Chapter I 刑事たち(Ⅰ) 八月十三日(金)

          ⅰ


「嫌な暑さだな……」

 朝から止むことなく降っている雨は気温を下げる役割を果たさず、不快指数をどこまでも引き上げていた。今日はここ最近で一番蒸し暑く感じる。

 部下のスケと昼食に出ていた私は、額の汗と雨を娘からの贈り物である桃色のハンカチで拭いながらN県警本部の真っ白な建物に戻った。

 でっぷりと太ったスケは私以上に汗をかいているが、拭くものを持っていないのか、羨ましそうにこちらを見てくる。

「カクさん可愛いハンカチ使ってますね。プレゼントですか?」

「ああ、娘からのな」

 云いながら私は彼女の顔を思い浮かべていた。そういえば昨日からあの島に行っているそうだが楽しくやっているだろうか。

 骸骨がたくさん転がっている、怨念を抱いた霊が彷徨っているといったくだらない噂はともかく、自殺の名所になっているような島に進んでいく彼女の気持ちは私には全く分からなかった。

 警察官として、というより若い娘を持つ父親として止めるのは当然だったが、案の定と云うべきか、彼女は聞く耳を持たなかった。

――まあ、やりたいようにやらせておくか。

 ここ最近そんな風に思うことが多くなってきたが、どことなく危なっかしいところもあることだし、もう少し行動を制限した方がいいのだろうか。

 しかしもう大学を卒業した立派な社会人なのだ。いつまでも親が関わるべきではないということは勿論分かっているし、何より彼女が嫌がるだろう。

 とはいえ一人娘に何かあってからでは遅いし……。

 エレヴェータを待つ間、最近の悩みの種について思いを巡らせていると、そんなこととは知らない部下が感心したように頷いた。

「カクさん、娘さんのこと大切にしてますもんね」

 大切にしているからこそ悩みがあるのだ、と愚痴を云ったところで始まらない。私はまあな、と答え、降りてきた籠に乗った。

「ところで、その『カクさん』というのはいつになったらやめるんだ」

 私の名前の「格」は「かく」ではなく「いたる」と読む。ただ、やめろと注意しておきながら、「カクさん」と呼ばれるのは実のところ然程嫌ではなかった。

 それはコンビを組むことの多いこの後輩が助孝という名前で、私も彼のことを「スケ」と呼んでいるからだ。 

 云うまでもなく、N県警内で私たちは「スケさん、カクさん」と称されていた。

「またそんなこと云って。カクさんも気に入ってるんでしょう?そんなことじゃ今度はツンデレ刑事と呼ばれますよ」

 よく分からないが、デレてはいないじゃないか。そう云いたいのを堪えながら溜息をついた。丁度一回り下――確か今年で三十八だったはずだ――である後輩にむきになっても仕方がない。

 六階で降り、スケと二人で刑事部捜査第一課のデスクに戻ると、暇を持て余した刑事たちがテレビを見ていた。

「先日行われました長崎記念式典には過去最多となる三十二ケ国が参加し……」

 終戦記念日を二日後に控え、平和の尊さを薄っぺらな言葉で伝える番組らしかった。

 何となく嫌になって勝手にチャンネルを変えると、今度は真面目そうな男性のニュースキャスターが抑揚のない声で、小惑星探査機の帰還から二ヶ月が経ったと告げていた。

 こちらにも大して興味が無かったので予定通り調べものをすることにする。

「ちょっとカクさん、戻ってきたばかりなのにどこ行くんです?」

「お前はついてこなくていい。ちょっと気になる事があるだけだ」

 私は今度は階段を使い、一つ上の階にある資料室へ向かった。

 普段からそうだが特にこの時間帯はこの階の廊下に人は全く見当たらない。そのためか電灯は点いておらず、今日のような雨の日はかなり薄暗かった。

 今年もやってきたか、と思いながら廊下の一番奥のドアを開けた瞬間、古い紙の匂いが漂ってきた。一年ぶりに訪れたがどうやらここは変わりないらしい。

 棚は大量にあったが目当ての資料がある場所は頭の中に刻み込まれていたので迷うことはなかった。

 手を伸ばし「A市放火殺人事件』と題されたA4のファイルを取り出す。これを見るのも一体何度目になるだろうかと自然と溜息が出た。

「そんな昔の事件調べてどうするんです?」

 突然声をかけられたので驚いて振り向くと、スケがいつの間にか後ろに立っていた。

「ついてこなくていいと云っただろう」

「でもカクさん、毎年この時期になると一人でここに籠っているじゃないですか。何をしてるのか、そろそろ教えてくださいよ」

 まったく、と一応云っておいてから持っていた資料をスケに差し出した。

「十五年前A市で起きた放火殺人事件だ。お前はまだ刑事になっていないから覚えてないかもしれんが」

「放火殺人……ああ、うっすらと覚えていますよ。まあこの辺りで凶悪事件なんてほとんど起きませんからね」

 そう云いながらスケはページをめくっていった。ただ黙って見ているのもなんだったので口でも説明してやることにした。

「容疑者は当事二十七歳だった宇賀荒則という会社員の男だ。宇賀は丁度十五年前の今日、夜七時ごろに婚約者の実家に放火し、逃亡。一度はその身柄を捕らえかけたものの、警官を振り切って姿をくらませ、今は行方も掴めていない状況だ」

「婚約者の女性とその父、母の三人が亡くなったんですね……。動機はその父と母との諍いと書いてありますが」

「宇賀は普通のサラリーマンで、仕事がそこそこ出来る物静かな男だったようだ。とても殺人を犯すような凶暴な男じゃなかった。しかしそれは社会人になってからのことで、高校生くらいまでは手のつけられんやつだったらしい。気が短い上に傷害事件を起こしたこともあって、地元のI市ではあまり評判がよくなかったんだ」

「I市ってあの港町の?あんな田舎で素行不良なら確かに目立つでしょうね」

「ああ。だからその噂を聞いた婚約者――市川芳枝さんの両親は結婚に反対していたらしい。なんでも芳枝さんの父親はA市長になったばかりだったらしく、世間体を気にしたのだろう。そもそも近所でも真面目と評判だった芳枝さんがどうして宇賀と恋人になったのか、彼女の知人たちも首を傾げていたくらいだ」

「二人に全く接点はなかったんですか?」

「二人とも県内のN大学出身で文学部だったらしい。宇賀のやつ、勉強の方はなかなかどうして出来たようでちゃんと卒業もしている。おそらくそこで知り合ったんだろうが、二人ともサークルには属していなかったようだし、その方面からの捜査は早い段階で諦められた」

「ふうん……。それで?」

「それで、とは?」

「何でカクさんが今更この事件を調べているのかってことですよ。単なる暇つぶしってわけじゃないでしょう?」

「……宇賀に振り切られた警官というのは私なんだ」

「え?」

「まだ三十過ぎで力に自信もあったんだが、まあ自惚れていたんだろうな。上司の指示を無視して勝手に動き、挙句逃げられてしまった」

「冷静さに定評のあるカクさんにもそういう時があったんだ……」

「とにかく、そういうわけだからこの事件は何としても解決したいと思っていた。しかし宇賀の足取りは全く掴めず、捜査もほとんど打ち切り状態になった。これはもう自分の手でやるしかないと思って、五年ほど前から一人で地道にやってるのさ。といっても一年中追いかけるわけにもいかないから事件が起こった盆あたりの時期だけだがな」

 そしてここに来るのは気合を入れるためだった。宇賀をみすみす逃してしまった悔しさを思い出し、今年こそはと自分を奮起させるのはもはや恒例行事だった。

 結果は散々で宇賀の居場所さえつかめないままだったが。

「じゃあ今年は俺も手伝いますよ」

 その言葉に私は驚いた。これは私の問題であり、他の者からは諦めの悪い刑事が無駄な努力をしているだけにしか見えないだろう、と勝手に思っていたからだ。

「いや、いい。他にやることもあるだろう」

「この辺りじゃ滅多に事件も起こらないから大丈夫ですよ。一人より二人の方がいいに決まっているし、それにタイミングもバッチリじゃないですか」

「タイミング……まあ、そうだが」

 スケの云うことも一理ある。かなりタイムリーであるのは事実だった。

 それに私は彼の申し出が実は少し嬉しかった。

「よし、じゃあ早速始めましょう。今更焦る必要もないかもしれませんけどやっぱり善は急げ、ですからね」

「始めるって何か考えはあるのか?」

「ええと、それは……」

「相変わらずだな、お前も。そそっかしいやつの体型じゃないだろうに」

「……それ、悪口ですよね?」

 スケは明るく元気はあるのだが、子供じゃあるまいし、そんな取り柄だけで褒められるものじゃないぞといつも注意していた。

 確か中学生になろうかという娘もいたはずだ。もう少ししっかりしてもらわないといけないな、と思いながら報告書をめくり、宇賀について詳細が書かれた箇所を開いた。

「とりあえずここに行ってみようと思う――というか毎年そうしている」

「I市――宇賀の生まれ故郷ですね。でも毎年行ってるんじゃ新しいことなんて得られないと思いますけど」

「宇賀がどこにいるか分からない以上、同じところを回ってなるべくたくさんの人の話を聞くしかないんだよ」

「本当に地道だな……」

「I市はそれほど大きな街でもないが、こっちは勝手にやっている身だからそんなに時間も取れない。いつもそう多くの人には聞込みできないんだよ」

「それじゃあなかなか見つかりませんね」

 そんなことは分かっている、と云いかけてやめた。

 私自身、自分の行いに意味があるのかどうかと例年疑問に思っていたからだ。

 何一つ有益な情報が得られないまま、ただ時間だけが過ぎて行く歯痒さを最も味わうのはこの事件だった。

 そのため自分が宇賀を捕まえるという目的で動いているのではなく、過去の失敗に引きずられているだけなのではないかとまで考えたことも何度もある。

 しかし結局今年も捜査することになった。

 一年前はもうここで諦めなければいけないのかと悲観していたのだが、八月十三日にはやはりこの場所に来てしまうのだ。そういう運命なのだろうか。

「でも今年で終わりにしましょうね」

「ん?」

「二人でやるんですから、宇賀を絶対捕まえようっていうことですよ」

「……ああ、そうだな」

 来年こそはこれに触れなくて済むようになるといいのだが。

 私は昨年とは違った思いで資料を棚に戻した。


          ⅱ


 I市は県警本部のあるN市から車で一時間半ほどのはずだが、スケの運転するセダンは法定速度よりもかなりゆっくり走り、結局二時間近くドライブすることになった。

 風情のある――少なくとも私はそう思っている――港町に到着した我々は駅前の駐車場に車を止め、三時のおやつ代わりに一服してから行動を開始することにした。

「まずはどこから手をつけますか?」

 まだ充分吸える煙草を揉み消し、スケは云った。随分気合が入っているらしい。

「一応云っておくが、お前が思っているより難航するぞ。なんせ十五年も前の話だし、自分たちの街から出た犯罪者の話なんて極力したくないだろうからな」

「それはそうですけど……でも取り敢えず急いだほうがいいみたいですよ。これから荒れるかもしれませんし」

 私は無言で頷いた。雨はもう上がっていたが、風はかなり強く波が大きく揺れていた。西の方に見えるあの分厚い雲がやってきたら聞き込みどころではなくなるかもしれない。

 しかし天気が悪いからか既に辺りにはあまり人の姿は見えず、小学校高学年くらいの男の子と女の子が二人で遊んでいるだけだった。

「ほら、追いかけてみろよ」

「まってよ、えーちゃん」

 楽しそうな声をあげながらこちらに向かって走ってきたその二人を「君たち、ちょっといいかな?」とスケが引き止めた。

「悪い人がこの街に来たって話、知らないかい?」

 流石にこんな子供たちには分からないだろうと思ったが案の定だった。二人して首をぶんぶんと横に振るばかりだ。

「変なことを訊いてごめんね」と云うと二人して私の顔をじっと見つめた。そして男の子の方が「行こうぜ、メイ」と女の子を引っ張り、足早に去って行った。

「うーん、案外子供たちの方が詳しいんじゃないかって思ったんですけどね」

 まあそんなに焦ることはないだろう、と私はスケの肩を叩いた。

「まずは二手に分かれよう。とにかく手当たり次第、宇賀について何か知っている人がいないか探すんだ。もしかしたらこの十五年の間に一度くらい奴がI市に帰ってきたことがあったかもしれない」

「俺絶対カクさんより早く手がかり見つけますよ」

「別に競争しているわけじゃないぞ。……まあいい、それじゃあ一時間くらい別行動にしよう。何かあったら電話で知らせてくれ」

「了解です」

 そうしてスケと別れて聞き込みを開始した私だったが、三十分も経つ頃にはもう意気消沈してしまった。

 例年の如く、誰に聞いても何も知らないという答えが返ってくるばかりだ。

「今更何を調べているっていうんですか」「去年も訊かれましたけど」「どこかで野垂れ死んでるんじゃないですか」

 分かっていたことではあったが、しかし仲間が増えて今回こそうまく行くと思っていたので、出鼻を挫かれたのは辛かった。

 やはりこの街にはもう手がかりなど残っていないのだろうか。スケには可能性があると云ったものの、奴がこの街に戻ってくる理由がないことは分かっていた。

 小学校から高校までは一匹狼の不良だったのか然程友達もおらず、両親も十年前に他界している。

 それでも何か小さな発見があるかもしれないと期待していたのだが、どうやら無駄だったようだ。

 手帳を取り出し、宇賀の同級生数人の名前を記したページを開く。勿論毎年彼らにも連絡は取ろうとしているのだが、人殺しの同級生などに関わりたくないのか数年前から殆ど誰も電話に出てくれさえしなかった。それは学生時代の教師たちも同様だった。

 よく考えれば彼らも知らないことをまったくの他人が知っている可能性は小さいか。

 波止場の辺りを歩きながら、そう諦めかけていた時だった。

「カクさん!」

 振り返るとスケが一人の老人を連れてこちらに向かって来るのが見えた。

「電話しようかと思ったんですが、丁度カクさんが見えたんで一緒に来てもらいました」

「来てもらったって……こちらの方は?」

 青い帽子に青いつなぎ。そして大きな長靴を履いているところを見ると漁師だろうか。

「あんたがここ何年か宇賀荒則について調べまわってるっていう刑事かい」

 その老人は吉岡、と名乗った。思った通り漁師であるらしい。

「声をかけたとき、初めは俺がそう訊かれたんです。どうやら宇賀について色々知っているみたいなんですが、刑事だと信じてもらえなくて」

「捜査は二人でするもんだと聞いたことがあったからな」

 吉岡はスケを睨んで云った。

「だから云ったじゃないですか。基本は二人組ですが、捜査員は我々二人だけですので手分けする必要があったんだって」

 そんなことは一々云わなくていいと目で伝え、私は吉岡の方へ向き直った。

「それで何をご存知なんでしょうか?」

「ご存知も何も、あいつが小さな時から世話してやってたんだ」

「小さな時から……。吉岡さん、宇賀がどういう人物か詳しく教えていただけませんか」

 ここに来てようやく新しい手がかりが得られるかもしれないと私は内心喜んだ。I市まで来たのも無駄足ではなかったのかもしれない。

「逆に訊くが、あんたらはどういう印象なんだ?この街の人間の話は大方聞いているんだろう?」

「子供の頃から問題を起こしていたようですね。暴力事件は茶飯事で、そう云えば動物も虐待していたと聞いたこともあります。もともと残虐性がどこかに潜んでいたのでしょうね。それで放火殺人をするに至った」

 これまでの聞き込みで得られた、あるいは捜査資料に記載してある情報を頭に思い浮かべながら私がそう答えるのを聞いて、吉岡という漁師は首を振った。

「やっぱりな。未だに捜査を続けている人間でさえ、そんな認識なんだ。どうせ誰一人あいつの人となりを理解していないんだろう」

「というと、私が云ったことは間違っていると?」

 宇賀は実は心優しい人物だとでもいうつもりか。しかしそんな話はこの十五年で一度も耳にしたことはなかった。

「勿論全部デタラメだとは云わん。確かにあいつはよく手の出る奴だったし、街の大人たちがあいつのことをよく思っていないのも事実だろう。だが宇賀は不器用なだけで、少なくとも人を殺すような人間じゃない。理由がなきゃ人を殴ることもなかった」

 だが実際に人を殺して逃亡しているのだと云うわけにもいかず、頷いて先を促した。

「あんたらがこれまで話を聞いてきた奴らはニュースを見て、宇賀ならやりかねないと思ったんだろうな。それで実際より話を膨らませて、昔から人殺しの片鱗があったかのように答えているのさ。快く思っていなかった人間が罪を犯したのをこれ幸いに、無責任な言葉を並べているのを聞くと腹立たしいよ。俺が一人でそんなことないと否定したところで誰もまともに取り合ってくれないだろうから、何も云わんが」

「……ではあなたは宇賀が自分の婚約者やその両親を殺したということ自体間違っていると考えているのですか?」

 吉岡の話を聞きながら必死にメモを取っていたスケが手帳から顔を上げて訊いた。すると漁師は我々から目を背け、海の向こうに目をやって答えた。

「別にあんたら警察が無能だとかそんな風に思っているわけじゃない。だからあいつが三人もの人間を殺めてしまったってのは事実なのかもしれない。ただ、宇賀は家に火をつけただけなんだろう?それで三人が死んでるんだから許されることじゃないのは分かってるが、直接手をかけたくない理由があったんだろうな」

 そう、宇賀は「妻の実家に放火して逃亡」した。その前に三人に暴行を加えたり、首を絞めたりしたわけではない。

 三人をまとめて殺害するためには火をつけるだけで十分であり、その方が手っ取り早いと思ったのだろう。

 出火は美江さんたちの遺体があった部屋だったことから、宇賀が彼女たちを脅して集めてそこに火をつけて逃亡したと考えられていた。

 しかし吉岡の云う通り自分の手で息の根を止めることを拒んだことに何か理由があったのかもしれない。

 あるいはその逆だと考えられないだろうか。つまり、直接殺害しなかったのではなく、「火をつける」という行為自体に何か意味があったのではないか――。

「吉岡さん、宇賀が火に関するトラウマなどを抱えていたかどうかはご存知ですか?あるいは炎を異常に好んでいたということは?火遊びをしていたらしいと聞いたことならあるのですが……」

「さあな。だがその火遊びっていうのは誰かが適当に云っただけだろう。俺もあいつの行動を全て把握していたわけじゃなかったから断定はできんが、少なくとも大学に上がってI市を出るまではそんなことをしていたとは思えん。それにあんたがさっき云った動物の虐待っていうのもデマだな。宇賀は子供の頃から犬や猫なんかが好きだったし、高校生になって不良が板についてきた頃でも、俺の前では野良犬にも優しくしていたくらいだ」

 私には吉岡が嘘を吐いているようには見えなかった。

 彼の云う通り、これまでの証言は街中から嫌われていた宇賀のことを事実より悪い風に云ったものだったのだろう。だからといって奴が犯罪者であることに変わりはないが。

 それにしても吉岡は宇賀のことをよほど気にかけていたらしい。我々警察はともかく、殺害してから火をつけたのか、ただ火を放っただけなのかというようなことを普通の人は気にしないだろう。それだけ宇賀が殺人を犯したということが信じられず、ニュースや新聞の情報に注目していたということか。

「そういえば漁師さん、宇賀の子供時代も知っていて彼とそこそこ親しかったようなことを云っていましたが、どういう関係だったんです?」

 スケがいいタイミングで再び吉岡に質問した。

「別に大したことじゃない。もう今は死んじまったあいつの親父と仲がよかったってだけさ。その親父に連れられて港に停まっている俺の船によく遊びにきてたんだ。その時に色んな話をしたってわけさ。あいつは家族と俺以外に話せる相手がいなかったからよく喋ったよ」

「例えばどんなことを話していたのか、覚えていらっしゃいますか?どんな些細なことでもいいんですが」

「ああ、それは核心をついた質問かもしれねえな」

 その言葉の意味はよくわからなかったが、それを訊く間もなく吉岡は語り始めた。

「もっぱら宝探しの話だったよ。まあ小学生か中学生の頃だから当然といえば当然なのかもしれんが、冒険小説めいた話をずっとしていたよ。暗号がどうだの、洞窟がどうだのとな。俺はそんなもん嘘っぱちだって云ってたんだが、あいつは聞く耳を持たなかった」

 宝……暗号……。

 それはもしかして彼女――私の娘が行っている島に関することだろうか。

 吉岡の云う通り年頃の男子ならその類の話に興味を抱いてもおかしくはないが――。

「そのことが核心をついている、とはどう云うことですか?」

 私はたまらなくなって訊いた。すると吉岡は突然顔を引き締めた、ように見えた。

「あんたら、宇賀の居場所を突き止めたくて来たんだろう?」

「え?まあ……そうですが」

 あまりに当然の質問をされて少し面食らってしまったが、それはスケも同じだったようだ。吉岡が何を云いたいのかさっぱり分からないという表情をしていた。

「それなのに誰もあの話をしていないのは、まあ信じていないんだろうな」

「あの話?宇賀に関することで目新しい情報は誰も持っていないようでしたが」

「あくまで噂に過ぎないからな。ただの見間違いなのか、ひょっとしたら作り話なのかもしれん。皆そんな不確かなことは流石に云いたくなかったんだろう。そもそも宇賀が戻って来たということなんて考えたくもないだろうからな」

 それを聞いて私は心臓が止まりそうになる感覚を生まれて初めて味わった。

 宇賀がこの街に戻って来ていた?

 本当だとすればこれはかなり有力な手掛かりになる。

「繰り返すが、あくまで噂だ。俺だって完全に信じてるわけじゃねえさ。あいつなら俺くらいには声をかけるかもしれねえし……」

「それはいつくらいのことなんでしょうか」

「もう一月も前かな。知り合いの漁師が波止場のあたりで宇賀によく似た男を見たって騒いでたんだ。最初は皆驚いていたようだったが、すぐにそんなことあり得ないという流れになった。ただもし本当にそれが宇賀だったのなら、その居場所については誰もが心当たりがあった。逃亡犯である宇賀の目的を考えれば納得できるし、特に俺はあいつが昔冒険少年だったことを知ってるから、まあ可能性は十分にあるかもしれないと思っている」

 回りくどい云い方だったが、私はその場所がはっきりと分かった。

 しかし――。

「あいつがいるとすれば多分あそこだろう」

 そう云って吉岡は海の向こうに腕を伸ばした。

「あそこって……」

 スケはまだ気付いていないらしい。そんな彼に漁師は説明した。

「島だ。あんたらも知ってるだろう?髑髏島だよ」

 その答えが分かっていたのに「まさか」という言葉が口をついて出る。

 あの島には今――。

「ああ、あの自殺スポットの……。確かにあそこなら人も近づかないから、隠れるのにはもってこいかもしれないけど」

「恐らく島に隠された宝を手に入れて逃亡資金を手に入れる腹づもりなんだろうな。云ったろう、宇賀は小さい時から宝の存在を疑わなかった。暗号を解いて宝を手に入れてやると息巻いていたんだ。逃げ回って十五年、もうどうしようもなくなって最後の望みにかけたのかもしれん。あんたらひょっとして髑髏島の宝の話、知らんのか?」

「いや、それは知ってますけど、本当に宝が隠されてるとは思いませんよ。ねえ、カクさん……あれ、どうしたんですか?」

 スケは私を見ると怪訝そうに目を細めた。私の顔色が良くなかったのだろう。

 先ほどから頭の中には彼女の姿だけが浮かんでおり、二人の話は殆ど耳に入って来ていなかった。

 私は思い切って尋ねることにした。

「あの島に今ライターが取材に行っていると思うのですがご存知ですか?」

「ああ、乗せていったのは俺だからなあ。〈ミューステリオン〉とかいう雑誌の人たちに頼まれてな。まあそうじゃない人もいたが」

 それを聞いて私は驚いた。どうしてこの男は殺人鬼がいるかもしれない島に人を連れて行ったのだ。

「いや、俺だってやめておいたほうがいいと云ったさ。でも金子とかいう男はそれも承知の上だったそうだよ。普段はオカルトっぽい話ばかり取り扱っているが、そんな犯罪者に出くわしたらそれはそれでスクープになるだろうって」

 随分と気楽なものだ。危険だというのが分からないのだろうか。

「どうしてもって引き下がらないし、金もたっぷりもらったからまあいいかと思って乗せることにした。一応用心するようには云ったが……」

「じゃあ今すぐ船を出してください。我々も髑髏島へ向かいます」

「それは駄目だ。見ろ、この波を。これからもっとひどくなるぞ」

 吉岡との会話の間に天候はさらに悪化していた。海は荒れ、風もだんだん強くなっており、いつ雨が降り出してもおかしくないほど分厚い黒々とした雲が空を覆っている。

 だが、しかし……。

「ちょっとカクさん、いきなりどうしたっていうんです。今から島に行くのはどう見たって無理ですよ」

「……娘なんだ」

「え?」

「そのフリーライターは若い女だったでしょう?」

「若い女……派手な人か?」

「いや、眼鏡をかけていてどちらかというと地味目の」

「ああ、あの子かい。島に行くのに積極的だったのは雑誌の副編集長だったと思うが、その子もここまで来たのだから、是非乗せていってくれという感じだった。そうか、あんたの娘さんなのか」

「そんな……でも心配することないですよ、カクさん。この漁師さんが云ってたみたいに宇賀がいること自体半信半疑なんです。それに一月もあの島にいたとしたらもう力尽きて死んでいるかもしれません」

 だがもし生きていたら?

 真っ暗な洞窟で息を潜め、誰かが来るのをじっと待っていたら?

 しかしこの天候では船で行くことはできないし、噂程度でヘリを出せるわけもない。おまけに髑髏島は電話も通じないのだ。

 つまり、私には娘の無事をただ願うことしかできない。

「大丈夫ですよ。十三日の金曜日だからって何か悪いことが起こるわけじゃありません」

 スケの云う通りかもしれない。

 深く息を吸って気持ちを落ち着かせる。そもそも宇賀がいなければ危険はないはずだ。

 私の心配をよそに今頃宝探しを楽しんでいるのかもしれない。

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