19 反抗

 温奈は携帯を自分の耳に当てた。高い気温のせいで電化製品が手で持てないくらい熱くなって、耳も焼かれそうだから、彼女は我慢できずに皮膚と携帯の距離を離した。


「もしもし?朦?何か買うのか?」

 携帯の向こうから声が聞こえなかった。携帯を離しすぎたのかと思って、夏朦の声をよく聞くために、携帯と耳の距離を少し詰めた。

「もしもし?」

 彼女は画面を一目見て、まだ通話中ということを確認してから再び声を出して呼んだ。

「奈奈……」


 絶望に近い感情に満ちた声が聞こえて、彼女はびっくりした。電話に出たまま道路を越えてハマーの所まで駆け抜けながら「どうしたの?なにがあったのか?」と聞いた。

 その無力の声に聞き覚えがあった、つい最近に聞いたから。何か嫌な予感しかしなかった。一体なにがあったのか?

「もしもし!朦!まだいるの?今どこにいる?何があったの?」

 車の窓に近付いて見ると、中に誰もいなかったことに気付いたから、彼女は焦って電話に向かって叫び、左右を見渡して夏朦の姿を見つけようとした。

「近くの小さい公園に……」


 小さい公園?


 暫く見渡して、やっと車を止めた場所から遠くないところに夏朦が言っていた「小さい公園」を発見した。それは公園というより、ただ木々に囲まれた空き地に過ぎない。何々公園と表示した表示板もないし、ベンチすら設置していない。公園に駆け込んだが夏朦の姿が見えなかった。代わりに仰向けで倒れている一人の若者が見えた。その傍には空の酒瓶が落ちていた。


「夏……!」


 最初の一文字を呼んだ後、すぐにある木の後ろから白い衣服の一部が微かに見えていた。温奈は急いでその木に向かって走っていた。その後ろを覗くと、やはりしゃがんでいる夏朦が見えた。


「なんでこんなところにいるの?びっくりしたよ」

 夏朦の肩に手を乗せると、夏朦が怯えて震えているのに気付いた。

「死んだ……」

「なに?」

「死んだ」

「誰が死んだの?」突拍子のない言葉の意味が分からず、彼女は慌てて聞いた。


 夏朦は顔を上げ、その顔には涙の痕がいっぱいだった。怯え切った表情を見て温奈は心を痛んだ。夏朦を落ち着かせて経緯を聞き出そうとしたその時、小さい生き物が夏朦の懐から出てきたのを見た。驚いた温奈はその少し汚れた土色の子犬を見ていた。子犬は弱々しい声で鳴いて、その片目は怪我で閉じているようだった。


「その子犬、怪我をしているの?」彼女は心配そうに聞いた。

 子犬は明らかにまだ生きているから、『死んだ』のは子犬じゃない。子犬じゃないし、もちろん夏朦でもない、では誰が死んだか?


 手を伸ばして子犬を抱こうとした時、温奈は夏朦のスカートに鮮やかな赤が見えた。彼女はびっくりして夏朦を立たせた。夏朦はまだ震えていて、その白いロングスカートには何枚もの鮮血で書いた花が咲いていた。大量の血の跡は見るに堪えなかった。


「どこか怪我をしたの?早く病院に行こう!」温奈は自分が早く血の跡を気付かなかったことに後悔し、無理矢理立たせたことで傷口を広げるのではないかと恐れた。

 だが夏朦は彼女に向かって首を振って、震えながら空き地のほうを指さした。さっき見かけた若者はまだ倒れたままで起きていない。


 暑い天気のせいで息ができないのか、あるいは目の前の事実が彼女から酸素を奪ったのか。細めた瞳は地面からの光に惹かれて、俯いてそれを見ると、血まみれのナイフ一本が夏朦の足元に落ちていることに気付いた。反射した太陽光が目に染みて、頭が痛くて裂けそうだった。


 血の跡を見て、彼女はてっきり夏朦が怪我をしたと勘違いしたのは、思考停止した脳がその異常な血の量に気付かなかったからだ。それにさっきは慌てて夏朦を探そうとしたから、若者の様子に気付かなかった。隣に落ちている酒瓶を見て酔いつぶれただけと思った。夏朦に怪我がないことを確認してから、彼女は夏朦にそのまま動かないように言って、戦々恐々として若者のほうに近づいた。


 その若者は黒い服を着ているが、よく見ると胸元に濃い色の水跡が見える。それは汗ではなく、血だ。体の下の土に吸われていない血は緩やかに外へと広げていく。彼女はびっくりして後退った。そして、信じられないように急に振り向いて遠くに立っている夏朦を見た。その無力な表情を見て、温奈は自分から若者の息を確かめに行った。


 実のところは確認するまでもなく、胸元の傷だけを見ても、もう助からないのがわかる。汗がどんどん額から落ちて、温奈は首を振って、虚ろな足取りで夏朦の傍に戻った。


「説明して、何があったの?」


 温奈の頭が混乱していた。彼女もまさかこんな短時間でまた死体を見ることになるとは思いもしなかった。いや、生きているうちにまた死体を見るとは、その恐ろしい事実が彼女を押しつぶそうとした。夏朦がやったの?夏朦が殺したの?彼女は自分の最愛の人がわざとでないと信じたい。それでも思わず重い口調で聞いた。


「ごめんなさい……その人が子犬を乱暴に公園に連れていったのを見かけて、手にはナイフも持っていたから、怖いけど子犬を見逃してほしいと頼んだ。話を聞き入れてくれない上、子犬の足を引っ張って、子犬の目を殴って怪我させて、それから私のほうに襲ってきて……」あの時の光景を思い出すと、夏朦の涙はさらに流れて「私はあがいて、手が丁度そのナイフに触れて……」


 その若者が夏朦と子犬にしようとしたことを考えると、温奈は一瞬で夏朦を許した。同時にムカついてそのナイフで若者を何回も刺したくなった。


 高温な熱波が怒りを沸騰させ、彼女の体内で激しく泡立ち、熱気が一気に頭に登った。何者であれ、彼女の女神に危害を加えることは許さない。例え相手を殺しても構わない。


 彼女は間に合わなかったことに悔やんだ。また夏朦に一人で苦しみを背負わせたことに後悔した。あの若者は死ぬべき人間だとしても、殺すのは彼女であるべきだった。あの若者はもう死んだから、今彼女が夏朦に出来ることは一つしかない。


 心の痛んだ温奈は夏朦の顔についた髪をずらして、ポケットからハンカチを取り出して涙の跡を拭いた。彼女は慎重に夏朦を懐に抱いて、その小さい身体の震えを感じた。


 幸い、夏朦は無事だ。夏朦が無事ならそれでいいんだ。


 まだやるべきことがあると思い出して、温奈は深く考えずに、夏朦に木の後ろに戻るようにと言った。付近に他の人がいるのかを慎重に確認してから、小走りでハマーに戻ってエンジンを起動した。車を小さい公園の傍に移動して、ハマーが少し木々の中に隠れるようにした。すべてを隠すことはできないが、少なくとも目立たなくはなる。


 この観光客すら寄らない町には防犯意識がまるでなっていない。コンビニが窃盗防止のために監視カメラを設置していることを除いて、他の場所には多分監視カメラが一台もないだろう。

 温奈は自分が飲み物を買う映像だけが記録されると確信し、それ以外の行動は目立った痕跡を残さないはず。ここはまったく人気がなく、古い家の中に人が住んでいるのかさえ怪しい。彼女はこういう田舎こそ気を付けないといけないと思う。ここで犯罪が起きても誰も気が付かないのだ、今のように。


 彼女は死体をそのまま残すことも考えたが、人が少ないとはいえ、何れはニュースに取り上げられるだろう。彼女は時間を稼がなければならない。発見が遅ければ、警察が掴める手がかりも少なくなる。だから彼女は死体を何処かに捨てると決めた。


 温奈は夏朦にしばらく子犬を車に置くように言った。夏朦に死体を触らせたくないが、彼女一人の力ではこの若者を動かせない。いくらトランクに台車を置いてあるとはいえ、死体を台車に乗せるのにも二人で協力して、それからトランクに入れる必要がある。


「朦、怖いのはわかるけど、手を貸してくれる?」


 彼女は夏朦の背中を撫でて優しい声で聞いた。夏朦が頷くのを見て、死体の足を持ち上げるよう指示した。夏朦の力は小さいから、主に温奈が力を出していた。重い死体が曲がり、尻が何度も地面に着いた。彼女は歯を食いしばって両腕で死体の肩を思いっきり持ち上げて、やっと死体を台車に乗せた。


 台車のサイズは成人に比べると明らかに小さいため、彼女はなるべく死体の膝を曲がらせるようにしてサイズを縮ませた。そして、夏朦と協力して死体をハマーの傍まで運んで、二人で慌てて死体をトランクに押し込んだ。


 夏朦を先に助手席に戻らせて、温奈は木の下に戻って、血まみれのナイフを拾った。濃い色の土の中に染み込んだ血を除去する術はないが、幸いここの芝生は長い間誰も除草していないから、ぎりぎり犯行の痕跡を隠せる。


 この小さい公園がこのまま荒廃するようにっと、彼女は心の中で願った。地面に落ちている空の酒瓶も一緒に持っていって、そのまま振り返らずに車まで走った。


 車の扉を閉めて冷房を最大にして、冷たい風で彼女達の汗を乾かせて、オーバーヒートした頭も冷やせた。温奈の頭はまだジンジンしているが、一回目の経験があるからか、今度はもっと冷静に対処できた。死体を運ぶ同時に既に心の中で死体を遺棄するプランを立てた。車内には汗と血の匂いが混ざっていて、彼女は子犬を抱き着いている夏朦を見て、夏朦の手にはさっき彼女が渡したハンカチがあった。


 涙がすでに止まり、夏朦は優しく懐に抱いている子犬に見つめていて、血の付いた手で子犬の毛を撫でていた。少し微笑んで、顔にこの上なく可愛いえくぼを見せた。彼女が見たことのある明るい色が再び夏朦に戻っていた。


 背負った罪が女神を人間にさらに近づけた。咲いた血の花は戦場で命を救った勲章である。恐怖が消えて、夏朦は顔を上げて彼女に笑顔を向けた。


「私は反抗に成功したのかしら?私たちが運命の女神の楽譜を書き換えたのね」


 その笑顔には感染力があって、あっさり彼女の中に残った僅かな罪悪感を掻き切った。彼女は頷いて、夏朦の言葉に対して肯定の意を示した。


 そうだ。彼女の女神は人間の悪意に対抗するために降臨したのだ。最も清らかな心とその両手で、一つ、また一つの罪なき命を救った。彼女は知らなかった、善と悪は共存できるものだということを。善行のために行われる悪行は、悪事であろうと、彼女は自分を顧みずに最後まで女神に付き従うのだろう。

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