22 新生

 温奈はいつの間にか眠ってしまったのだ。ずっとその扉をじっと見つめたかったのに、夏朦の代わりに子犬を見てやりたかったのに、彼女の瞼はまるで死体に縛り付けた巨大な石のように、落ちていくことに抗えなかった。


 彼女は目を開かなかった。開くこともできなかった。落ちたのは瞼だけにあらず、彼女自身も落ちていった。彼女は岩礁に激しくぶつかる波の音が聞こえて、激しい風が傍から上に向かって吹いているのを感じた。風と波の音が混ざり合って、鼓膜が割れそうなぐらいにうるさかった。その時に彼女は自分が崖から落ちたことに気付いて、誰にも助けることのできない速度で、墨のように濃い紺色の海へと落ちていった。


 心臓はまるで彼女が落下した瞬間に空中に置いてかれたようだ。心臓が見つからない虚しさは、彼女の恐怖すらかき消した。残されたのは足場を失ったせいで引き起こされた全身の蟻走感だけだ。皮膚が風に一枚ずつ削がれてき、空に舞い散っていた。髪が彼女の頬を叩いていて、手を伸ばしてどかしたいぐらいに痛かった。だが手を上げようとした途端に、彼女の体に何個もの石が巻き付かれていることに気付き、一番重い石は彼女の胸を圧迫していて、まるで巨人の拳のように彼女を海へと叩き落したのだ。


 海面と接触した瞬間、波は待ちきれないように彼女をバラバラにして飲み込んだ。海水が鼻と耳の中に入り、彼女は息継ぎをしようとしたら逆に大きく一口で塩水を飲み込んでしまった。体は岩礁にぶつかることはなく、絶えずに前へと流れる波に流されることもなく、ただ重石に下へと引きずり込まれていった。さっきの墜落と違って、今度はゆっくりと沈んでいった。周りは静寂で、彼女はやっと海の底は静かな場所だと気付いた。そこには彼女が想像した魑魅魍魎はいない。彼女一人しかいなくて、まるで彼女が生まれた時から彼女のために用意した墓のようだ。


 頭はどんどん回らなくなった。青い海水を飲み過ぎて、自分も人間という身分から脱却したようだ。

 では人間じゃなくなった彼女は、何になったのだ?


 目を開いていないのに、優しい光が体を照らしているのを感じた。その光源は海流に沿って彼女のほうに向かってきた。彼女は自分が縮んでいることを感じ、一匹の小さな深海魚になっていた。目が退化したが、本能的に光の位置を探知できて、力一杯で尻尾を振って光のほうへと泳いでいく。彼女はその光が救済をもたらしてくれることを知っている。特に理由はないが、とにかく知っている。


 彼女はゆっくりと目を開いて、慣れ親しんだ香りが空気に混じっていて、彼女を優しく包んだ。それは彼女の匂いで、彼女の大好きな人の匂いでもある。やはり夏朦は彼女の目の前にいる。まだ乾いていない髪から水玉一つが落ちて、彼女の服に落ちた。香りの付いた水玉はまるで汗臭い服を浄化するように、間もなくまた一粒が落ちた。


「奈奈、こんなところで寝てないで、早く風呂に入って」夏朦は優しく催促した。


 温奈は恍惚の中でその滑らかな肌とうるうるとした瞳を見つめた。彼女の光はとっくにここで彼女を待っていたのだ。彼女を深海魚に変えた者も彼女の女神だ。ただ人間の姿とその忌々しい枷を外すことで、彼女は本当に意味で女神の懐に飛び込める。


 彼女は手を伸ばして夏朦に触れようとしたが、すぐに自分の指先に付いている血の跡に気付いて、手を引っ込めた。


「うん、ちょっと待っててね。風呂に入った後、髪乾かすから」

「外で待つね、小黄シャオホアンと一緒に待つから」

「小黄?」

 ダンボールの中にいる台湾犬の子犬を見て、そのありふれた至極普通な名前に思わず笑った。

「なんで笑うの?奈奈。小黄っていいじゃないか?ねぇ、小黄」

 夏朦の頬には淡いピンクが浮かんで、ちょっと甘えるように言った。さらに笑い声に起こされた子犬に同意を求めた。


 もしもう風呂に入ったら、温奈は手を伸ばして夏朦の頭を撫でているのだろう。もし彼女たちは恋人同士であれば、彼女はきっとこの可愛い人を抱きしめ、可愛い言葉を発したその唇を軽くついばむのはず。


 彼女はこっそり自分の手をつねって、自分がちゃんと現実にいることを確認してから、微笑みながら頷いて「はい」と言った。そして彼女は起き上がって、風呂に入るため、着替えの服を取りに部屋に戻った。


 浴室の中で、温奈はほぼ皮膚とくっつきそうなシャツを脱いで、振り向いて鏡の中の自分を見た。髪はべたりと頭皮に着いていて、顔にいつの間にか着いた汚れがあった。その姿はとても情けなく見える。死体を捨ててきた姿というより、危うく捨てられそうになった死体の顔だった。


 しかし、彼女の瞳に光が宿っていて、幸せそうで満足そうに見える。子供を埋めたあの日に彼女は鏡を見る勇気がなかった。鏡に映る自分の姿が、理性を失った『人外』の化け物になっていることが怖かった。だが彼女は今、鏡の中の自分が嫌いじゃない。


 彼女と夏朦は、人としてあの踏み越えるべきではない境界線を踏み越えた。彼女の女神は彼女に新しい世界を見せてくれた。彼女は自分も人間の皮を脱ぐことができ、心の声に従って命を救えることを知った。。今なら、彼女はまた憧れの女神に少し近付いたような気がした。


 最後の衣服を脱いで、丁度いい温度のお湯が彼女の体に降り注いだ。皮膚を隅々まで洗浄し、お湯が汗、汚れ、血の跡を連れ去った。


 まるで生き返ったように、彼女は急に高らかに歌いたくなった。運命の女神が書き換えられない楽曲を歌い出したい。全身の細胞はお湯でリラックスして、彼女は二人共用のシャンプとボディソープで身を清めた。自分の体にも彼女たちに属する匂いを付けた。


 清潔な服を着て浴室の扉を開けて、温奈は夏朦がうつ伏せで子犬に向けてしゃべっている姿が見えた。時々小声で笑い、子犬も小さく鳴いて答えた。本当に楽しそうにしているようで、彼女は救われたように感じた。今回、彼女たちはついに子犬を救い出すことに成功した。前回のように、運命の女神に黒い子猫を連れ去られるのを、ただ見ているのではない。


 温奈は真剣にこの子犬を飼うのかどうか考えていた。彼女はどっちでも構わないが、最終的な決定権は夏朦にある。夏朦が飼うと言えば、小黄は彼女たちの新しい家族になる。飼わないと言えば、子犬のために新しい飼い主を探す。


 どの選択をしても、子犬が幸せになってほしい。そして彼女も子犬が幸せになれると信じている、夏朦の祝福のいつもよく効くからだ。


「早く髪を乾かそう。あとで小黄を獣医のところに連れてくから」温奈は夏朦を自分の部屋に呼び込んだ。


 夏朦は大人しく温奈の部屋に入った。机の前に座り、温奈に髪を乾かしてもらった。温奈は夏朦の髪を乾かすのが好きだ。でもこれは夏朦にとって比較的に親しい行為だ。なにせ夏おばさんの生前もこうして夏朦の髪を乾かして梳かしていた。だから彼女が自らドライヤーを取っても、よく夏朦に遠回しに断られた。


 子犬が怪我をして、早く治療を受ける必要がなければ、彼女は一番遅い速度で髪の毛の一本ずつ乾かすだろう。そして、じっくり櫛で滝のようにさらさらな髪を梳かして、枝毛一本も見つからないように、すべての髪を真っすぐにしたい。


 長時間夏朦の髪に触るのは至上な幸福である。女神の一番敬虔な信者として、女神におめかしできるのは貴重のご褒美であり、そのすべての行動に感激と喜びに満ちていた。


 夏朦の髪を乾かして梳かし終えたら、ワンピースしか着ていない夏朦の体に、自分のシャツを着させた。自分の髪を半分ぐらい乾かしてから出かけるつもりだったが、その時に夏朦は起き上がってドライヤーを受け取って、彼女の肩を軽く押して椅子に座らせた。


 夏朦に時間が惜しいて言おうとした時、温かい風と指が彼女の髪に触れて、彼女は断るのを諦めた。一瞬で指が彼女の髪の隙間にすりぬく感触に浸っていた。それはすごく気持ちがいい。まるで猫が顎を撫でられた時、思わず目を細めてゴロゴロと喉を鳴らすように気持ちいい。ドライヤーが止まった時、その指が離れるのを惜しんだ。


「奈奈もそろそろまた髪染めないとね」夏朦が彼女の髪を梳かしながら言った。

「そうだね、時間があったら行くよ」

「また同じ色に染めるの?」

「うん、ずっとこの色にしてるから、慣れたし」

「すべての色の中でやはりこの茶色が一番奈奈に似合っている」


 夏朦はついでに彼女にポニーテールを結んだ。ゆるく結んで髪が重さで垂れることはなく、かといって不快を感じるほどきつく結ぶこともなく、なんていい具合に結んだ。なんて優しいんだ。彼女は振り向いて夏朦を見て、自分がかつて色んな髪色を試したことを、夏朦が今でも覚えていることに少し驚いた。でも夏朦はその言葉が温奈の心の中に波紋を起こしたことに気付いていなくて、コードが束ねられたドライヤーを彼女に渡してから、部屋から出た。

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