第2話 少女は過去の英雄と邂逅する

 

 ***



 ときは少しばかり遡る。

 竜と勇者のおとぎ話と言えば、ウィズレイン王国の誰もが知る建国の物語だ。

 数百年前、エルナルフィアという名の青い竜は勇者ヴァイドを背に乗せ、魔の土地を切り開いた。ヴァイドは誰もが恐れるはずの火竜エルナルフィアを仲間とし、宝剣キアローレを片手に魔族に果敢に挑んだ。そしてやっとのことで魔族を突き刺したはずの傷からはみるみるうちに緑が溢れ、穀物が生まれ、一本の大樹となったキアローレを礎とし、今日の王国が出来上がったという。


 エルナルフィアとしての記憶を思い返してみると、ちょっと色々と盛っているな、と思わないでもない。相手をしたのは魔族ではなく民に圧制をしいたその地の領主で、緑が溢れたというのはヴァイドも混じって全員で、えいさ、ほいさとすっかり荒れ果ててしまった土地を耕したというだけだ。


 けれども、当時としてみれば貴族は神に等しいものであった。こちらに指先を向けるだけのただの魔術が幾千もの兵士の命を奪うものであり、土地は瞬く間に干からびた。そうした貴族を打倒したとしても、産声を上げたばかりの幼い国は多くの脅威に狙われた。そのすべてをヴァイドは生涯のすべてを捧げて撃退した。エルナルフィアのそばには常にヴァイドがおり、ヴァイドのそばにはエルナルフィアがいた。


 そして王となったヴァイドの子孫は、今もこの国を治め、その友である竜の物語は幼子すらも知るおとぎ話でもあり、英雄譚でもあり、また刻まれた歴史の一つでもあった。


 その歴史の中に、初代国王、ヴァイドが言い残した言葉がある。


 それは、いつの日か、エルナルフィアと自身が生まれ変わった際に、また出会うことができるように一つの約束事を決めたのだと。果たしてその約束とは、一体なんなのか。多くの歴史学者が様々な文献を紐解いてもわからない、ウィズレイン王国の謎とされている。また、生まれ変わるかどうかもわからない友であり英雄の魂を探すために、歴代の国王はエルナルフィアを探した。――そしてその年に成人となる十六の娘を王城に集め、尋ねるのだ。この中に、エルナルフィアはいるか、と。





(話には聞いていたけれど……)と、エルナはきょろきょろと周囲を見回した。


 ぴかぴかの床や調度品。立派な絨毯。壁の一つでさえも、男爵家とは比べ物にならないほどの品質だ。エルナとしては見たことのない、いやエルナルフィアとしての記憶があるからこそ、この城の価値はわかる。壁際には騎士たちがずらり、と並んでいた。集められた十六の少女達は興奮を抑えきれない様子で口元を押さえたり、またそわつきながら逆に瞳を伏せたりと忙しい。


 彼女達と比べてむしろ冷静に、じっくり周りを観察していたエルナに対して、「これだから娼婦の娘は」と苛立たしげにローラは呟いた。ローラは平民であるエルナの母を蔑んでいる。すでに死んでしまった女がどういった人間であったのか、そんなものをいちいち認識を改める必要性は感じていないし、ローラからすれば金で買われた妾同然の使用人など、ただの娼婦に違いない。「本当に下品ね。着ている服もそうだし、なんて惨めな」


 服についても、仕方がない。男爵家の次女として迎えられたのだから、まさかメイドのお仕着せを着ていくわけにもいかない。返答しようとして、やめた。馬鹿馬鹿しくなったのだ。そんな憮然としたエルナの様子を見て、また苛立たしく叫ぼうとして、周囲を見回し、ふんっと鼻から息を吐き出す。


 ――ここはカルツィードの家でも、土地でもない。エルナルフィアの生まれ変わりを探すためといった、毎年お決まりのただの催し場イベント会場だ。


 さすがに国中のすべての十六歳の少女となると大変なので、王城に集められるのは爵位を持つ少女達で、それでも下位の貴族、また上位の貴族とわけられる。平民達はそれぞれ村に来る監査官に口頭で確認される。戸籍管理のついでとも言える。


 そんな昔からのイベントごとのために、カルツィード家の次女としてエルナはお呼ばれしてしまったというわけである。呼んだ側も、ただの型式のイベントに、本当にエルナルフィアの生まれ変わりがいるとは思ってもいないだろう。なんだか申し訳ない。


 馬車での旅路は少しだけ窮屈で、けれども面白くもあった。以前ならばひゅん、と飛べる距離だというのに、今のエルナは遠い距離を行くのであれば馬で運ばれなければならない。馬はエルナの気配を感じ、ぶるひゅひゅ、と妙な声を上げていたのを見たときは、ちょっとだけ笑ってしまったが、ローラに睨まれてすぐに澄ました顔をした。けれども人間としての初めての経験はエルナの心を躍らせるものばかりで、そんなエルナの上機嫌はローラにとっては苛立たしいことこの上ないような様子でもあった。


「いい? あなたは私の使用人としてここに来たの。形式的に一人ひとり確認をされるとのことだけれども、あなたはさっさと後ろに下がって、黙っていなさい。国王様にお近づきになれるチャンスなのよ。逃してたまるものですが……ウィズレイン王国の象徴とも言える火竜エルナルフィア……その生まれ変わりとなれば、公爵家以上の権力を持つはず。私が、絶対に、生まれ変わりよ、絶対に、なってみせるわ……!」


 男爵家程度の家柄じゃだめなのよ、とぎりぎり、とローラは親指の爪の先を噛み締めている。前世は頑張ってなるものではないんじゃないだろうか、と「はあ」とエルナは相槌を打った。「なに、その気のない返事は! あんたの大事なガラスの石を踏み潰してやってもいいのよ!」 準備もよく、ローラはエルナの目の前でネックレスをぶらつかせる。思わず眉をひそめてしまうと、彼女は満足げな様子でむふんと胸をはった。


 ちなみになぜ娘を集めて問いかけるのかといわれると、エルナルフィアは“女性”であったため、と言われている。「あいつが生まれ変わるのなら、きっとまた女性に違いない」と初代国王が漏らした言葉からこんなことになってしまったが、適当すぎじゃないか。いや、ヴァイドは適当な男だった。忘れっぽくて、適当で、そのくせ底なしに明るい。馬鹿にしたいのか、そうじゃないのかわからないくらいの気持ちでぶつぶつと頭の中で愚痴を吐く。でも一番気に入らないのは、その適当に言った言葉が、本当に実現してしまった、ということだ。エルナは人間の、それも少女に生まれ変わってしまったのだから。


 そうこう考えている間に、貴族とはいえ十六の少女達だ。待つ時間もたまらなくなってしまったのだろう。それはローラも同じで、まだかまだか、と互いにそわついてときどきドレスがくっつき合う。ぼいん、ぼいん。


 彼女たちのドレスのスカートはまるではちきれんばかりの鳥かご型で、おそらく中には立派なパニエを着込んでいるのだろう。王都に向かう馬車の中はローラのドレスでいっぱいになって大変だったのだ。最近では中に細くした藤を円形にして、さらに立体的にするものが流行りだと聞いたことがある。ローラも、もちろん他の令嬢方もスカートの中に鳥かごを持っているもので、かつ広いとは言え一室に詰め込まれているわけだからぼいん、ぼいんとぶつかり合う。たまたま入り込んでしまったらしい精霊が、ぺちゃんこになりながらふわほわわと瀕死の形相をしていた。大丈夫なの。


 対してエルナの靴は毎日の仕事でぼろぼろで、せめてもと袖を通した一張羅はサイズも合わないつんつるてんだ。なんせ、死んだ母が幼いエルナにと自身の少ない蓄えをはたいて買ってくれたものだから、サイズが合わない。背が伸びるごとに少しずつ継ぎ足したりしてはみたものの、さらに不格好なことになっている。もちろんこれもローラ達母子の嫌がらせの一つで、周囲のご令嬢達はエルナを見てときおり眉をひそめていた。ローラはエルナが好き好んでこの格好をしていて、恥知らずな変わり者の妹に困りあぐねている、という設定らしい。


(まあ、別に、さっさと帰るからいいんだけど……)


 以前までのエルナであるのなら羞恥に顔を赤らめて、唇をかみしめ震えていたかもしれない。でもどう思われたところで今後は関わり合いにならない他人だ。自分の知らぬところで噂を流されたのだとしてもぴくりともドラゴンなマインドは傷つかない。人間、暇ね、という感じである。


(私がエルナルフィアです、なんて名乗り出るつもりもないしね……)


 いくら今の王家がヴァイドの子孫で、エルナルフィアを探しているとは言っても、今のエルナにとっては赤の他人だ。それに今更名乗り出たところで面倒なことになるのは目に見えている。


 というわけで、さっさと帰ってしまう気は満々でエルナは堂々と立っていた。ご令嬢達の間でぺちゃんこになって死に体になっていた精霊をおいでと指でよびだして、魔力をほんの少しばかり食わせてやった。ぴゅるぴゅるぷぴぴ。すみやせん、ありがとごぜえやす、と精霊はぽっぽを燃やして礼を告げる。今めっちゃしゃべった。


『ありがとやんす』


 気の所為ではなく、たしかにもう一度そう告げて『へいよう!』と元気に精霊は消えていった。ぴゅんっと窓から飛び出しひゅんひゅん真っ青な空になじんでいく。エルナは呆然としてその姿を見送ったが、なるほど、エルナの竜の魔力を食ったことで精霊としての格が上がったのだろう。格が上がった精霊は魔力を流し込んだものの言語を解するようになる。竜と精霊の言葉は同じである。だから前世では変化に気づくことができなかった。


 ちょっとなまっていたのは地方からいらっしゃったのだろうかと考えつつ、最後のへいようは馬でも乗っているつもりだったのだろうかと謎である。でも楽しかったので全然よろしい、とエルナはむふんと笑った。そうこうしている間に、ローラにぼいんと突撃された。


「何を一人でにやにやしているのよ、まったく不気味ね!」

「そうですねぇあはは」

「怖いわよ! なんでいきなり笑顔なのよ!」


 なんせその気になればぷちっとつぶせるので、以前ならば涙を流していたことにも段々どうでもよくなってくる。そして自分から話し始めたというのに、「静かになさい!」とローラはエルナの髪をひっぱった。別に痛くもかゆくもないが、あんまり近寄られると鳥かごスカートにぼいんぼいんとされるのは気分の上であまりよろしくない、が。ざわり、と周囲のささやき声が大きくなった。


 やってきたのは、顎から伸びたひげがくるんと長いおじいさまだ。カツカツ、と石の床に音を響かせて動きは随分ぴしぴししている。具体的に言うのなら直角である。そして直線に進み、くるん、と反転した。娘たちはびくりと仰け反った。そして一瞬で静かになった。


「みなさま、お集まりいただきましてありがとうございます。そして十六の年を迎えられたことをお祝い申し上げます。エルナルフィア様は、淑女であったと言い伝えられております。どうぞ、貴方様もエルナルフィア様と同じく美しく、清らかにお年を重ねてくださいませ」


 緊張に固まっていた少女達は、告げられた祝福にほう、と息を吐き出す。


「ええ、ええ、本当に……!」

「エルナルフィア様は淑女の鑑よ……!」


(鑑……?)


 竜が、鑑……? と首を傾げるばかりだ。そしてご老人に同意するご令嬢方は、にっこりと微笑んでいる。ローラのように、自身がエルナルフィアの生まれ変わりにならんとする少女はもちろん少数派だ。大抵の少女達は十六の年の、一種の祝いの儀式として王城に招かれたことを喜んでいる。それがこの国の慣例だからだ。


「さて、わたくし執事長を務めております、コモンワルドと申します。皆様方には遠いところをご足労いただきまして、大変恐縮でございます。ささやかながらではございますが、ご成人になられた祝いの品と宴を準備しておりますので、お楽しみくださいませ」


 ぺこり、と直角にコモンワルドは腰を曲げた。

 普段は厳格な両親達にしつけられた淑女達も、にわかに色めきあった。けれどもローラはきりきりと親指をかんで、苛立たしげな様子だ。


「その前に、まずは皆様一人ひとりにご質問をさせていただけましたらと」


 そのとき、ぱっとローラは顔を上げた。エルナルフィアの生まれ変わりかどうかを確認しようとするコモンワルドの言葉を察し、ぴゅう、と目の前に飛び出した。少女たちの間を無理やりにすり抜け、「私が! 私が……!」 ローラは主張する。そのときだ。本日も嫌がらせのためにと握りしめていたエルナのペンダントがするりと指から滑り落ちた。


 かちゃんっ。

 ずべり。


 ローラは顔から床につっこんだ。つるつるとした石の床はとにかく顔に痛そうで、コモンワルドの前に飛び出した彼女を見て、しん、と空気が静まる。護衛の騎士達がコモンワルドを守るためか即座に駆けつけようとしたが、それよりも、とコモンワルドが即座に手で制した。「これ、は……」 涼やかな音を立てて彼の足元に滑り込んだ楕円のガラスのネックレス。ゆっくりと震える指でつまみあげ、「エルナルフィア様のうろこ……!」


 執事長の言葉に、広場は騒然となった。


「これは、間違いなくウィズレイン王国の始祖の一人とされる火竜、エルナルフィア様の鱗……! な、なぜ、どこでこれを……!」

「まあ……! この石は、私が生まれたときに握りしめていたもの! 自身でもまさかという思いもございましたから、今日まで誰にも告げることはできませんでしたが、私は竜としてこの空を羽ばたいた記憶がございますの!」


 ローラは即座にネックレスを掴み上げ、高らかに掲げた。ものすごい土壇場力で、ガッツがあった。あまりのアドリブ力にエルナは瞬きをして、逆に感嘆してしまう。


 ローラは語った。これは自身が生まれたときから持っていたものであること。前世の記憶があるからこそ、大切に持っていたのだと。いやそれ、私が昔言ったことだよ、とまたぱちぱち瞬く。前世の記憶というところはローラのアドリブだったが、事実が入り混じっているものだから、不思議なリアリティまで滲み出てしまった。


 つまりエルナルフィアとヴァイド王が生まれ変わった際に、また出会うことができるようにと決めた約束事とは、彼女の鱗を持つという意味ではないか――と、歴史の瞬間をこの目にし、頬を赤らめる少女達はささやきあった。いやそんなもん知らん。


 えっ、私が忘れているだけ? とエルナは頭を抱えた。そんなもんほんとに知らん。なんかなんとなく生まれたら持ってたというか。そんな軽いテンションでなんとなく持っていたものが重たい逸話があるだなんて思いもよらなかった。


(っていうか私って水色の鱗じゃなかったっけ? 一枚一枚だとあんなガラスみたいな感じだったの?)


 まだ見ぬ自分を発見してしまったと驚きを重ねるしかない。

 それにしても、とエルナは溜め息をついた。ローラの主張はざわめきから、静かにその場に受け入れられていく。ただの偶然ではあるが、とうとうローラは自分の願いを事実に変えてしまったのだ。中々のど根性である。真っ赤に頬を紅潮させて興奮のあまりに両手を広げている彼女をぼんやりと見つめ、エルナは――やっぱり溜め息をついた。


 どうでもいい。


 エルナルフィアはエルナルフィアだし、自分は自分だ。ローラがエルナルフィアに成り変わるということはカルツィード家に帰ってくることはないだろう。それはそれは、とても平和でありがたい。エルナにはカルツィード家を離れることができない理由があるから、あの屋敷が平和になるのならそれに越したことはない。


 ウィズレイン王国の王族は大切な、いつも背に乗せていた相棒の子孫だ。だから気にはならないといえば嘘になるが、それほどの興味はない。ヴァイド本人ではないのならば。――そう考えて、ふいと視線をそらそうとしたときだ。ざわめきが、さらに激しく波打った。


「ああ、我が君、いらっしゃいましたか、大変ですぞ!」

「これは随分な騒ぎだ。何があった、ということは聞かずともわかるな」


 ――肌が、粟立つ。

 エルナは瞳を見開き、ただ一点を振り向いた。あまりにも、記憶の中にある声と同じだった。けれどももう一度考えて違う、と首を振った。よく似ているけれども、エルナが知る彼よりもわずかに声が高く、よく響く。彼は、自身のかすれ声を少しだけ気にしていた。けれどもどうしても気になって、男の姿を目にしようとしたが、エルナの小さな身体では男の登場に熱狂のあまりにさらに密集するご令嬢達を乗り越えて確認することはできない。下手に本気を出せば、大変なことになってしまう。ぷちっとな。


 次に、「ヴァイド様」と彼が呼ばれたとき、驚き、息ができなくなるかと思った。けれどもすぐに思い出した。ウィズレインでは、男は初代国王の名を継ぐのだ。つまり、彼が国王であるのなら、なんらおかしなことではない。


 だから息を吸って、吐いて。跳ね上がる心臓を押さえつけて、高揚する少女たちの隙間からなんとか男を覗いた。男はまったく、ヴァイドとは違う姿だった。けれども、彼はヴァイドだった。


 ヴァイドはどこかかすれ声で、流れるような黒髪は片側だけかきあげられていて、ほんのすこしのたれた瞳は無駄なほどに色男であるとも、仲間達からは散々な言われようだった。けれども村の女達は誰もが彼に恋をしたし、領主を打倒し、新たな国として独立を掲げ国王となってからも、多くの姫君を虜にした。エルナルフィアからすれば、あんなのただの筋肉バカで、笑い方なんて意地の悪さが透けて見えるだろうに、と呆れたものだか、今の彼は違う。きらびやかな金の髪が似合う好青年で、日焼けだって似合わない線の細い二十歳かそこらの青年だ。


 なのに、彼は間違いなくヴァイドだった。なんせ自身の背に乗せて、何度も空を飛び回った相棒だ。その生まれ変わりをわからないわけがない。


 その瞬間、エルナは、ずっとずっと記憶を遡らせて、ただのエルナルフィアになっていた。

 ぼろぼろと竜は泣いた。自身の背に乗せていた相棒を思い出して、しゃらん、しゃらんとガラスの鱗を揺らしながら、人の言葉ではなく、竜の泣き声を振り絞り、ただ泣いていた。オオキュオウ……と静かに泣く竜の声は、まん丸い月ばかりが聞いている。夜だ。真っ暗な、星々がきらめく不思議な、静かな夜。いや違う、と瞬く。


 どこか、ぐんと遠い場所にいたようだ。

 ここは王城で、エルナは二本の足で立っている。そして、窓からは陽の光が溢れていてざわざわと人の波の中だ。エルナルフィアはすでにいない。竜の記憶は、今は静かにエルナの胸の中にしまわれている。ふらついた身体を必死に立ち直らせ思考する。エルナは、エルナルフィアではあるが、間違いなくエルナなのだ。そうはいっても、ざわめく感情は抑えつけることができない。


 そのとき、“ヴァイド”とちかり、と瞳が噛み合うように合わさった。

 一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。一秒か、二秒か。結局大した時間ではなかったのかもしれない。ヴァイドはたしかにエルナを見つめ、エルナもヴァイドを見返した。いつのまにか息もできないくらいに緊張している。頬をぱんぱんにして、閉じた唇をぶるぶるに震わせてエルナはヴァイドと見つめ合った。けれども、ふい、と簡単に外されてしまった。


「そこの少女、名を」

「は、はい。私はローラ、ローラ・カルツィードでございます、ヴァイド陛下……! ど、どうか私のことはエルナルフィアとお呼びくださいましっ」


 そうか、とヴァイドは頷き、ローラをエルナルフィアと認めた。


 こうして、生まれ変わってもまた出会うことができるようにと願った彼らの記憶はただガラスのように砕け散ったのだった。ヴァイドは前世のことなんて何も覚えていない。

 だから、消えてしまおう、と思った。こんなところ、一秒でもいたくはない。さっさと帰って、ほんの少し泣いて、現世を楽しもう。エルナの帰る場所なんて、本当はどこにもないのだけれども。

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