむ双妃そうひでん」が流行した背景について調べたいのですか?』


 確かに一口に『事件を調査する』と言っても、事件のどの部分を主に調査したいのか、どのような形を『解決』と呼ぶのかによって調査の仕方は変わってくる。蒼鈴が言う通り、その部分ははっきりと言葉にして、互いの認識の差異を埋めておく必要があるだろう。


 蒼鈴の言葉に一瞬考え込んだ浚明は、即座に答えを口にした。


『「淡夢双妃伝」が流行した背景を調査したい。その上でこの異常な流行を止め、心中が讃美されるような風潮を改められれば万々歳だ』


 宮女二人の心中の真相も、もちろん調査はしなければならない。だが亡骸は医局に預けられており、浚明達では調査がしづらい。さらに言えば浚明も蒼鈴も医者ではないから、調査をしたところで何かが得られという確証も薄い。


 だが『淡夢双妃伝』が流行した背景とそこに隠された意図を解明できれば、これ以上被害者を生むことは防げる。さらに流行を止めることができれば、心中を模す者も、心中に模して害される者も減らせるはずだ。


『とはいえ、流行りを止めるなどということが、そんなに簡単にできるとも思えないんだが』

『そこに関しては、わたくしに手があります。お任せくださいませ』

『分かった。手間をかける』


 その短いやり取りで、後宮内での身の振り方は決まった。蒼鈴に全面的に頼り切りになる姿勢はいかがなものかとも思ったが、蒼鈴の手腕が確かであることは先の事件で知っている。必要な場面で浚明がちょくちょく手を出せば、そんなに悪い方向には向かわないはずだ。


 ──そういえばあの時、玲伯殿が呆気に取られたような顔をしていたな。


 二人のやり取りはもちろん玲伯も聞いていた。浚明の物言いに玲伯は『なるほどね。蒼鈴が気に入るはずだよ』と言っていたのだが、あれは一体どういう意味だったのだろうか。


「……これは、どういった物語なのかしら? 題を知らないのだけれども」


 蒼鈴から書を受け取った珱鈴は、パラリと手の中で書を手繰ったようだった。珱鈴の声がわずかに冷えたように聞こえたのは、浚明の気のせいではないだろう。


 ──書や歌は、接する当人が気付かないうちに受け手の思考を染める。


 流行り物に特定の主義主張を潜ませ、受取手に気付かせずに一定の思考を刷り込むという手法は、はるか昔から為政者によってされてきたことだ。


 逆に市井しせいで広がる作り手が不明な流行歌や書物には、まつりごとへの風刺が入り乱れていることも多い。


 宮廷書庫室が王宮内の書類だけではなく市井で流行る書も収集しているのは、その内容を把握し、行き過ぎた物があれば王宮へそれらを報告するという役割も帯びているからだ。皇帝や後宮が特定の書を欲した時に『皇帝書番』と呼ばれる司書が仲介役を果たすのも、司書が一度内容を検閲して問題がないかを確認するためだという。


 ──そういえば皇帝書番の役目は、宮廷書庫室書庫長が負っているんだったか。


『未榻蒼鈴から絽棗殿珱鈴への協力要請』と銘打ってからのこの流れだ。蒼鈴が後宮における珱鈴の影響を使って特定の思考を定着させようと目論んでいることは、珱鈴にも伝わっている。珱鈴が蒼鈴から差し出された書に警戒心を見せたのは、そんな背景があるせいだろう。


「端的に申し上げるならば、妃が愉快痛快に暴れ回る話でございます」

「え?」


 今なお後宮の后妃達を守る盾となる気概を失っていない誇り高い貴婦人は、自身が纏う圧で『未榻』を威圧する。


 だがその圧に、宮廷書庫室の仙女はひるまない。


 むしろ浚明の聞き間違いでなければ、内容を語る蒼鈴の声が弾んだ。


「主人公の華月かげつは、下級官吏のぐうたら娘です。華月のあまりのぐうたら加減に業を煮やした父親は、行儀見習いと称して華月を後宮に叩き込みます。そこで華月はとある宮に派遣されるのですが、その宮の主は容姿が華月と瓜ふたつ。しかし性格は真逆で、宮主は後宮における己の立場を気にしすぎて気鬱にかかっておりました。宮主付きの侍女達は華月と宮主をすり替え、宮主を後宮の外で療養させることを思いつきます。もちろんぐうたらな華月は嫌がるのですが、『入れ替わっている間は宮主として三食昼寝付のぐうたら三昧』『皇帝にとって宮主は押し付けられた妃でお荷物。眼中にもないから夜伽の責務もない』という言葉に乗せられ、替玉を引き受けます」


「……はぁ」


「贅沢ぐうたら三昧な日々を手に入れたかのように思われた華月ですが、そうは問屋が卸しません。自宮の侍女達他の軋轢、他の妃達からの嫌がらせ、降りかかる珍事件、それらを華月は己の居心地の良いぐうたら生活のために解決していくはめになるわけですが、ここで華月の無自覚な有能さが遺憾なく発揮されるのです。そう、華月はぐうたらしたいだけの超有能美人! しかも無自覚! その人柄、容姿、能力に接した人々は皆魅了され、いつしか華月は周囲に一目置かれる、後宮の要人となっていくのです」


「ちょ、ちょっと……」


「周囲の反応に興味を抱いた皇帝もやがて華月に興味を抱くのですが、男にも権力にも興味がない華月は当然皇帝にも媚びません。そんな華月に皇帝はあの手この手で迫るのですが、皇帝に興味がない上に恋愛方面に鈍感な華月は気付きもしません。このすれ違っている珍妙なやり取りが毎回軽妙で面白く、また華月の振る舞いがどれもこれも痛烈でスカッとするのです。宮女衆の中で親宮主派、反宮主派と初め激しく敵対していた玉明ぎょくめい香梅こうばいが時を経るごとに良い相方となり、最終的に華月の両腕、盟友とも言える関係になる展開も大変胸が熱くなりまして……」


「華鈴! 華鈴、分かったから!」


 珱鈴の困惑の声に、蒼鈴はハタと我に返ったようだった。コホン、と咳払いをして居住まいを正した蒼鈴は、平時の淡々とした声音で言葉を締めくくる。


「簡単に申し上げると、そのような話になります」


 ──どえらく語ったな……


 思わず浚明は額づいた状態のまま乾いた笑みを浮かべた。これに比べれば『淡夢双妃伝』の説明と所感は、確かに手短に済んだのだろう。書好きに推し本について軽率に語らせてはいけないのだと、浚明はこんなところで学ぶ。


「お前の推し本を、後宮で布教しろ、ということ?」

「推し本、というわけではございませんが」


 嘘だろう、というツッコミは、期せず場にいた三人ともが抱いた言葉であったはずだ。


 だが三人ともがそれを口に出せなかったのは、『皇帝書番代行』として蒼鈴が言葉を続けたからだった。


「現在の後宮で流行している『淡夢双妃伝』よりは、ずっと楽しい物語だと思います」


 その言葉に、ユルリと珱鈴が顔を上げたのが分かった。蒼鈴と珱鈴の視線が真正面からかち合うのが、ピンと部屋に張り詰めた空気の緊張で分かる。


 流行というものは、いつだって身分が高い者が作り出す。


 服飾も、食べ物も、書物も。高貴な人間との会話の糸口とするため、貴人が好む諸々は周囲の人間にたしなまれ、やがてそれは流行と呼ばれるものに変わり、ゆるゆると隅々まで広がっていく。


 後宮という場所は、狭く閉じられた女の貴族社会である分、その伝播が一際顕著だ。今なお後宮内に強い影響力を持つ珱鈴が新たに気に入った書ともなれば、必ず後宮の后妃達はこぞってその書を求める。有力な后妃達が揃って同じ書を求めれば、后妃達に仕える宮女達にも広まるはずだ。


 後宮の住人は、誰もが娯楽に飢えている。ひとたび波が生まれれば、広がるのに時はかからない。


 今の流行を廃したければ、新たな流行を生めば良い。


 蒼鈴は『淡夢双妃伝』の流行を、新たな書を流行させることで上書きしようと考えたのだ。


「『怠惰妃華月烈伝』は、読む者の心に元気を与えてくれる書であると、私は思います。現在後宮で流行している『淡夢双妃伝』よりも良い風を人々に運んできてくれると、信じております」


 蒼鈴の言葉を吟味するかのように、珱鈴は無言のままじっと蒼鈴に視線を注いでいるようだった。その緊張に耐えかねた玲伯がわずかに身じろいだのが微かな衣擦れの音で分かる。


「わたくしは、大伯母様と玲淑れいしゅく従姉ねえ様が暮らす世界は、できるだけ平和で、良い風が吹いていてほしいと願っております」


『それが貴女あなた様の望むことでもあるはず』という言葉を、蒼鈴は口にしなかった。


 代わりにフワリと両膝を床につき、胸の高さで重ね合わせた両手の上へ優雅に顔を伏せる。


「現時点で明確な見返りは保証できません。それでも、わたくしの願いを叶えるために、どうかお力添えを頂きたく」


 蒼鈴はそれ以上言葉を重ねなかった。玲瓏な声の余韻が宙に消えていった後には、部屋の外から響く微かな葉擦れの音と長閑のどかな小鳥のさえずりだけが静寂を揺らす。


「……お前は」


 痛いほどの静寂は、どれほど続いたことだろうか。


 浚明が必死に呼吸を数えて場に満ちた緊張をやり過ごしていると、不意にホロリと珱鈴が言葉をこぼした。


「本当に、未榻君に似たわね」


 その言葉に一瞬、浚明は頭を上げかけた。


 全力でそれを押し留めた浚明に対し、蒼鈴と玲伯はハッと顔を上げたらしい。珱鈴がコロコロと楽しそうに笑う声が響く。


「『貴女の願いでもあるはずだ』とも『報酬はそれだ』と言うことだってできたでしょうに」

「わたくしは大伯母様ではありません。大伯母様の心の内が読めるわけもないのに、なぜそんな押しつけがましい発言ができましょうか」

「ふふふっ、その発言が未榻君そのものだと言っているのよ、華鈴」


 対する蒼鈴は心底本気で首を傾げているようだった。珱鈴の発言に得心が行っていないのだろう。


 それでも蒼鈴はすぐに気を引き締めたのか、纏う空気に醸した困惑をかき消すとスッと膝を上げる。


 そんな蒼鈴に、珱鈴が再びニッと不敵な笑みを浮かべたのが分かった。


「良いでしょう、未榻蒼鈴。預かりますよ、お前の推し本」

「ありがとうございます、絽棗殿陛下」

「それと、後宮を嗅ぎ回りたいならば、まずは薔薇そうび殿でんへ行ってごらなさい。お前が知りたいことを、あの宮の妃はきっとご存知でしょう」


 ポンッと投げられた言葉に、浚明の肩が震えた。玲伯がスッと纏う空気を緊張させる中、蒼鈴が静かに瞳をすがめる。


「出どころを、ご存知でしたか」

「薔薇殿の妃は物語を好む御方だと、後宮内では有名でね。妃を満足させるため、またそちらの方面から皇帝陛下の気を引くために、わざわざ文筆家を宮女として囲っているのだとか」


 ──なるほど。皇帝書番の検閲をすり抜けて後宮で物語を流行らせるにはうってつけということか。


 珱鈴がわざわざ蒼鈴に与えた情報だ。ただの噂や推測程度のものではないのだろう。それでも珱鈴がここまで事態を静観していたのは、珱鈴自身が配下を動かせるだけの確証がなかったせいだろうか。


「ありがとうございます、絽棗殿陛下」


 蒼鈴は珱鈴の言葉を情報兼後宮内での調査への許可として受け取ったらしい。


 再度優雅に礼をした蒼鈴は、身を翻すと玲伯へ視線を投げる。それを退去の合図と受け取ったのか、玲伯は小さく頷くと膝を上げた。


「そういえば、華鈴」


 浚明も二人にならい、顔を伏せたままソロリと膝を上げる。


 その瞬間、さり気なさを装いながらも鋭さをはらんだ珱鈴の声が飛んだ。


「そこにもう一人連れてきた者は、わたくしに紹介しないままでいいの?」


 声を受けた浚明は、その場で動きを止めた。優雅に巡らされた珱鈴の視線が、自分の上に刺すように降り注いでいるのが分かる。


「必要はございません。調査に必要があったために連れてきたのですが、本来ならば絽棗殿陛下の目通りは叶わぬ者でございます」


 蒼鈴に据えられていた時でさえ重く感じた珱鈴の圧は、真っ直ぐに自分に向けられるとさらに重かった。絶対権力者の御前はこんなに空気が違うものなのかと、数多の修羅場をくぐり抜けてきたはずである浚明が思う。緊張に喉が干上がっているのか、仮に発言を許されてもまともな声を上げられる自信がない。


 そんな浚明の緊張が移ったのか、蒼鈴の声がわずかに強張った。


「殿舎の外に放り出しておくわけにもいかなかったので、ここに通したまでのこと。どうかお捨て置きを」

「気になるから紹介してほしいと、わたくしの方からお願いしても?」

「なりません」


 いや、先程珱鈴とのやり取りを完全なる凪のまま乗り切った蒼鈴が、これしきのことで緊張するはずがない。


 ──やはり、蒼鈴殿は……


「皇太后陛下、この者は、宮廷の影でございます。光のただ中にある貴女様は、決して触れて良いものではない」

「光が強ければ影もまた濃い、と言うでしょう?」

「ならば言い方を変えましょう。これは時代の波に呑まれた亡霊でございます」


 浚明の胸にぎった疑念は、次の瞬間確信に変わった。


「貴女様も『そうかもしれない』と疑っていたから、そこまでこだわられるのでございましょう」


 その発言に、珱鈴が大きく息を呑んだのが、引きれた呼吸の音で分かった。


 蒼鈴は今、浚明の存在を『時代の波に呑まれた亡霊』だと言った。だから珱鈴と言葉を交わさせるわけにはいかないのだと。顔も、その正体も、確信させりわけにはいかないのだと。


 亡霊。すでに死んでいるはずの存在モノ。死んでいなければならないはずの者。


 浚明が生まれ落ちた時に二親から授けられた名は、すでに鬼籍に刻まれている。


 そのことを『宮廷書庫室の仙女』は承知していた。浚明の素性に気付いていた。そして珱鈴も、蒼鈴に言われるよりも早く漠然とした疑念を抱いていた。


 今ならば、玲伯が浚明の装束を改めさせた理由が分かる。


 玲伯には、この展開が読めていたのだ。


 ──確かに、大夫だいふも何かの折に言っていたな。お前は父親似だと。


 浚明は実の父親であるこの後宮の主に拝謁したことはない。直にその御尊顔を拝したことはないが、かの御方と縁が深い三人が三人ともこんな反応を示すのだから、自分達は容貌から背格好までかなり似通っているのだろう。


 それこそ顔をさらしたまま後宮に踏み込めば、ここに到達するまでの間に浚明の容貌のせいで一悶着起きたかもしれないくらいには。


 ──容貌と背格好、両方が似れば声質も似る。……だから蒼鈴殿は声も上げるなと言ったのか。


 今度から後宮関連の任には関われないと大夫に伝えておかなければ、と心の片隅に浚明は留める。逆に言えばこの件について、その程度の感慨しか浚明はいだけなかった。


 そんな浚明を背に隠すように、浚明のすぐ目の前に蒼鈴が立った。顔を伏せた浚明の視界にも、蒼鈴が纏う鮮やかな青がサラリと広がる。


「これはすでに後宮のくびきから解き放たれました。今は別の場所に、己の足で立っております。己の力で、歩みを進めております」


 蒼鈴の声は、常と変わらず淡々と、深々としていた。


 そうでありながら書へ向ける物と同種の激情の存在が奥底にうかがえたのは、なぜだったのだろうか。


ゆえに絽棗殿陛下。仮に貴女様が彼を『救えなかった』と悔いておられるならば、どうかそのままお捨て置きくださいませ」


 その疑問への答えを求めて、浚明は無意識のうちに顔を上げていた。面布に開けられたわずかな穴を通して、浚明の視界に典雅な室内の様子が飛び込んでくる。


 そんな視界の先にいた貴婦人は、浚明が想像もしていなかった表情を浮かべていた。


「それが今の貴女様が彼にしてやれる、唯一の力添えでございます」


 迷子になった、幼子のような。


 それでいて、母が我が子を慈しむような。


 そんな曖昧でいて、それでも相反していると分かる感情が入り乱れた表情で、珱鈴は浚明と、浚明を庇うように立ちはだかった蒼鈴を見つめていた。


 ──どうして、今になってそんな顔を……


 思いがけず向けられた親族の情に、浚明はどこか虚ろな心を抱えたまま再びおもてを伏せていた。

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