「この玻麗はれいでは、何文字の姓を名乗っているかで家格をはかることができます」


 目の前を行く影が、唐突に口を開いた。


 いや、影ではなく、漆黒の外套を頭からすっぽり被った書庫室の仙女であるわけだが。


「庶民は一文字。代々官吏を排出し、都に住まうような貴族家は二文字。そして一握りの上流階級者が三文字。三文字の姓を名乗ることを許された家は『三姓さんせい』と呼ばれ、一際由緒正しき家であると尊ばれることになります」

「由緒とは直結しないんじゃないか? 武であれ文であれ、功を立てれば陛下から新たな姓を下賜されるのだから」

「そうですね。では、矜持きょうじや憧れ、と言い換えましょうか」


『馬鹿げた事件の責任がこの書にないことを、わたくしが犯人を吊るし上げることで証明して御覧に入れましょう』


 書庫室で浚明しゅんめいの発言に激昂した仙女は、頭からすっぽりと外套をまとうと浚明に有無を言わせぬまま書庫室の外へ出た。一瞬『留守居役が書庫室を空けて良いのか』と疑問がぎったが、それを素直に口に出すほど浚明も馬鹿ではない。


 ──これ以上『仙女の逆鱗』に触れれば、今度こそ命が危ない……!


 直感した浚明は『ついてこい』とばかりに先を歩き始めた仙女に付き従って内朝内を歩いている。顔も衣服も分からないように頭からすっぽりと外套を纏っているせいか、すれ違う人間達は仙女にチラリと不思議そうな視線は送るものの、あからさまにその正体を正そうとはしてこない。


 ──書庫室の暗がりから出てくる時にはすでにこの姿だったから、結局詳しい色彩は分からずじまいなんだよな。


 宮廷において、その人が纏う色彩は家格や地位を示す。仙女が浚明の身の上を装束から見抜いたのが良い例だ。


 仙女は官位を得ていないと言っていたが、王宮に出入りしている以上、完全に私服で出仕しているということはないだろう。何らかの身の上を示す色彩を彼女も纏っているはずだ。


 ──明るい日差しの下で見たら、何か素性が分かったかもしれないのに。


「功を立てれば陛下より文字をたまわるように、罪を犯せば姓を削られます。姓の増減は、玻麗の貴族においては最も重い賞罰と言えましょう」


 内心だけで密かに考えを巡らせる浚明の前で、仙女は淡々と言葉を続けた。


 あの激昂は書庫室を出た時には波が引くように鎮火していて、今の仙女は初めて相見あいまみえた時と変わらない静けさを纏っている。光の下に出てきてその輪郭を明確にしていても、相変わらずふと目を離した瞬間に消えてしまいそうなほど目の前の仙女には存在感というものがない。


「ここ最近の王宮で姓を削られた家は、60年前に正后暗殺を目論んだ多迦辺たかべ家。その前だと120年ほど前に乱を起こした紅玖獅くくし家でしょうか。対して新たに三姓を名乗ることを許された家はなかったと記憶しておりますが」


 そんな仙女が、不意に浚明を振り返る。


 また内心を読まれたのかと一瞬ドキリとしたが、言葉尻と視線から『間違いありませんか?』という確認であることを覚った浚明は仙女の言葉に迷いなく頷いた。


「ここ100年での変動は、それくらいだな」

「減りはすれども増えはしない。そして減る頻度もその程度。ゆえに三姓の名乗りは聞く人に『貴族の中の貴族』として受け取られるのです」


 確かに、一文字姓から二文字姓へ上げることは、難しいことではあるがまだ不可能なことではない。貧民から叩き上げで将軍まで成り上がった武官や、庶民から難関の科挙を通過して官吏となり民に尽くした文官など、一部の優れた臣下が時の皇帝から新たに文字を賜ったという話は浚明も耳にしたことがある。


 だが二文字姓から三文字姓に上がった人間の話は思い返せば聞いた試しがない。現在三姓を許されている家は九家存在しているが、恐らくその家のどれもが500年以上はその姓を名乗ってきたはずだ。


「今回の事件。罪を暴かれたのは三姓の家ばかりでしたね。これは偶然と言えるでしょうか?」


『しかしなぜ今その話が?』と首を傾げた瞬間、そんな浚明の内心をピタリと読み取ったかのように仙女が問いを投げた。


「後ろ暗いことなど、ある程度以上の貴族の家ならば、多かれ少なかれどこにでもあるものです。だというのに告発文は三姓家の悪事ばかりを暴きました」

「お前は、これは三姓家を狙った事件だと言いたいのか?」

「さて」


 なぜ前を向いて歩いているのにこちらの内心が読めるのかと戦慄しながらも、浚明は固い声音を維持したまま逆に問い返す。だが仙女はサラリと流すだけで浚明に一切の内心を読ませない。


「三姓家を目のかたきにしている人間もいれば、邪魔に思っている人間もいるでしょう。単に目立つから標的にしやすいというだけかもしれません。ただ」


 淡々と語り、淡々と歩を進めていた仙女が、書庫室を出てから始めて言葉と歩みを止めた。その動きに従って一歩半の間合いを残して浚明も足を止めると、仙女はフワリと外套をはためかせながら体ごと浚明に向き直る。


「何の因果か、『華玉かぎょく問答集もんどうしゅう』の中に、他の三姓家の罪状を連想させるうたがまだ残っています。このことから考えるに、次が起こるとするならば、同じく三姓家を糾弾する文面になるでしょう」


 ──やはり掴んでいたか。


 仙女の言葉に浚明は意図して顔から表情を消した。


 下手に表情を保ち続ければ、微細な変化から内心を掬い取られる。ならば最初から全てを消していた方がまだ対処がしやすい。


「驚くようなことですか? どれもしばらく前からまことしやかにささやかれていることで、そう秘匿されている話でもございませんでしょうに」


 なぜ浚明がそんな反応を示したのか、その理由にも仙女は行き着いているのだろう。『今更何を隠します?』と問いかける代わりに、仙女は歌うように言葉を続けた。


「『白衣びゃくえ仙舞せんぶ』は神祇部じんぎぶ尚書しょうしょ御寿頭みすず家による部下への日常的な暴行を、『銀華ぎんか笑娘しょうじょう』は工部次郎楚戸瀬そとせ家の談合へ結び付けられる。そして……」


 一瞬言葉が切れた瞬間、仙女の瞳がじっと浚明の瞳を見上げた。ただの一瞥いちべつで心の内を見透かしてしまう瞳と視線が合った瞬間、浚明は一瞬己の魂の底まで目の前の仙女に見透かされたような心地を味わう。


「『玉連ぎょくれん黄珠おうじゅ』は尚書部しょうしょぶ左僕射さぼくや波洲羽はすば家から出た妃の不義密通疑惑にピッタリですね」

「……」

「わざわざ御史台隠密監査官が派遣されてきた理由は、十中八九この不義密通疑惑の真偽を確定されたくないからでしょう。何せ」


 浚明は表情を変えない。変えていない。それは仙女の瞳に映り込む自身の顔を見れば分かる。


 仙女だって一切表情を変えていない。浚明が見つめ続ける仙女の表情はひたすらに『無』だ。


 だというのになぜか、仙女がその言葉を紡いだ瞬間、浚明には仙女が笑みを浮かべる幻影が見えたような気がした。


「このことが明るみになれば、この国が引っくり返りかねませんから」


 ──事実だ。


 波洲羽家から出た妃とは、すなわち当代皇帝の正后。その子供は次代の皇帝と目されている皇太子だ。


 正后が不義の子……皇帝の血を継がない子供を産んでおり、さらにはその子供が立太子されているということになれば、その余波はどれだけ大きなものになるかも分からない。


 王宮のみならず国ごと揺れることは必至。それにともないどれだけの血が流れることになるかと思うと、浚明の背には寒気が走る。


「……まさかと思うが」


 一瞬、鼻先を濃厚な血の臭いがかすめたような気がした。


 それが過去の記憶から立ち昇る幻だと知っている浚明は、袖の中で小さく震えていた手を握りしめると無表情を保ったまま仙女に問いを投げる。


「お前、罪を暴いて遊ぶことが目的ではないだろうな?」

貴方あなたの頭の中に詰まっているのは石か何かなのですか?」


『先程わたくしが口にしたことをもうお忘れに?』と続けた仙女の口調に、一瞬呆れがにじんだような気がした。そのせいなのか、仙女に纏わりついていた笑みの幻覚が掻き消える。


「書庫室で申し上げました。『わたくし達未榻みとうは、世事の徒然つれづれになんぞ興味はない』と。わたくしはただ、哀れにも無実の罪を着せかけられて絶やされそうになっている書を助けるために力を振るおうというだけ。……ただ」


 それでも仙女の視線が浚明かららされることはなかった。まだ何かを探ろうとしているのか、浚明の奥の奥、底の底まで見透かそうという瞳は変わらず浚明の瞳を真っ直ぐに見上げている。


「貴方方御史台と、告発者、何が違うのか、とは思っています」

「は?」

「自由にやらせておけばいいとは思わないのですか? むしろ仕事を肩代わりしてもらっていると考えることもできるかと思いますが。……それとも、自分達の庭が荒らされることは我慢ならないと?」


 一瞬、何を言っているのかと面食らった浚明は、次の瞬間仙女が言わんとしていることを理解して思わず隠しきれない不快感を顔に出してしまった。


 御史台の使命は、官吏の不正を監督し、必要ならば糾弾すること。告発文が成したことは、秘されていた悪事を世に知らしめること。確かにやっていること自体に変わりはないのかもしれない。


 だが。


「悪事というものは、ただ世に広く知らしめればいいというものではない。確たる証拠を集め、時節を読み、適切な時に適切な形で暴かなければ、余計な人間を巻き込み、余計な波紋を生むことになりかねん」

「その時節というのは、誰にとって都合の良い時節でございましょうか」


 ──所詮しょせんお前達も、為政者にとって都合の良い『真実』を作り上げるためだけに動いているのではないか。


 お前達は暴く悪事を選別し、王宮の奥に巣くう真の病巣を保護しているのではないか。ならばその闇さえ容赦なく暴く告発文の方が余程世を正す役に立っているのではないか。


 言外に、そうただされたような気がした。


 それでも浚明は視線を逸らさず、『不快』以上の表情をさらすこともなく、真っ向から仙女の問いに答える。


「悪を正しく裁き、虐げられた者が正しく救われる道筋が立った時。その時を我ら御史台は『時節が整った』と判断する」


 歴史は勝者が作り出す。後に上に立った者が、嘘を真実へ作り替えていく。


 これは、まごうことなき事実だ。浚明だって否定はしない。宮廷という大きな闇は、その嘘によって作り上げられている。


 それでも。そうであったとしても。


 ──御史台監査官が正しく悪を監督できれば。


 行き過ぎた嘘の中から、救える人間がいるはずなのだ。手遅れになってしまう前に、掬い上げられる人間が、必ずいるはずなのだ。


 ──は、少ない方がいいに決まってる。


「御史台の検挙に王宮上層部の意図が一切入っていないとは言えない。王宮の平穏を守るために忖度そんたく斟酌しんしゃくは必ず入る。それは事実だ。否定はしない。だが」


 意識するよりも早く、己の目元に力がこもったのが分かった。ギッと仙女を睨み付ける瞳には、隠しきれない怒りが滲んでしまっている。


 己が抱く感情を相手に覚られれば、心理戦では不利になる。隠密監査官たる者、いついかなる時でも冷静でなければならない。


 そう理解はしている。


 だが今だけはこれでいいと、浚明は己の未熟を許した。


「ただただ罪を暴いて遊んでいる愉快犯と、我ら御史台を同列に語られるのは不愉快だ」


 ここには誰にもけなすことなど許されない、浚明の信念が宿っているのだから。


 真っ直ぐに浚明を見上げてくる仙女を真っ向から睨み返す。浚明が怒りを滲ませていても、仙女の瞳が揺らぐことはなかった。


 一瞥で心の奥をさらっていく仙女は、あえて心をさらけ出すかのように視線を逸らさない浚明から、一体何をどれほど覚っていったのだろうか。


「……左様ですか」


 パシリ、パシリとゆっくりと繰り返されたまばたきの後、仙女が口にしたのは酷く感情が希薄な一言だった。


 その一言で浚明の言葉を受け切った仙女は、フワリと身を翻すと再び足を進め始める。


「おい……!」

「わたくし達は、世事の徒然には興味がありません。正直言って、告発文によって罪が暴かれようが、御史台によって罪が暴かれようがどうでもいい」


 不正は犯す方が悪い。さらに言うならば、暴かれるような稚拙な形で犯す馬鹿が悪い。


 そう続けながらも、仙女は最後に言葉を付け足した。


 淡々と、一切変わることがない口調で。


「ただ、貴方が信念を持って隠密監査の任に当たっているということは、理解できました」


 その言葉に、仙女の後に続こうとした浚明の足が止まる。


 そんな浚明を一瞬だけ振り返った仙女は、相変わらず感情が見えない声音で続けた。


「興が乗りました。私は書を助けるために動いておりますが、多少は貴方自身に協力して差し上げてもいい」

「え?」


 思わぬ言葉に浚明は間抜けな声を上げる。


 だが仙女はもう振り返らない。スタスタと浚明を気にすることなく歩を進める様は、つい一瞬前に『協力して差し上げてもいい』と言い放った人物と同一人物の歩みとは到底思えない。


「お、おい!」

「さっさと行きますよ。貴方に付き合っていては日が暮れてしまう」

「お前……っ!!」


 ──最初から思っていたが、お前に『愛想』というものはないのかっ!?


 思わずそんな叫びが口を衝きかけたが、さすがに昼日中の王宮でそんなことを口走るなど大人気ない。何よりこの仙女に向かってそんなことを叫んだ日にはサラリと、かつ辛辣にやり返されることは目に見えている。


 グッと胸の内に吹き荒れる感情を呑み込んだ浚明は、代わりに建設的な問いを口にすることにした。


「目的地があるようだが、どこに向かっているんだ」

神祇部じんぎぶへ」


 開いてしまった距離を詰めるべく小走りになった浚明を振り返ることなく、仙女は空気に溶かし込むかのように静かに答えた。


「理由は追々、道中でご説明申し上げましょう」

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