第16話 身体に残る痕

◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 スマホで兄にメッセージを送る。少し待ったが既読にならない。時刻を確認して、私はため息をついた。

 仕事中、かなあ。

 十時前だ。今日も店は開いているはずなので、開店準備に入っていてもおかしくはない。だが、昨夜の様子からすると今日は店にはいないような気がした。

 さっきの電話、なんだったんだろ。

 なんの目的で電話をかけてきたのかも気になったが、神様さんと何を話していたのかも気になるところだ。朝食をとりつつ彼から私が聞き出そうにも、うまい具合にはぐらかしてくるのでちっとも情報は得られなかった。

 一昨日の深夜に何があったのかも気がかりである。私はスマホで情報収集をすることにした。この周辺で起きた事件がなんなのか、知っておく必要がある。

 検索をしてみると、さっき警察官風の男女が話していた内容が出てきた。事件が起きた場所は駅から私の家までの道のりの途中であり、これで間違いなさそうだ。


「……なになに」


 犯行時刻は日付が変わった零時過ぎ。帰宅途中の男性が何者かに斬りつけられ、犯人は逃走中とのこと。斬りつけられた男性は軽傷で命に別状なし。犯人に面識はないそうだ。

 物騒なのはそうだよねえ。刃物を持ち歩いているんだし。

 私は他の記事も参照しながらふむふむと頷く。その時間、私がそこに居合わせた可能性は高い。なにか見たのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


「斬りつけられた、か」


 仕事で使っていたショルダーバッグに残っていたのは擦り傷だ。おそらく、転倒したかどこかの壁にでもぶつけたかによるもの。切られたわけではない。

 一昨日の夜に着ていた服はなにも考えずに洗濯機に放り込んでしまったので汚れていたかどうかまでは確認しなかった。ただ、破れたり切られたりはしていないはずだ。激しい汚損もなかっただろう。

 あとは。

 なにか見落としはないかと思い返していて、腕に残っていた小さな痕が目に入る。


「……まさか、ね」


 自分の身体に残っていた痕。情事の痕跡もあるのだろうけども、それ以外の怪我もあったのではなかろうか。

 カーテンを少し引いて、私は服を脱ぐ。下着姿になって姿見で肌を確認してみると、痕はほとんど消えていた。残っているのは右肩から右腕にかけて数カ所うっすらとあるくらいで、左側や腹部、肩などはもう綺麗なものだ。

 治るの早いな。若さか。よく寝たし。

 傷が残らないのはありがたいことではあるが、証拠としては今ひとつだ。泥酔していたのは間違いないので、どこかですっ転んだと考えるのが妥当な気がする。この家までは坂道になっている箇所があるので、疲れている上に泥酔していたなら転倒することは十分にあり得た。


「……犯人と遭遇していないならしていないでいいけど、さ」


 スラックスを履いているときに内腿の際どいところに痕が残っているのに気がついて、私はドキッとした。ふんわりと記憶に残っていたらしく、視界にそのときの情景が被さる。


「弓弦ちゃん?」

「ひゃいっ!」


 不意に彼に呼びかけられて、私はスラックスを慌てて腰まで引き上げた。まだ上半身は下着姿なので狼狽えてしまう。

 彼はゆっくり私に近づいてきた。


「身体、痛むのかい?」

「あ、いえ。大丈夫です」


 私は首を横に振って、シャツを探す。ベッドの上に置いていたはずなのにすぐに手に取れない。


「じゃあ、どうして脱いでいたの?」

「痕がどうなってたか気になってしまって。服を着替えたとき、まだ寝ぼけていたからちゃんと見なかったなあって」


 なんで服が見当たらないんだろう。焦っているうちにすぐそばまで彼は迫っている。


「背中のほう、見てあげようか?」

「ああ、いえ。お気になさらず! もう確認できましたから」

「遠慮しなくていいよ?」

「そういう話じゃないですし、自分で確認できたので問題ないんです」

「そっかあ。残念」


 ようやくシャツを掴んで、私はさっと身につけた。これはよくない。


「な、何か用事ですか?」

「本を借りようと思ったんだけど、君が脱いでいたからどうしたんだろうって」

「ああ、本、ですね」


 私の入浴中に読んでいたあの本のことだろう。私が棚に手を伸ばすと、彼は私を背後からふんわりと抱きしめた。


「……神様さん、そうされると動けないんですが」

「君の裸を見たら欲情しちゃった」


 耳元で囁かないでほしい。切実そうな声で言われるとゾクゾクする。

 これはいけない。

 振り解けないのは私も一瞬あの夜を思い出していたからだ。期待してしまった。

 落ち着け、私。


「……そうなるように契約してしまったから仕方がないということにしておきますけど、それ以上はダメですよ」

「もう少し、君の深いところに触れたいよ」


 彼の指先が腹部のほうに滑ってくるので、私は彼の手を捕まえた。


「ダメです」

「どうしたら、いいよって言ってくれるのかな?」

「しばらくは言わないと思いますよ」


 ドキドキする。彼から香る梅の花のような香りが、その距離を意識させる。

 悟らせたらいけない。心を読めるらしい彼にすべてを隠すのは無理だろうけれど、ちゃんと線は引いておかないと。


「ふふ。そういう気分になったら誘ってよ?」

「考えておきます」

「接吻したいな」


 ここでキスをねだられると思わなかった。譲歩のつもりで交渉しているのか、押しきるために提案してきたのかわからない。

 ただ、瞬時に突っぱねることは、今の私にはできなかった。


「……唇以外なら」

「好きだよ、弓弦ちゃん」


 耳元で囁いて、彼は私に首筋に唇を寄せる。ペロリと舌で肌をなぞり、唇をつけた。


「んん……」


 くすぐったさに、思わず声が漏れる。触れるだけで終わらない。


「……僕に堕とされてよ」

「お断りですよ」


 私の肌に触れようとしてくる大きな手を払いのける。


「僕が人間だったら、迷わず選んでくれたかい?」

「どうでしょうかね」

「前の彼氏さんは、許していたんでしょう?」

「今は許しませんよ」

「ふふ。そうだね」


 寂しそうな声色。顔が見えないからどういう心情で彼が告げたのかよくわからない。

 彼の体温が離れていく。


「少し発散できた。――僕に堕とされる気がないなら、油断しないようにね」


 そう囁いて、彼は本を取って部屋を出て行った。

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