02 開店

 夏朦は手に持ったジョウロを置いて、キッチンで手についた汚れを洗ってから席に着き、温奈と顔を合わせた。温奈は微笑みながら夏朦がコーヒーを一口飲んでから、細い指でハムサンドを持って小さく口にする様子を見ていた。


 夏朦は小食で、ほとんど植物と一緒で日光と空気と水さえあれば生きていけそうだ。ただ、温奈が作った料理なら、夏朦はちゃんと食べる。全部食べきれない可能性があっても、彼女は食べる努力をしてみる。温奈の手料理に含まれる食材を自分の体の養分にすべく、努力をするのだ。


 夏朦は植物の面倒を見て、温奈は夏朦の面倒を見ている。だが、夏朦がこの店にいてくれるだけで、温奈の活力の源になる。


「今日、植物たちは元気?」

「元気。でもトゥーミーだけは病気らしくて、最近元気がないの」


 夏朦が心配して振り向いた。温奈はそれがどの鉢植えの植物かわからなかった。でも多分夏朦がさきほど一番時間をかけて面倒を見ていた、地面に置いた大きな鉢植えの植物だと察しがついた。緑の葉しか生えていなくて、それは彼女たちが最近、近くのリサイクル工場から車で運んできた植物のことだった。


「植物医師のところ行く?」

 花市場には植物医師がいる。他の人なら花市場で花を買うが、二人は植物を連れて植物医師の診察を受けるのだ。といっても、多大な労力をかけて鉢植えを運ぶ必要はなく、写真と状況説明だけで、植物医師は原因を凡そ診断することができる。しかし、夏朦は、何か細かい箇所が抜けないように、鉢植えごと連れていくことが習慣になっていた。

「休みの日に診てもらうわ。ごめん、鉢植えが大きいから運ぶの手伝って欲しいの」夏朦は申し訳なさそうな顔で言った。

「大丈夫よ。そんなに重たくないし。それと、小さな台車も使えるからね」


 温奈は、弱々しく小柄な夏朦より少なくとも15cm高い。高身長ゆえ、子供の頃におとこおんな呼ばわりされ、今でもお客さんから時折、高身長を揶揄われることがある。しかし、どんなに笑われても平気で、彼女は気にすることがなかった。自分の高身長で夏朦を助けることができて逆に嬉しかった。


 むしろ、夏朦の前でカッコいい姿を見せたかった。おとこおんなのニックネームも彼女にとってはむしろ賞賛だった。


「ゆっくり食べてて。先に準備するから」


 夏朦はハムサンドを食べながら頷いた。一口一口は小さかったが、頬の薄い肌が少し頬張っていた。でも、頬張った顔は栗を食べるリスみたいで可愛かった。


 二人は二年前からこの店を一緒に運営してきた。温奈は料理と経理を、夏朦は飲み物、フロントと植物の世話を担当し、経営は普通に軌道に乗っていた。温奈は赤字経営を心配する必要がなかった。なぜなら、この二階建ての建物は亡くなった両親が彼女に残した遺産だからだ。卒業前には既に夏朦と、卒業後に二人で朝食屋をやると約束したのだ。


奈奈ナイナイ、食べてくれる」夏朦はハムサンド半分だけ残して温奈の前に持ってきた。どうやら荼蘼のことが影響して、体調不良になったようだ。


 温奈に頼み事するときだけ、夏朦は彼女のことを奈奈というニックネームで呼んでいる。夏朦も甘えるだけ引き受けてくれることを知っている。


 温奈は両手を拭いて、残りのハムサンドを二口で食べることにした。夏朦は目を細めて微笑みながら「ありがとう」と言った。


 あまりに可愛くて夏朦の頭を撫でたくなったが、そのアイデアを思いつくのが遅すぎたから、夏朦はもうキッチンを離れて、ガラス扉に行く前に、プレートをひっくり返して「Open」を表にしていた。


 いつものように、遠くからスーツ姿のおじさんが近づいてきて、ガラス扉を開いた。おじさんは外の温かい空気と共に中へ入ってきた。


「おはようございます。今日も時間ぴったりですね」温奈は爽やかに鳩おじさんへ挨拶した。彼の姿を目にしたときには既にフライパンの予熱を始め、後で大根もちを焼く準備をして、豆乳も冷蔵庫から取り出した。


「おはよう、今日も仕事行きたくないよ!でも、ここで朝ご飯を食べると会社に行く気力が沸いてくるんだよ、ハハッ!朦朦モンモンも朝ご飯は食べるんだよ!奈奈の料理は本当においしいね。いっぱい食べると肉付きが良くなるよ」と鳩おじさんはそう言っていつもの席に座った。彼は開店当初からいつも朝一番に来る常連客であり、ここ一年間ずっとそうでして、現在も続いている。


 温奈と夏朦は、喋りだすと鳩のように止まらなくなるから密かに彼のことを鳩おじさんと呼んでいた。でも、このおせっかいな性格は嫌いではなく、隣のおじさんのような親切感があった。


「二人ともニュース見たか?最近、子供の失踪事件が多発していて、今も犯人が捕まっていないんだ。君たちも気を付けろよ」夏朦は豆乳と大根もちを鳩おじさんの席に運んだ時、彼はまた世間話を始めた。


「私たち、もう子供じゃないですよ」夏朦が微笑みながら答えた。


「犯人が君を見たら思わず誘拐するかもしれないぞ!とにかく、二人とも気を付けるんだ。今、この社会は昔よりも危ないんだ……あ、ありがとう。この香り……そして、この味、一日の始まりは奈奈の大根もちを食べないと元気が出ないんだよ!」


 鳩おじさんは三口で大根もちを平らげ、顔を上げて残りの豆乳を飲み干すと、すぐ会計を済ませて、鳩のように慌ただしく店を出ていった。


「鳩おじさん、やっぱり忙しいのね」夏朦はテーブルの空の皿とグラスを片付けて、彼の去っていく姿を見ながら言った。

「これでいいかもね。いつも忙しいって言っているでしょ?やることが多かったら退屈しないもの」

「じゃ、鳩おじさんは定年後、一人暮らしだから寂しくなるのかしら」


 鳩おじさんの奥さんは十年以上前に病気で亡くしているから、それ以来はずっと一人暮らしだった。


 夏朦は辛そうな顔をしていた。共感力が強すぎていつも、ネガティブなループに嵌まってしまうのだ。温奈はキッチンから出て、片手でグラスと皿を取りながら、もう片方の手で夏朦の頭を撫でた。


「ううん、その時彼も私たちのお店で朝ご飯を食べにくるんだから、寂しくないと思うよ。定年後も他の仕事に従事できるわけだし。見回り隊の参加を勧めてもいいかもね、きっと興味あるよ」


 今日、夏朦は温奈がプレゼントした香水を使っていなかったので、髪からほのかな香りだけが漂っていた。二人とも刺激の強い人工香料が苦手で、天然成分配合のシャンプーやボディソープを普段使用し、洗剤も各メーカーの中性の一番肌に優しいものを使用しているから、体からは鼻につく強い香りがしなかった。


 だが温奈がいつもフローラル系の香水を夏朦にプレゼントしている。もちろん二人に合った淡い香りのものを選んでいる。温奈は香りでその透明な姿を濃くして、軽くて飛んでしまいそうな足で地につけたいのだ。


 夏朦も彼女が望む通り、たまに香水を親指と人差し指の間にある虎口につけている。時にはラベンダー、時にはレモングラス、時にはクチナシ。温奈は夏朦の体から漂う花の香りを嗅ぐのが好きだ。それは彼女を安心させる。


 夏朦は頷いて返事したが、顔からは既に微笑みが消え、両目は悲しみに包まれていた。植物の方へふわりと体の向きを変えて、ジョウロを持って鉢植えに水をやり続けた。


 温奈の手のひらにはまだ髪の毛を触った感覚が残っていた。ぼんやりと自分の手のひらを見つめ、声もなくため息をついて、空いたグラスと皿を持ってキッチンで洗った。

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