魂の羽|ラビの娘

蕾蕾亞拿(レイレイ.アンナ)/KadoKado 角角者

第1章

第1節:異邦人

ホーリー・ツリー・イアラ(H.T.E.)二八四四年、夏。


 太陽が昇るにつれ、空気も少しずつ温かくなっていった。意識が朦朧としている間、プロペラのブンブンという音が耳の周りにまとわりつき、最初は断続的だった音がつながって長い音へ代わり、音自体も更に大きくなった──

 アンナがぼんやりとした目をゆっくり開き、「逆さまになった」展望台のフェンスと空をぼーっと眺めた。夜空を見ながら寝てしまい、キャビンへ戻るのを忘れたまま夜を過ごしたことを思い出したのはしばらく経ってからだった。

 アンナはだるそうに起き上がってフェンスに寄りかかり、毛布をさらにキツく体に巻いた。なにしろ飛空艇のスピードに高い空の空気の冷たさが加わって、日差しが眩しくてもウールマントを身に着けても、冷たい風が骨の髄まで容赦なく伝わってくるのだ。

 飛空艇の進む方向を見渡すと、青空の下には綿菓子のような形をした雲の海の他に、視線の端に天高くそびえる山々の姿がうっすらと見えてきた。あれはジャフェンラージュ大陸の山脈に違いない。目的地まであとわずかだ。

 視線を左側に向けると、一見同じ景色のようだが、目を凝らすと視界の端にシオン大陸の底を窺うことができる。そこから視線を上に向けると、空のキャンバスに枝葉の輪郭が反射した日光でおぼろげに描かれたような景色が見える。それは巨大なホーリー・ツリー『エイブラハム』の神々しい姿の一端なのだ。

 このとき、四十歳を過ぎた一人の中年の男が気球の下から登ってきて、ぶつからないよう注意しながらフェンスを飛び越えてきた。

 目を開けたアンナは「おはよ!」と声をかけた。

 ところが男はアンナに対する表情が険しく、共通言語であるラジ語で遠慮せずにまくしたてた。「よう、クソガキ、元気そうじゃねえか。お前はちょっと登ってみると約束しておきながら一晩中ここに居てやがって。俺が枕で人形を作って船長の目を誤魔化さかったら、誰かが板歩きの刑に処するところだったぜ。やっぱり赤髪の奴は信用できねえんだよ!」

「ごめん!満天の星空を眺めてたらいつの間にか寝てたんだ!お詫びにこのたばこやるからさ、許してよ!」そう言ってアンナはリュックから一つ小さな袋を取り出した。

 男はお詫びの品をすぐ受け取って、笑顔になった。「フン、気が利くじゃねえか。おまえもよく耐えたんだな。普通の人なら一、二時間でカチンコチンになるぜ!」

 そう言った後、男はそばにある箱から、定規や副鏡がたくさん付いた望遠鏡を取り出した。慣れた手つきでレンズの目盛りを調節し、確認すべきターゲットの照準を逐一合わせていった。最後はフェンスそばの伝声管の蓋を開いて、航空技術用語をすらすら喋った。その姿はまるで呪文を詠唱しているようだった。

「ジャフェンラージュ大陸の空域に入ったぞ。あとだいたい一、二時間で空港に到着だ」男はそう言いながら、望遠鏡を箱にしまった。

 展望台を離れる前に男はこちらを向いて、アンナの頭から足まで眺めたあと、訝しげに言った。「お前、下にいるあいつらの仲間じゃないだろ。商人よりは羊飼いに見える上に、貨物船にお前の荷物がねえ。お前みてえな小娘が『シルバーウェア』の貿易祭で何するってんだ?」

「あたしは商人だよ。ただ、売り物があんまり大きくないだけ」一般的に、自分のことを名乗る際に、商人はみんな目玉商品を取り出して自画自賛するものだ。しかし、アンナはにっこり笑うだけで、何も商品を見せなかった。

 男は困惑気味の表情だったが、自分の手元の布の袋を取見て、とりあえず話を了承したようだった。気球から下へ降りる前に男は忠告した。「入港前は甲板で顏を見せとけ。ついでに船倉にあるパンでも食えばいい。でないと、最初から最後まで他の人に見られなかったら、怪しまれるぞ」

 その後しばらく経って、飛空艇は予定通り空港に到着した。海面に降り立つと、キールが綺麗な波を描き、プロペラが船体を曳いて、徐々に浮橋へ寄せた。

 アンナは最後の一切れのパンを食べ、リュックと羊飼いの杖を背負って先の尖った麦わら帽子をかぶり、興奮気味にバウスプリットから、海岸に建造された都市を眺めた──

 それはシルバーウェア王国の入り口──ポポセイ港だ。多数の船着き場とドックを擁し、海上の航路やタワーブリッジも建設され、海岸線全体気球の数は少なくとも十数個に達し、ひっきりなしに上下に飛行している。非常に堅固な城壁には十分な数のレール式弩砲車を収容できるほか、近くの丘と断崖には監視塔や弩砲台も設置されている。壁の後ろには美しい建物が数多く聳え立っている。港の周辺には入国準備をしているキャラバンや旅人で混雑し、貨物が積まれている。このように賑やかと威厳かを併せ持った都市は浮遊世界全体でもそうそう見つからないだろう。

 キャラバンのおじさんとおばさんと一緒に下船した後、一行は船着き場でかなりの時間待っていた。そして、自分達が入国する番になった。隊長が関所から出てきて、メンバーに城門へ移動するよう促した。

 アンナは早速、木の杖と釣り糸を引き上げ、釣った魚をそばにいる子猫にあげた後、小走りでキャラバンの人たちに合流した。

 早くシルバーウェア王国の王都へ到着するため、キャラバンは港都に長く留まることなく、急いで食料を調達した後、直接街を抜けて、別の門を通過し港都を後にした。

 城門の外には荷物運び用の馬車が多く止まり、シンプルな構造の車体には布製のカバーがある。馬車の周辺にいる人たちはいずれも現地の御者や護衛の傭兵であり、ここで自分の雇い主を待っているのだ。

 隊長は約束の隊列を探し、メンバーと荷物と共に、慌てることなく馬車に乗った。

 アンナの荷物が一番少なく、背格好もあまり大きくない。そのため、仲間はアンナにピッタリの場所、貨物と最後尾のドアの間の隙間を確保してくれる。アンナはその席を気にすることなく、途中の風景を眺めるし、不審な動きに気を付けることができるのでこれでいいと思っている。

 キャラバンはが出発の準備中、一人の若者が急いでリーダーの目の前にやってきて書類を一枚見せた後、アンナのいる馬車の前に連れてこられた。

 リーダーは大きくため息をついた、周りの人たちが話を聞いていないのではないかと気にしていたみたいに。「わかりました、騎士様。規定であれば私たちもそれを従うのみです。ですが、ちょうど皆の席が決まってるところで、まだ素晴らしい席があるんですよ。ラッキーなことにこの綺麗なお嬢さんのそばにちょっとスペースが空いているんです。彼女が同意すれば、騎士様は乗車できますよ」

「どうぞ、銀髪の騎士さん」アンナは少し体をずらして、スペースを広めに確保した。

 その騎士は最初少しはにかんでいたが、リーダーが不機嫌なことに気付き、アンナに対して軽く敬礼した後、急いでアンナの隣に座った。

 この若者は銀髪が特徴で、身長はおそらく自分より少しだけ高そうだ。右頬が腫れていて、ボロボロの白いシャツの内側には包帯が見え隠れしている。どうやら体格はがっちりしているほうだが、マッチョという程ではない。懐にはサーベルを携え、鞘と重りにはそれぞれ優雅な金属の彫刻が施され、騎士という身分に相応しいものである。

 彼は水と氷が入った袋で頬を抑えながら、現れては消える道路をじっと見ており、時折にやにやしているが、すぐに口角を元に戻した。他人に機嫌が良いことを悟られたくないようだ。

「騎士さん、大丈夫ですか?」アンナが尋ねた。

 自分を呼ぶ声を聞いて、銀髪の男は反射的にこちらを向き、笑顔のままだった。「だ、大丈夫さ、どうかしたか?」と答えた。

「ふーん。じゃ──」アンナはジャーキーを咥えながら、ニヤリとした表情をした。「何かいいことでもあったんですか?」

 銀髪の男の顔がすぐに赤くなって、支離滅裂にしゃべり出した。「き、君には関係ないだろ!その訛り方、君、異邦人だな?見ず知らずの人間に教える義務などないよ!」

「言いたくないならいいんだけどさ、なんでそんなに動揺しているの。もしかして、あんたも生理なの?」相手のヒステリーを見て、アンナが面白がっていた。

 今回、この見知らぬ国にやってきた理由は、商人ギルドが探している物を見つけるためだ。現在わかっている唯一の手掛かりは、前の所有者がそれをシルバーウェア城で誰かに託したということだ。この依頼を成功させるための最も定番で無難な方法、それは多くの人間と知り合い、彼らを通じてキーパーソンと知り合いになって、その誰かにたどり着くまでこれを続けることだ。ある学者はそのために約六人が必要だと仮説を立てている。

 この可愛い騎士こそ最初の一人になるかもしれない、もっともそれは彼が協力してくれたらの話だが。そのとき、銀髪の男の腹が大きな声を上げた。その声は長く、遠慮のないものだった。

 二人は思わず顔を合わせ、騎士の顏は更に赤くなった。アンナは軽く苦笑しながらジャーキーを一本渡した。「食べる?『シェムオランド』名物だよ!」

 銀髪の男は断ろうとしたが、お腹がまた鳴いたので、最後のプライドを捨てて、ジャーキーを口に入れてあっという間に飲み込んでしまった。それはエサをしばらく食べていない子犬そのものだった。

 アンナは二人の間にジャーキーの入った袋を置きながら、集中力を全て振り絞って、銀髪の男の魂を凝視した。

 他のまだ目覚めていない人間と同様、その魂が曖昧模糊としていて、特定の形がない霧のようだ。色は大抵白だが時折、金色、銀色、薄い青の模様が現れては消えた。違う色同士が混ざらず、グラスの動きと共に揺れている液体のようだった。無意識のうちに、アンナは虫のようなものに気が付いた。赤くて小さく、影の中に隠れていて、それが存在していた場所には血のようなものの痕跡が残っていた──

「聞こえてるか?君の名前は?」銀髪の男が聞いてきた。

 アンナは凝視から目を逸らしながら、男の話を聞いていた。「アンナです。アンと呼んでいいですよ」

「『アン』は馴れ馴れしい気がするから、やはり本名で呼ぼう」銀髪の男はそう言って、城壁を模して彫刻された鞘の紋章を見せた。「俺はウィリアム・S・ホワイトヘア、シルバーウェア王宮騎兵隊に所属している。軍籍はルークだ。君はどこの軍に所属している?」

「あたしは自由商人です。商人ギルドの依頼を引き受けながら、各地を旅しているのです。先ほど受けたばかりの依頼でシルバーウェア城へ向かっているんだけど、このキャラバンと一緒に行動したほうが楽ですしね。そうそう、あなたはなんで急にこのキャラバンに加わったのです?」

「ああ……これは我が王国の騎士の特権だ。移動手段は任意で利用できるんだ。まあ……任務中だけだけどな。」

「任務中なんですか?てっきり、任務が終わったと思いましたよ!」

「城に帰還してから正式に任務終了になるのだ」

「で、どんな任務ですか?なんで、あなた一人で、しかも傷だらけなのです?」

 その話をした途端、ウィリアムの顔色が変わって下に俯いた。魂も薄い赤が見えるようになった。しかし、ウィリアムはすぐに感情を抑えて、軽く嘆いて馬車の車台の奥を見た後に言った。「わかったよ。ここは他に誰もいない、君にしゃべっても大丈夫だろう。でも、この話は他言しないことを約束してくれ」

 アンナはすぐさま自分の唇の前で人差し指を立てた。

「『ミーノス探索ポイント』って知ってるか?」アンナが首を横に振った後、彼は話を続けた。「あそこは王国の国境に位置する峡谷だけど、数十年前から、近くに棲息している魔獣があそこへ移動している姿が見られるようになったんだ。それから、渓谷の奥地でホーリー・ツリーの樹根がむき出しになっていて、魔獣がエサのようにそれを食べていることが判明した。そして帝国は、樹根が断裂して『ハムプア大陸』みたく墜落しないように、そこに研究所を建設して、魔獣がホーリー・ツリーの根を食べる原因の調査と樹根の被害拡大の防止を図ったんだ」

 この話を聞いてもまだ解せなかった。「そんな谷ならシェムオランド大陸だってありますよ。今は、学者と傭兵の遊びの場になってさ」

「わかってる。秘密にしてほしいのは俺個人のことだ」そう話すと、ウィリアムは馬車に二人しかいないことをもう一度確認してから言った。

「数日前、俺は王宮調査団の護衛任務に加わって、学者を探索ポイントまで送り届けた。その帰り、俺たちは魔獣数体に遭遇したんだ。苦戦はしたが俺は何とか一体を仕留めることができて、『魔獣の水晶』をくすねた……」話し終えると、口の右側を開いて、アンナに臼歯のない歯茎を見せた。

 それでもアンナはまだ釈然としなかった。ウィリアムは大げさだとさえ思った。「これが、秘密にすることですか?商人ギルドの傭兵も皆くすねてるし、王国の戦士だってそういう人少なくないでしょ」

「まだわからないか?俺は王宮の騎士として、王国から派遣されて任務に参加している。任務中に発見した水晶は全て献上しなければいけない。違反したらただでは済まないんだぞ!」

 アンナはようやく分かってきた。「だから、あんたは逃げてきたんですね?だけど、このままシルバーウェア城に戻って大丈夫ですか?」

「ああ、逃げてきたよ……」ウィリアムは恥ずかし気な表情で自分のサーベルの鞘を撫でた。「当時、戦況が激しく、隊員が戦場ではぐれることなど珍しくなかった。だから、自分の戦闘中にはぐれて負傷したとだけいえば、上官もとやかく言わないさ」

「なるほど、道理でそんなに嬉しそうなんですね」残り二本のジャーキーをアンナが一本をウィリアムへあげて、もう一本を自分の口に入れた後、「大丈夫ですよ。誰にも言わないから。この美味しいジャーキーで誓って約束してあげます!」

 アンナにとって、この件は別に珍しいことではない。力だけが正義の世界では日常茶飯事だ。アンナは道徳によって判断することはしない。もしくは、彼女から見れば人の行いは何でもありだが、その中に必ずしも意味があるかとは限らないだけ。

 港都から王都までは大体六、七時間かかるんだが、アンナにとってやや短い寄りだ。とはいえ、ウィリアムから話を聞くだけなら、長すぎる時間である。

 アンナがウトウトしだしたとき、馬車が突然止まり、二人と荷物が左右に揺れた。ウィリアムはすぐに態勢を立て直し、しゃがみながら臨戦態勢をとり、サーベルをいつでも抜刀できるように構えた。

「どうしたの?」アンナはそう言いながら、体が座り込んだ姿勢のまま、馬車三両先の距離まで自身の霊気を拡張し、近くの魂の感情状態を感知しようとした。

「わからない。おそらく盗賊だ。貿易祭の時期なら珍しくない。大丈夫さ、俺が君を守る」ウィリアムは用心深く幌の外に顔を出して、馬車隊前方の状況を確認した。

 アンナは多分盗賊ではないと思った。なぜなら、感知した感情の大半は興奮たからだ。それはハンターが獲物を発見したときの気持ちと非常によく似ている。

 そのとき、馬車の御者がこちらへやってきた。馬車の状況を知らせるためだろう。ウィリアムはすぐに彼を止めて、何が起きたかを尋ねた。

 御者はウィリアムのサーベルを見て、軽薄な口調で言ってきた。「騎士様、一匹の魔獣が前方の洞窟に入ったと傭兵たちが言ってたから、みんな追いかけてるぜ。ここはどうか大目に見て、みんなの楽しみを邪魔しないよう知らんふりしてくれませんかね?それとも、あんたも加わるなら、商人たちは喜んで『果実』を買い取りますね」そう言った後、彼は後方にいる馬車に行った。

 その話を聞いて、アンナは内心悪寒が走った。本来の予定では夜になる前に王都に到着するはずだった。そうやって店が閉まる前にほとんどのことを片付けようと思っていたのだが、こいつらが馬車から離れて総出で魔獣を狩るとは、この調子ならいつ王都に到着できるだろう?

「魔獣を見たことあるか?一緒に見に行かないか?」ウィリアムはワクワクしながら聞いてきた。その目はキラキラしているみたいだ。

 アンナは白目をむいた──そうだった、こいつも流血が好きな奴だ。

「嫌です。ツギハギだらけのぬいぐるみなんて誰が見たいですよ?もう寝ます。おやすみ~」そう言うと、麦わら帽子で明かりを消した。

 ところが、この銀髪男は予想外に情熱を発揮して、アンナの手を引っ張りながら言った。「行こう行こう、寝るならまだ時間があるじゃないか!今回、どんな感じの魔獣が出るのが気にならないか?それに、俺たちが力を合わせたら、すぐ解決するかもさ!」

 アンナは帽子のつばを上げて片目でウィリアムを睨んだ。彼の言う「俺たち」に本当は自分が含まれているわけではないことを知っている。この男はただ得たばかりの力を試したいに過ぎない。だが……ウィリアムの言うとおりだ。一緒に行けば、確実にすぐ片付くだろう。

 そこで、アンナは気が進まないもののこの提案を受け入れることにした。麦わら帽子をかぶって木の杖を携え、ウィリアムと共に御者が言った洞窟へ向かった。

 二人が早々洞窟入口に着くと、そこには商人たちが群がっていた。漆黒の深淵を眺める者もいれば、水晶の相場について熱く語っている者もいた。彼らの話から、傭兵たちが先ほど対魔獣用のクロスボウと長槍を携えて洞窟の中へ入ったことがわかった。

 ある商人がウィリアムに対して、「兄ちゃん、怪我してるじぇねえか、馬車に戻って休みな、あとは傭兵たちが片付ける。終わった後、俺が果実を買い取ったらお前さんにも触らせていいぜ?」他の商人がそれを聞いて、不快な笑い声をあげた。

 アンナはたちまちウィリアムの心の波動を感じた。彼が努力して表情を変えないようとしていることも知った。

「アハハ、面白いこと言うなぁ。俺が魔獣を仕留めたら、素材を割引きでお前に売ってやらないでもないぞ」ウィリアムはそう言いながら、両手をポケットに入れたまま暗闇へ向かって去っていった。

 突如、アンナはやっと洞窟内の気配を感じ取った。正確に言えばその人たちが中から走ってきた時、彼女の霊気に接触した。アンナが感じたのは、恐怖でも臆病でもなかった。それは狼狽えと似ていた動悸、自分がやらかしたかと思うような気持ちだった。

「待って!」そう言うと、ウィリアムの足元から強力な衝撃によってひっくり返された岩が彼をアンナのそばに飛ばした。

 魔獣は大きな首を曲げ、頭を下に向けた。その口からは蛇の舌を出し、目の前の生物たちを見て瞬いた後、地面の穴から巨大な熊の掌を出して、邪魔な岩を粉砕した。大きな口を開けながら、かすれた羊の鳴き声を上げた──



 ウィリアムはサーベルを抜いてアンナの前に立ち、後ろにいる商人たちに言った。「視線をそらさず。ゆっくり、後退、し、ろ……」

 非戦闘員たちは叫び声をあげながら馬車へ逃げていった。魔獣がすぐ彼らを追いかけ、武器を持っている者は眼中にないようだった。

 ウィリアムは魔獣の体の一部が穴から出ていないことに気が付き、すぐに武器を構え、憤怒の力を凝縮して両腕の霊魂の血気を噴出させ、そして一太刀であの太い尻尾を両断した。魔獣の体と尻尾は皮一枚で繋がっていた。

 驚きの羊の鳴き声が外側から聞こえてきた。洞窟内の銀髪男も思わず大声を上げた。「見たか?これが水晶の力だ!すげぇな、えっ――」アンナはウィリアムの襟首をつかんで、自分の体重を利用して彼と自分を地面に投げ付け、鞭のような尻尾をぎりぎり躱した。

「勝利の美酒はまだ先でしょ。早くやっつけてよ。あたしは怖いですよ!」

「少しも怖がっているように聞こえないけどな!」

 二人が口論中、傭兵たちがようやく洞窟の奥から戻ってきて、洞窟に戻った魔獣とばったり会った。

 双方はそのまま決闘の第二ラウンドを始めた。長槍とクロスボウを使う人間と牙や熊の掌を持つ魔獣がぶつかり合い、両方が相手を闇雲に攻撃したが決定打にはならなかった。まるで武器を持った野獣が有利な体格を持つ野獣に対抗しているようだった。

 二人はどさくさ紛れに岩の後ろに身を隠したが、戦場からの距離が近すぎ、大蛇の動きに警戒しながら、見えない場所から飛んでくる矢も注意する必要があった。

「早く何とかしてよ!あなた、魔獣を倒したことがあるんでしょ?」

「こんなに大きい個体は倒したことがない。それに、傭兵たちは正確な射撃ができないから近づくと撃たれちまう……」

 アンナは少し考えた後、提案した。「私があいつを一、二秒惹きつけて、その間にあなたがあいつの喉を掻っ切るのはどうです?」

 それを聞いたウィリアムは最初その案に難色を示していたが、思わずどうするんだと聞いてしまった。

 アンナはリュックの中から鶏卵サイズの玉を二個取り出して言った。「『花火玉』、ジャフェンラージュ大陸にも多分あるでしょ?あたしがこれに火をつけると、魔獣と傭兵たちはあたしに気を取られるから、その時あなたは自由に動けるはずですよ。できますよね?」

 ウィリアムは息を吸った後、目線を花火玉からアンナの目に移した。「よし、だったらこうしよう。あいつが君に向かってくる前に俺が倒そう。君も無理することはない、やばくなったらすぐ花火玉を捨てるんだ、いいな?」

 アンナは頷いて作戦に乗った。実際、彼女はウィリアムの魂の波動をずっと見ていた。彼は自分の能力不足からの恐怖と自責の波動を見せたが、仲間が自ら囮役を引き受けたとき、その心からは他者を守りたいという使命感が漲っていた。これにはアンナも道理で以前に高貴な模様が見えたわけだと納得した。

 アンナはロープで花火玉数個をつなげて木の杖に吊り、岩の向こうにいるウィリアムとアイコンタクトを交わした後、マッチで導火線に火をつけ、交戦中の双方から見える場所へ移動した。

 導火線が燃え尽きると、爆発音と眩しい光が洞窟内で勢いよく炸裂し、そのまま魔獣と傭兵たちの注意を引き付けた。一個につき爆発音が五、六回響くと次の玉を爆発させた。アンナは木の杖を左右に揺らすと、花火が空中でゆらゆら動いて、魔獣の頭もそれに合わせてゆらゆら動いた──

 ウィリアムは大蛇に向かって突進し、手に持つ白刃で暗黒を切り裂くと、厚いうろこが両断され、けたたましい声が響き渡った。剣の柄を引っ張ったとき、刀身がわずかしか残っていなかった。

 魔獣は悲鳴を上げ、頭部を素早くすぐそばの下手人に向けた。傭兵たちは魔獣の注意が完全にウィリアムに向かったことに気付き、全員が吼えて突進して、密集した長槍を大蛇に向けてヤマアラシのように一斉に刺した。大蛇は痛みでさらに悲鳴を上げ、熊の掌で傭兵たちを一掃した。

 アンナも魔獣に向けて、木の杖を頭の後ろで横にしながら持って、進路をふさいでいるウィリアムに大声で言った「どいて!」

 ウィリアムはアンナに気圧されていたが、迅速に反応して膝まずかせて、アンナが木の杖で肉に刺さった折れたサーベルの刀身に当てて、完全に魔獣の喉に突き刺した。

 魔獣の体が突然硬直し、大きな目と口が獰猛に開いたまま、重い巨体が地面に倒れた。そしてもがくこともなく、事切れた。

 ウィリアムと傭兵たち、そして洞窟の外で様子をうかがっている商人たちもみんな驚き、唖然とした。アンナはこの人たちが何を考えているか知っていたから、早々に「脚本」を書きあげ、それに合わせて演技すればよかったのだ。

 アンナはウィリアムを抱きながら嬉しくて飛び跳ねそうに見えた。。「あの一太刀がすごく良いでした!そのおかげであたしが軽く叩くだけで魔獣の喉を切ることができました。あんたならできると思いましたよ!」

 周りの人たちはそれを聞いて次々頷きながら納得していた。中にはウィリアムの肩を叩き、アンナの頭を撫でて功績を讃える者もいた。そして、拍手や口笛を始めて、魔獣討伐の成功をみんなで祝った。

 だが、ウィリアムは明らかに不満げだ。魔獣の背中の傷を見て、そして近くにある壁に刺さったかすかに光っている壊れたサーベルを見た。ウィリアムはアンナをじっと見つめて、恨めしそうに尋ねた。「君、俺をからかってるのか?なんだその怪力は、水晶を何個取り込んだんだ?」

 アンナは手をほどいて、ニタニタした笑みを浮かべた。「なんでそうなるわけ?水晶なんて取り込んだことありませんけど。喜びなよ、これはあなたの太刀筋のおかげさ」

 そのとき、二人の後ろからまた高らかな歓声が聞こえてきた。どうやら魔獣の水晶をおっさんたちが見つけたらしい――赤い塊の中に黒が混ざった、木の葉の形をした結晶体だった。魔獣の死体が溶け始め、赤黒い液体が流れだし、肉塊と骨格が本来の位置から離れて、大きな気味の悪い汚水の溜りへ変化した。

 傭兵たちはこの水晶は皆の功績だと思ったから、商人たちが提示した価格を参戦した人数分で分配すべきと言った。但し、アンナは自分はただ花火を使っただけだから、報酬を分けるなら自分の分はウィリアムにあげようと言っていた。ウィリアムはへそを曲げだし、報酬の分配に応じることなく、最後は振り返ることなく馬車へ戻っていった。傭兵たちと商人たちは申し訳なく思って、アンナに二本の酒をあげた。

 馬車隊が再び出発した。その後、ウィリアムはまたアンナに水晶を取り込んだかと詰問し、答えを聞いた後は会話が続かなかった。アンナは特に気にせず、元々目的地まで寝るつもりだったから、今は一本の酒を飲んで、ぐっすり寝ることができると思った。

 黄金色の夕焼けが山の稜線を照らすと、ついにシルバーウェアの城壁が視線の先に見えてきた。

 この世界で名を馳せる繁栄の都市は、早くから銀の採掘で富を得て、また大陸間を往来する重要な路線上に位置するため、それらを活かして重要な貿易都市へと発展を遂げた。このように百年以上運営を続けたゆえに、今のシルバーウェアは商業都市として重要な役割を果たし、「金貨の駅」の美名を誇っている。

 キャラバンがゆっくり前進すると、道沿いで待機している人や馬車が集まってきて、車台から眺めてみると、入城の準備しているキャラバンが海岸の砂のように集まってきて、城門まで流れ込んでいた。流石は遠くでもその名が知れている取引制限のない月――「銅の月」である。それはまるで人を自宅に誘ったらドアが詰まるようなものである。

 馬車を降りるのを待っていた二人は待ちきれずに飛び降りて下車し、前の馬車のリーダーを探した。ウィリアムはリーダーに別れを告げ、アンナは残金を支払った後、共に城門へ向かった。

「なんでついてくるんだよ?俺は騎士だから並ぶ必要がないのだ」

「誰がついてくのです?あたしは商人ギルドの客人ですよ。並ばせるなんてありえないのです!」

 二人が人の壁を再三突破していると、遂に城門下の関所にやってきた。門番はウィリアムのサーベルを見ると、すぐにそばの便門を通した。アンナも一枚の書類を提示して、門番が確認すると、彼女も便門を通した。

 ウィリアムはこれが奇妙だと思った。わざわざ門の向こうでアンナを待っていた。「それ、どこの商人ギルドの通行手形だ?」

「クルップル商人ギルド、聞いたことありますか?」アンナは簡単な記号が書かれた一枚の紙きれを取り出した後、人の顔と建物の間に雑に描かれた本部の絵を見つけようとした。

「全浮遊世界で最大の商閥を聞いたことないほうがおかしいだろう」ウィリアムは紙に書かれた内容をちらっと見て、次に正面の街道を指さしながら言った。「その商人ギルドに行くんだろ?この通りをジョージ・ジェイソン大通りまでまっすぐ進み、左に曲がって少し進むと商人ギルドの看板が見えてくるぞ」

 地元人のガイドは異邦人の船員と比べてとてもわかりやすかった!二人は賑やかな広場で別れを告げた。当然かもしれないが、ウィリアムはあの報酬の酒を受け取らなかった。

 アンナはウィリアムの指示に従ってすぐにクルップル商人ギルドを見つけることができた。このとき、空の色は半分ほど黒くなっていた。応接員が門を閉めようとしたそのとき、ぎりぎり足を滑り込ませて中に入った後、書類をドアの隙間に挟めこんだ。「『デオ』に会わせて!」

 書類を見せると、すぐロビー、ホール、レストランを通され、最後は薄暗い倉庫に案内されたとき、泣き顔の仮面をしている人間にばったり会った。

「ミスター・デオ、彼女が来ました」

「デオ」とは肩書のニックネームだ。彼らは悲しい表情の仮面をかぶり、各大型拠点で特殊任務の受託者の応対を担当し、受託者の状態の確認に加え、最新情報提供などの支援を行っている。ある意味では、彼らが任務を依頼する長官である。

 この「ミスター・デオ」は背が高くやせ型で少し猫背であり、タキシードとシルクハットを身に付けていた。「なんて悲しい運命なんでしょう。私はなんであなたのために六分も待ってしまうとは?ああ──アマンダよ──」強く力を込めて両手を振った。

「この灼眼の者はこのようにいともたやすく私たちの愛を袖にして、私たちの誓い、私の薔薇、私のユリを阻もうとする、運命はなんて残酷なんでしょう……」仮面の男は天井を眺め、木の桶を踏みながら、手の甲を額に当てていた。

 応接員はアンナと一緒に気休め程度の拍手をしていた。

「まったく、時間を守らない小娘ですねぇ」ミスター・デオは普通の立ち姿勢に戻って、両手を後ろに置いた。「我々には無駄な時間はありません。早く手続きを済ませましょう。重要案件が他にもあるのでね」

 仮面の男はアンナを倉庫の奥へ連れ、ワインセラーに入った。中には綺麗に整理された酒棚の他に、巨大な酒樽が横たわっていた。その内にある一樽の下側に何らかの操作をした後、樽の蓋が扉のように左右に開いた。

 中から酒が漏れるということはなく、中にはテーブル1台と椅子2脚が向かい合い、テーブルにはオイルランプと山積みの本が置いてあった。

 ミスター・デオはアンナを椅子に座らせ、一冊の本のページをめくりながら内容確認と同時に尋ねた。「あなた、目立つような真似はしていませんね?」

「してませんよ」

 仮面の男はわずかに顔を上げた。アンナが嘘をついていないか観察しているようだった。「あなたのラビ‧デボラが少し早く来ましたよ。どうやら『彼ら』の注意を惹きつけることに成功したようです。次は各都市を移動して、自分がキーパーソンだと思い込ませるようです。あなたがもっと早く『遺物』を入手すれば、あなたのラビはおとりを演じる期間は短くなる、わかりますか?」

「わかっています」

「現在、誰かと接触しましたか?」

「若い兵士が一人、でも彼は何も知らなかったです」

 ミスター・デオは本を数ページめくった。「三十年前、遺物の所有者も兵士と接触しています。『ロイ』という名の剣豪でしたが、間接的に重大な衝突事件を引き起こしたことから、王国の民は『選択者事件』と呼んでいます。その若者から手を付ければ、政府、軍部の人間と接触して、何か手がかりを見つけるかもしれませんよ」

「最後に忠告しておきますが、くれぐれも目立つ真似をしないこと。あなたと商人ギルドの関係が疑われないよう、臨機応変に対応してください。但し、状況が不味い場合はすぐ撤収してください。さもないと、あなたのラビの努力が無駄になりますよ。わかりますね?」

 アンナは強く頷いた。

 ミスター・デオは本を閉じ、「泊まる場所は見つかりましたか?」と聞いてきた。

「まだですよ。この王都に来てすぐあなたに会いに来ましたから」

「まあ──可哀想な子猫ちゃん!のろまですね。今はどのホテルも満室でしょうねぇ。でもラッキーですよ、二つ先の通りに公園がありますよ。草むらが気持ちいですし、どぶ水もあるから体だって洗えますよ。それではおやすみなさい!」その口調を聞いて、仮面の下に隠したムカつく表情が想像できた。

 アンナはリュックからウィリアムが受け取らなかった酒をミスター・デオにプレゼントした。醸造の年数をチェックした後、鼻息を荒げながら、笑って言った。「十五年ものの美しい花、控えめながら内に秘めたる誇りは消えない、可愛いじゃないですか」

 そう言い終えると、地面のスイッチを踏み、樽の向こうの蓋が開くと同時に、アンナの椅子が傾き、彼女を中から出された。

 アンナは干し草の塊に突っ込み、何とか頭を出した。周りをよく見ると、広々とした木の柵に囲まれ、そばには水が満タンの水槽がある。壁越しから馬が自分を見ていた──

 ミスター・デオは布の袋を一つ投げて、明るい声で言った。「当商人ギルドの五つ星馬小屋へようこそ!干し草も水も使い放題。食事は特別にご用意しますよ。今は門限が過ぎていますから、他のお客様のご迷惑にならないようにしてください。チェックアウトは明日の黎明です。それでは、ごゆっくりお休みください」そう言い終えると、木の蓋はすぐに閉まった。

 これなら少なくとも野宿に必要はない。食べて飲めて、ほのかな香りがする干し草の「デラックスベッド」があればもう十分だ!

 アンナは簡単に体と髪を洗った後、一番動きやすい服に着替えて、気持ちよさそうに天窓の下で横たわった。商人ギルドがくれた食料をたいらげて、残りの酒を飲みながら、星空観察を楽しんだ。

 ラビは今どこにいるのだろうか?お腹がすいていないだろうか?眠れる場所はどうなのだろう?忘れずに薬を飲んでるだろうか?

 それを考えていると、目がうるっとした。アンナは最後の一口を飲み、空瓶を空に向けて掲げて、自分の魂に誓った。「マイチの約束」は必ず見つけ出す、と。神の祝福あれ、と。

「シャロム(Shalom)!」



▍ホーリー・ツリー「エイブラハム」▍シオン大陸中央にそびえ立つ巨木であり、その高さは一万七千メートルを超え、直径は約五千メートルに及ぶ。九百年前に原因不明の浮力によって、その根に触れた地は天空へ浮かんだ。その樹脂からは高性能な燃料の製造が可能で、浮遊文明で最も貴重な資源である。

▍銅の月▍一年に一度に一か月間開催される貿易祭。この期間は、入国制限が緩和され、国外の商人ギルドや旅人が入国して、国内で商業活動に従事する。例えば、バザー、貨物取引が行われ、果ては期間限定のバイトなどまで従事し、大量の資金が国内へ集まる。中には、「この時シルバーウェアに集まるシルバーウェアの富を全て貨幣に換算してしまえば、国全体が埋もれてしまっても問題がない」という者さえいる。

▍シャロム(Shalom)▍サゼラック人が使う祝福の言葉であり、「平安」っを意味する。相手があらゆる面で神――アドナイ――の加護が得られることを祈ること。

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