第15話 生涯の愛

 淑枝としえ愛玲奈あれなを睨みつけるように見つめる。低く静かに愛玲奈あれなを声で圧し殺そうとするように滔々と話した。


「心労かろうる病や。今はもうすっかり弱ってしもうてとこから出るのも難儀しちゅう。今ここで旦那様が身まかった日には、藤峯ふじみねの家はあっちゅう間に空中分解しちまう」


 愛玲奈あれなは口元を両手で覆い瞳を潤ませていた。だが凪沙は疑っていた。藤峯のタヌキ親父がそう簡単に倒れるはずはない。これは愛玲奈あれなを釣り出す餌なのではないか。淑枝に聞こえぬように愛玲奈あれなに囁く。


「待って愛玲奈あれな、ほんとかどうかも判らない話に簡単に乗るな」


愛玲奈あれなは涙を拭い深刻な顔をして首を振った。


「ううん、ほんと。お父様、ずっと心臓が悪かったの。きっとそのせい。ううん、違う。私のせいよね」


 二人の様子を無視して淑枝は続ける。


「そしてあの村の半分は藤峯一族の力で食わしてもろうちゅうようなものや。ここで藤峯の会社が潰れるようなことがありゃあ、村のみんなも食い扶持を失くし路頭に迷う。その意味がお嬢さんにはお分かりやか。お嬢さんの縁談はお嬢さんだけのものじゃないのや」


 力なく頷く愛玲奈あれな


「だめだ愛玲奈あれな。今まで何のために苦労してここに来たんだ。これじゃあ今までの苦労が水の泡に――」


「お嬢さんが帰らんともっと多うの人が苦労する」


 淑枝は娘をひと睨みした。

 愛玲奈あれなは大きな丸眼鏡をはずし両手で顔を覆ってさめざめと泣きだした。捨てたはずの古郷ふるさとを思った。忘れるはずだった家族を思い出した。古郷ふるさとの忘れがたき友を思った。全てを捨て去った今何もかもが懐かしかった。

 愛玲奈あれなはひとしきり泣いた後居住まいを正し、淑枝に頭を下げる。


「わかりました。私、帰ります」


愛玲奈あれな!」


 凪沙は叫んだ。血の気が引く思いだった。自分も愛玲奈あれなと同じく少なくないものを犠牲にして愛玲奈あれなの望み通りここ函館までやってきたのだ。それをここでふいにするつもりはなかった。


「いいのかそれで…… いいのかそれでっ!」


 愛玲奈あれなは凪沙を見て寂しそうな笑顔を浮かべた。


「うん、いいの。もう仕方がないの。今までありがとう。ごめんね凪沙


 愛玲奈あれなは函館で死にたいと言ったあの夢を見る様な面持ちとは見違えるようだった。静かな決意に満ちた青ざめた顔だった。突然愛玲奈あれなは淑枝に向き直って強い口調になる。表情も岩のように固い。


「ただし条件があります」


「条件? なんやか」


「この家出は全て私一人の意思でしたことです。私の計画を知った凪沙ちゃんはそんな私に同情してお節介にもしつこく付きまとってきただけです」


「なんだって……」


 唖然とする凪沙。淑枝は眉間にしわを寄せる。


「げにそれでえいがかえ。おまさん一人で全部罪を被ろうというがかえ」


 愛玲奈あれなは決意に満ちた表情でゆっくりと頷く。


「あいた朝一番の飛行機を取りましょう。ここじゃあひやい。うちの取ったホテルに一緒に泊まらんか」


「はい」


 静かに頷く愛玲奈あれな


愛玲奈あれな…… なあいいのか愛玲奈あれな。やっと、やっと函館にたどり着いたってのに。わたしを置いていくの?」


「ごめんなさい…… ごめんなさい……」


「こんなことって……」


 愕然としてへたり込む凪沙に愛玲奈あれなは凪沙の手を握って泣きながら謝る。

 鼻をすすりながら愛玲奈あれなは淑枝にお願いした。


「準備に十分ほどください。それと凪沙ちゃんにお別れを言う時間も」


「この吹雪の中外で待っていろ言うがかえ」


「ごめんなさいお願いします。あとは言う通りにしますから」


 淑枝は不承不承外に出た。

 淑枝がいなくなると愛玲奈あれなは力一杯凪沙を抱き締める。凪沙もまた愛玲奈あれなを抱き締めた。


「やめて、行くなんて言うな」


「ごめん、私家族は裏切れなかった。あと村の人も」


「じゃあわたしは裏切れるんだ」


 凪沙の涙声に愛玲奈あれなの身体がぴくりと震えた。


「そんなこと言わないで。愛してる。愛してるの凪沙っ。愛してる愛してる愛してるっ!」


「じゃあここに残ってよっ」


「それはもうできないの。ごめんなさい」


「許さない……」


「えっ」


「わたし絶対許さない。愛玲奈あれなのこと」


「……うん」


「え?」


「私今凪沙に絶対に、一生かけても許されないようなことしてる。だから一生許さないで。でも私は一生愛し続ける。どこの誰と無理矢理結婚させられようとも私凪沙だけをいつまでもいつまでも愛し続ける」


「そんな、ずるいよ……」


 愛玲奈あれなは凪沙の両頬に手を添えると口づけを交わした。長くて熱い別れの口づけだった。そして愛玲奈あれなはたった一言「さよなら、凪沙。ありがとう」とだけ言うと逃げるように二人の愛の巣だった狭くて汚いアパートから逃げ出していった。


◆次回 第16話 生贄(Sacrifice)

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