第35話 王都



 エルナが街にたどり着くと、そこはまるで見知らぬ場所のように思えた。

 美しく立ち並ぶ建物は燃え上がり、人々は怯え、子どもを抱えて必死に大通りを駆け抜ける。なんとか兵士たちの誘導でエルナはフェリオルのもとへたどり着いたが、そこはまるで地獄のような光景だった。フェリオルは怒声のような声を張り上げ、小さな体で必死に兵士に向かって指図している。


「フェリオル! 状況はどうなってるの!」

「エルナ、来てくれたのか!」


 綺麗な金の髪と頬を煤だらけにしてフェリオルはエルナの姿を見て喜色を浮かべた。が、すぐさま顔をひきしめた。


「良くない。どこもかしこも火の手が上がっているのに、具体的な発火場所がわからない」

「そんな……」

「それにわからないどころか、そもそも燃えるわけがない場所まで燃え上がっている。今は魔術師が総出で鎮火に当たっているけれど、おかしいんだ。普通の火なら消えるはずなのに、魔術ではまったく消えない」

「……これは、通常の炎じゃないから」

「え? それはどういう……」


 街はごうごうと燃え上がり、こうしてフェリオルと会話している間にもほとんど煤となった近くの家の屋根がゆっくりと落ち、地面で砕ける。弾け飛ぶ火の粉と襲いくる熱風にエルナたちは自身の顔を腕でかばう。


「フェリオル様、お下がりください!」

「あ、ああ……」


 兵士に庇われながらフェリオルはふらつきながら落ちた屋根から距離をあけた。

 またもや、どこかから悲鳴が響いた。目と耳を覆いたくなるほどの惨状だった。煙が空へと吸い込まれ、本来なら青いはずの空の色すらも灰色に埋め尽くし始めている。


「……雨が、降るわけがないな」


 ふと空を見上げてフェリオルは呟いたが、自身でもありえない可能性だとわかっているのか、すぐさま自嘲的に小さく首を横に振る。ウィズレイン王国は極端なほどに雨が少ない国だ。精霊の力を借りることでなんとか日々を生きているに過ぎない。


「そうだ、なら精霊術師は? 精霊術なら、このおかしな火を消すことができるはず」

「少しならいるけど、普段城に駐在している精霊術師は、まだヴィドラスト山から帰っていない……」


 それこそカイルがウィズレイン王国にやってきた発端である。ヴィドラスト山は多くの精霊が住むため、足を踏み入れた人間を惑わせる。調査のためには貴重な精霊術師を派遣するしかなかった。


「僕たち騎士団が今できていることといえば、広場へと市民を誘導するくらいだ……。あそこには、精霊術で作った噴水があるから。しかしそれもまだ、すべての住民を避難させるには時間も、人手も足りない……くそっ! 兄上から帝国の動きがおかしいと知らされていたというのに!」


 がつりとフェリオルは自身の腿を何度も強く拳で叩いた。


「僕は、結局何も……」


 瞳をつむり、苦しげに声を吐き出す。仕方がない、と慰めの言葉は言えなかった。

 いくらアルバルル帝国を警戒していようとも、街を燃やすという強硬な手段に出ると誰が予想できるだろう。ただそんなことを告げたところで少年の中に虚しさが募るだけだ。

 王都を混乱に貶めると同時に、進軍を開始する。あまりにも卑劣な行為に吐き気がした。

 同時に、エルナは悲しくそっと目を伏せる。

 遠く、どこからか鬨の声が響き、はっと顔を上げた。クロスが軍を率いて今まさに出陣したのだろう。


(クロスは、やっぱり知っていたのね……)


 フェリオルに助言を行ったということは、事前になんらかの情報を掴んでいたはずだ。

 そうでないのならば、こうまで速やかに迎え撃つ準備を行うことができない。


(クロスを責めたいわけじゃない)


 なぜならエルナには知るべき資格がない。フェリオルのように王族という責任を持つことなく、なんの立場もない。

 手のひらに爪が突き刺さり、血がにじむほどにエルナは拳を握りしめた。

 そのとき、エルナは一つの決意を行った。


「フェリオル様!」

「どうかしたのか」


 動きづらい鎧を脱ぎ捨てた一人の兵士が、手の中に何かを抱え髪を火の粉で燃やしながらフェリオルの前に駆けつける。


「鎮火活動の最中、奇妙な物体を発見しました! なんらかの手がかりになればと……」

 それは手のひら大の立方体だった。箱のようであり、いくつかの小さな四角が複雑に組み合わされ、継ぎ目こそあるもののどうやって作られたのか判別がつかない。


「こんなもの、見たことがないぞ……」

古代遺物アーティファクト……」

「え?」

「ごめんなさい、ちょっと貸してくれる?」


 返事を待つや否や、エルナは兵士の手からひょいと立方体を持ち上げ、上下左右から確認する。エルナの青い瞳が、さらに深みを増したのはごくわずかな時間だった。魔力の痕跡を確認したのだ。


「間違いない。古代遺物の一種だと思う。発火装置ね。魔力のパスがうまく繋がっていないから、たまたま失敗作が交じっていたというところかも」


「待て、これが失敗作ということなら、今燃えているものはなんだ。それに先程、この炎は魔術ではない、と言っていたのは……」


「古代遺物は魔力で作動するから魔術とはまったくの別物とまでは言えないわ。でも似ているというだけで、中の仕組みは全然違う。だから魔術では古代遺物が作り上げた炎に対抗できない。炎と水という相性の枠に組み入れられないの。自然に近い、精霊術の水なら鎮火できるだろうけど……」


 通常の魔術でできた炎ならば、火竜の生まれ変わりであるエルナが無理やりにでも組み伏せることができたはずだ。だから城門で上がった炎を完全に消しきれなかった際に、魔術で作られた炎でないことにエルナは即座に気がついた。


 ――最近、街で見ない顔をよく見かけるから警備のためにってさらに調子に乗っていて。

 以前にカカミが話していたことだ。


「古代遺物は一つじゃない。燃えている炎のその下すべてにこの古代遺物が埋まっている」


 吐き出したエルナの言葉は奇妙なほどにしんとしていた。フェリオル、そして兵士がぞっとするように目を見開きエルナを凝視し、そして街の惨状を振り返る。

 どこまでも、どこまでも。炎が、街を覆い尽くし始めている。


「……これ一つの魔力の総量は、大して多くない。だからこそ、たくさんの数が街の至る所に設置されているはず」


 そして、設置した者はすでに逃亡しているだろう。

 見つけたところで、本人たちにもどこに置いたかすらわからなくなるほどの数のはずだ。

 いっそのこと、古代遺物が魔術とまったくの別物であるのならそちらの方がよかった。燃え上がる炎にも若干の魔力が滲んでいるからこそ、近寄らねばどこにあるのかエルナですらも把握ができない。


「……どうすればいい」


 ぽつりと呟かれたフェリオルの声は、決して誰かに答えを尋ねたものではないのだろう。ただわけのわからない現状に、声を上げる以外の行動をすることができなかっただけだ。

 けれど、その言葉はエルナの中で大きく膨れ上がった。焦げるような熱風の中で額に汗がにじむほどだというのに、奇妙なほどに体が冷たく、指先が凍えた。


(どうする、どうしたらいい。効率が悪くても一つひとつ、古代遺物を確認していく?)


 すべての炎を消し去ることができずとも、わずかずつならば。

 ごう、と大きな風が吹いた。

 エルナのアプリコットの髪と服が、うねるように熱い風の中で泳ぐ。さらに炎が街を巻き込み、まるで長い舌を持つように、ゆっくりと街を舐め、咀嚼する。

 握りすぎた拳から、ぽたりと血の雫がこぼれた。

 わからない。


(どうすればいいのか、わからない……)


 自身を信じてくれたはずのクロスの背中が、ひどく遠い。


「ああ、俺たちの、街が……!」

「なんで、こんな、なんで……」


 エルナたちは絶望の渦の中にいた。すでに人々は逃げる気力すらも失い、泣き崩れ街の終焉を嘆いている。


「エルナルフィア様……」


 そのとき、誰かがぽつりと声を上げた。


「エルナルフィア様なら」


 フェリオルは青い顔のまま、さっとエルナに視線を向けたが、それ以上は何も言わない。


「生まれ変わりがいらっしゃると言っていたじゃないか。なのに所詮は噂だったのか……」

「そんなわけないわ! どこにいらっしゃるの、エルナルフィア様!」


 助けてくれ、と人々が嘆く声が聞こえる。エルナはそのすべてを体に受けた。……こぼれたものは静かな涙だ。どれほどまでに望まれても、自身は何もできない。火竜の力を受けつぐエルナは魔術の炎ならばいくらでも屈服できようとも、水の力だけは持つことはできなかった。


 もし。もしだ。エルナが竜のままであったのなら、その大きな体で人々を空へと逃がすことができただろう。しかし今のエルナはただの少女だ。人としての生を望み、喜び、そしてまた絶望する。


 なぜ――こうも理不尽なのだろう。

 愛しいと、守りたいと。

 そう願ったものを、この小さな手のひらでは何も掴むことができない。


「え、エルナ……」


 ただ前を向いたまま嗚咽もなく涙をこぼし続けるエルナを見て、フェリオルが気遣わしげな声を出したが、エルナにはどう返答していいのかすらもわからなかった。

 ただ、涙をぬぐった。嘆くことはいつでもできる。


「フェリオル、少しずつになってしまうけれど、私が火を消していくから――」

「誰か、娘を助けてぇ!」


 そのとき、悲痛な女の叫び声が響いた。服も顔を煤だらけにした女が、フェリオルの隣に立つ兵士に目を向け、よたよたとすがりつくように泣き、とうとう動かなくなった足のかわりに喉ばかりを振り絞る。


「兵士さま、兵士さまぁ! どうか、どうかうちの娘を! ついさっきまで一緒にいたのに! いつの間にか腕の中からいなくなってしまったんです……!」

「なっ……! どこだ、すぐに救助に……」


 あの家です、と震えながらさされた指の先を見て、誰もが諦めたように視線を落とした。

 すでに炎が家のすべてを包み、崩れていないのがおかしなほどだ。無理だと言うように兵士が小さく首を横に振ると、ああ、と女は泣き崩れた。そのときには、エルナの体は動いていた。


「少女が一人、火の中に飛び込んだぞ……!」


 次々に聞こえる静止の声や、悲鳴。そのすべてを飛び越え、エルナは炎に焼かれた扉を走り抜けた。ひと一人の命だ。見ぬふりなどできるわけがない。娘を助けてくれと泣き叫んでいた母は、ついさっきまで一緒にいたと叫び、直前まで幼い子どもを抱えていたかのようなそぶりをしていた。それなら、入り口の近くにいるはず。

 間に合う、とエルナは自身に言い聞かせた。そうでなければいけない。幼い命が失われるなど、あってはいけない。




「誰か、いるの!? いるなら返事をして!」


 自分でも無茶なことを叫んでいるとわかっている。建物の中は炎であぶられ、息をするだけでも喉が焼かれる。そんな中で、ましてや幼い少女が声を出すことの方が無理に決まっている。

 それでも必死に声を上げずにはいられなかった。


「誰か……げほっ」


 あまりの苦しさに幾度も咳を繰り返し、取り出したハンカチで口元を押さえる。反対の手で炎を消しつつ進んだが、遅々とした動きに自身でも苛立ちが募った。めらめらと踊る炎の中を慎重に足を踏み出していると、ふと、奇妙な気持ちになった。


 エルナにとって、いや、火竜であったエルナルフィアにとって炎は身近なものであったはずだ。たとえ生まれ変わったのだとしても、それだけは変わらない。なのに今このときだけは炎が恐ろしく感じる。まるで水の中にいるようで、思う通りに体が動かない。とぷとぷと、炎が揺れた。いや、エルナの視界が揺れている。とぷり、とぷり。


 水の中を、エルナは歩いていた。

 ゆっくり、ゆっくりと重たい抵抗の中で両手をかき抱くように進む。

 どこかで、覚えのある感覚だった。一体これはなんだろうと考えても、すんぐりとした空虚で重い思考が堂々巡りを繰り返す。知っている。知っているはずなのに、わからない。

 ……わからない?


 ――星々が、瞬いていた。落ちてくるのか、それとも登っていくのか。上も下もわからなくなるくらいに、壊れた屋根からは一面の星空が覗いている。握りしめられた手のひら。大きな背中。金の髪と、瞳の青年が握りしめていたものは赤い宝石を埋め込まれた、一本の古めかしい剣だ。


(あのとき、教会で。私は水の中に、過去の記憶を見た……)


 同じだ、と思った。司祭に化けた醜悪な存在は、エルナに救いようのない過去を次々に見せた。人々の誰もが涙を流し家に帰りたいと叫び、偽の竜を作り上げるためにただ魔力を吸い取られていた。


 その中にはエルナの母の姿もあった。もう骨となってしまった、愛しい人。

 助けたい。そう願うのに、いくら嘆いても、苦しくても、エルナの手は過去に届くことはない。

 記憶の中では幼い子どもが母を想って泣いていた。お家に、帰して。


「……なんで!」


 なぜ、そんなことが起きるのか。許されるのか。記憶の水の被膜が弾け飛び、エルナの眼前は炎にまみれていた。あぶられる度に乾く涙を次々と流し、「どうして!」と煙に焼かれ、しわがれた声をただ叫ぶ。なぜ、エルナは彼らを助けることができないのか。

 愛しい者を、守ることができないのか。


 はっとして、エルナは周囲を見回す。燃え上がる炎の中で、かすかなゆらめきが見えた。すぐさま炎をかき分けるように進む。小さな少女が今にも崩れ落ちそうな焼け焦げた床の上に倒れている。悲鳴を上げたいような気持ちになったが、それよりも体を動かす。が、炎のゆらめきの中で、思うように進むことができない。


「助けに……助けに来たよ!」


 生きているのか。生きていてほしい。からからの喉をあらん限りに振り絞る。返事がほしいわけではなかった。彼女の生を願うから、叫ばずにはいられなかった。


「お母さんが、あなたのことを捜していた!」


 ぴくり、と少女の瞼が震えるように反応した。

 生きている! 躍り出したいほどの喜びをかかえ、乾いた涙のあとが残る顔をエルナはくしゃくしゃに崩した。ゆるゆると、手を伸ばす。大丈夫、届く。すでに炎はエルナの体を包み燃え上がり、息も苦しい。けれど、必ず届く。小さな少女は、ふるりともう一度瞼を震わせ、ゆっくりとエルナに顔を向けた。黒く煤に汚れた、けれども可愛らしい木の葉のような手がエルナに近づく。少しずつ。少し、ずつ。


 わずかに指先が触れ合ったとき、エルナはまた静かに涙をこぼした。届いた、とはくりと小さく唇を動かし、少女の手のひらを握りしめる。今、この場でエルナが彼女を助けたところで、過去に泣いていた子どもが今更助かるわけではない。わかっている。それなのに、まるでエルナ自身が救われたような気持ちでぐしゃぐしゃな顔のまま、力ない笑みを浮かべる。声はかすれ、ほとんど吐息のようにしか話すことができない。


「行こう。大丈夫。絶対にお母さんのところに連れていくからね」


 けれども、今度こそ力強く、エルナは少女に笑いかけたとき。

 エルナの体は焼け落ちた柱に押しつぶされた。





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