04 月見

 純白を基調とした店内は清潔さが保たれているが、温奈が毎日労を惜しまずに掃除をしているおかげだ。彼女は潔癖症というわけではない。ただ、夏朦によく似ている白が埃で汚れたことを望んでいないだけだ。


 夏朦は今、店の入口で空を眺めている。薄い体には昼間に着させた薄いジャケットが羽織られていただけだった。温奈は雑巾を干した後、二階に上がり、自分の部屋からブランケットを持ってきた。ガラス扉を開けると、白い姿の夏朦に歩み寄って、ブランケットで夏朦の体をしっかり包んだ。


 春が訪れたが、夜風はまだ寒かった。


 夏朦の両手は震えていなかったが、その冷たさに温奈は驚いたので、あとで日本酒を温めようと決めた。自分のことを顧みないこの人の体を温め、彼女の人間らしい体温を取り戻したいと思った。


「ありがとう」

「先に入って、室内からでも見えるから。お魚を焼いたから、熱いうちに食べてね」

「今日は焼き魚なのね」

「嫌い?」

「好き」


 温奈は笑いながら好きならよかったと言いつつ、冷たい手を引いて店内に連れ込んだ。外の月は確かに普段より大きく見えて、白く明るい光のせいでその表面の黒い影がひと際目立った。


 温奈が熱々の日本酒を運んでいると、夏朦は予想通り驚き喜んだ。温奈はそのままグラス缶で直接飲み、夏朦の分は特別に徳利に入れて、そばには小さな可愛い盃を用意した。


「お酒なんて久しぶりね」夏朦は温奈にお酒を注いでもらって、盃に無色透明の液体でいっぱいになる様子を見ていた。

「たまたま一回飲んでいいと思うよ。普段の労をねぎらうのに飲むのも悪くないね。夏朦もずっと植物たちの世話で大変だったし」


 夏朦は何も言わず微かに微笑んだ。その笑みは非常に微かで、一瞬で消えた。


 大小違うグラス缶と盃が軽くぶつかりあってから、日本酒が二人のお腹に入り、すぐさま夏朦の顏に淡いピンク色が浮かんだ。夏朦は普段化粧をしていないので、白くて綺麗な顔にはこの時だけ違う色が見えた。


 夏朦は箸で魚肉を取って口の中に入れ、窓の枠に収まった月を眺めてからは、二口目を口にすることがなかった。温奈は催促することなく一人で夕食を食べて、静かに月見をしていた夏朦をただ見ていた。


 焼き魚の皮の塩加減がちょうどよく、肉質も繊細なのだが、今は向かいに座っている人を惹きつけることができない。その目はまるで月に惑わされ、瞬き以外全て忘れたみたい。


 涙が滑り落ち、夏朦の体がさらに薄くなっているように見えた。その涙はいつもわずかに残る夏朦の色を洗い流し、透明な悲しみを彼女の体に住まわせる。


 以前、夏朦になぜ月を見たら泣くのと聞いたことがあった。夏朦は自分もよくわからないと答えて、「恐らく、月が太陽と共に夜空を見れないからだ。片方が起きていると、もう片方が寝てしまう」と補足した。


 その話を初めて聞いたとき、温奈はなぜ夏朦がいつも自然の変化を悲しんでいるのか理解できなかった。後になって温奈はようやく理解することができた。夏朦が抱いている感情は、九割が透明な憂愁と悲しみである。理由などない。これは、彼女の生来の特殊な性質なのだ。


 温奈は面倒に感じて逃げたのではなく、むしろ惹かれたのだ。夏朦の繊細さが温奈の保護欲をかきたてた。彼女がほんの少しでも傷を負わせたくないから、外の世界から守ろうと思っている。 


 箸を置いた温奈はそばに置いてあったスケッチブックと色鉛筆を手に取り、起き上がって夏朦のそばに座った。夏朦は振り向くことなく、体を温奈に寄せた。昼間とは違って、今は大半の重さを彼女にゆだねるのだ。


 温奈はずるかった。夏朦が一番弱っているときに自分に頼らせるように動いた。夏朦が一番透明になって消えてしまいそうなとき、人間らしい重さで夏朦が自分のそばにいることを確認した。


 夏朦がいつか人間の悲しみに耐えきれず、消えることを選ぶのではないか、温奈はいつも心配していた。月の泣き声はとても静かで、四六時中そばにいないと聞き逃してしまいそうなほどだ。


 薄緑色の色鉛筆を取り出して、白い紙に記憶の中にある緑色の葉の輪郭を描き、この動きで夏朦の気を惹きつけることに成功した。彼女の涙はまだ流しているが、瞳に映る月が消えて、代わりに形になりつつある月桂樹が映し出された。


 手先を器用に動かして、鉢植えの枝葉に命を吹き込んだ。最初は元気がなかったのに彼女の両手でピンと張って活気を帯びるようになり、濃さの違う緑がリアルな影を描いた。



 温奈は描いた月桂樹の絵をちぎって、自分の腕を枕にしている夏朦に渡した。服は涙で濡れていた。温奈はハンカチの代替品になることを気にもしなかった。夏朦の涙をぬぐうことができれば、何でもするのだ。


「奈奈っていつもすごいわね。細かいところまではっきり覚えているなんて」夏朦は絵をみながら小さな声で言った。

「記憶力は私の唯一の取柄なのかも」

 温奈は誰のために夏朦と関連すること全部を一生懸命記憶しているとは言わなかった。

「奈奈に取柄はいっぱいあるわ。料理にお掃除もできるし、頼りがいがあって明るいし、私とは違う」

「夏朦の取柄だっていっぱいあるよ。植物の世話の他に、植物が必要なものを知っているし、優しいし、繊細だし、明るくなくていいよ。私があなたに微笑みを分けてあげるから」

「サンドイッチみたく、一人半分?」

「あなたも半分食べなきゃダメだよ」温奈がクスッと笑った。

「うん、努力するわ」

「もう食べないのか?冷たくなるから温めてあげる」


 温奈はちょうど焼き魚の皿を持ったとき、夏朦が呼ぶ声で動きを止めた。


「奈奈」

「ん?」

 少し酔った声がさらに甘くなった。この声を聞くと、星を掴めてって言われても思わず応えてしまいそうになる。

「また一緒に桜のお花見しない?桜が開花しそうなの」

「もちろん、去年みたく一緒に外へお花見ピクニックに行こうか」

「血桜、今年も白かしら」

「去年は白だったけど、今年も白い花が咲くんじゃないかな」

「そっか」


 温奈は夏朦が何を考えているか大体知っていた。血桜がなぜ血桜と呼ばれるか、その問題の答えだ。

 雪のように綺麗なのに、『血』という不吉な字が与えられた。夏朦は気になってそばにいた常連客に聞いた。常連客はこの桜の木を植えた人が名づけたと話した。


 それは品種ではなく、その木の名前だ。


 残念なことに血桜は既に樹齢百年以上の老木であり、昔血桜を植えた人はもうこの世を去っていた。その物語は語り継がれることなく、血桜だけが残り、毎年白い花びらを咲かせていた。


 名前が不吉な雰囲気を帯びていて、縁起が悪いゆえ、誰もその周りで花見をしない。それを気にしていない彼女たちには、絶好の花見スポットだ。


 血桜は二人の店から遠くない。車で三十分程度に着く丘にある。去年に何回も花見に行った。血桜のおかげで、春にたくさんの美しい思い出を作ることができた。だがそこに行ったら、夏朦はまたさめざめと涙を流すだろう。


 多分自分が血桜の花見に行ったらまた我慢できずに涙を流すと知っているから、夏朦はわざと甘えるように温奈に問いかけた。温奈は彼女の涙が嫌いではないが、夏朦は常に罪悪感を覚え、自分の泣き虫な性格は温奈に面倒をかけたと思っている。


「桜の開花が遅れて、長生きしてほしいわ」夏朦は満月を眺めながらそう言った。まるで月に願い事をするように。


夏朦の願いが叶いますように。


温奈は心の中で願った。彼女も柔らかな月の光を凝視し、密かに願った。

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