ひとつの終焉

 疲れた一日だった。

 そうため息を吐き出して、全てを締めくくりたくなるが、まだまだこれで終わったわけでもない。

 あの後、一旦家へと帰った私は何もろくに手をつけられないまま、彼の言う『その時』を待った。

 石炭雨は私の予想に違わず陽が落ちる頃にポツリポツリと降り始めた。

 もう夜も深い時間になろうとしているのに、なんで私は石炭雨の日のための真黒な外出着に身を包んでいるのだろうと思う。襟もとのフリルを整えながら見る鏡には、どこか沈んでいるように見える自分の顔が写っていた。

 もちろん、遅くになってから出かけることは父にも伝えてあった。ミスタ・ホームズに頼まれ、父は教授たちの家々を回っていたが、一度、必要な道具を取りに帰ってきたのだ。


「………………」


 その時もしかしたら、それは許さない、という言葉が返ってくるかと思った。

 けれど、父は「それは、彼が絡んでいることかね?」と聞いただけで、止めるようなことは一言も言わなかった。

 ……別に父に背中を押してもらいたかったわけじゃない。

 実際、今外出着に着替えたのは私の意志であり、それは自由の元に決定されたのだ。

 嫌だったらはっきりとそう言えば良い。

 おそらくその意志をミスタ・ホームズは止めはしないだろう。

 しかし、今回のことは最後まで見届けなければいけない。

 そんな感覚が私の中にはあった。

 自分が自発的にしたことはほとんどないけれど、それでも、どういう結末になるのかは自分の目で見届けるべきだ。

 ふと、自宅の前で馬車が止まったのが馬の足音で分かった。

 扉を叩く音。十中八九彼だろう。

 石炭雨を弾くための傘を持った私の頭に、再び教授たちの家に出向こうとする父の言葉が思い出された。


『アリス。これから君の前には様々な事実がつきつけられるだろう。最初はそれに戸惑うかもしれない。恐怖するかもしれない。だが、全ては自分で考え、自分で決めるよう、心がけなさい』


 そんな父に、私はゆっくりと問うた。


『それは……お父さんとしての言葉?』


 その質問に父は目を瞑って、静かにかぶりを振った。


『いや。この倫敦の街について多少のことを知っている、アーサー・コナン・ドイルとしての言葉だ』


 心の中で、決意を固めるように小さくうなずき、扉を開ける。

 そこには予想に違わずミスタ・ホームズの姿があった。


「さて、一つの怪異が終わりを告げる時間だ」


 外で待っていた馬車は二頭立四輪の大型箱馬車だった。

 車体にエンブレムこそついていなかったけれど、それは貴族たちが乗るような豪華なやつだ。向かい合うようにあつらえられた二人乗りの座席が二つ、合計四人が乗れるようになっていた。

 御者台には真黒なフード付きの外套を羽織った人が俯き加減で座っている。暗い中ということもあって誰なのかは分からないが、随分と浅黒い肌をした人のように思う。

 そんな私の視線に気づいたのか、その人は軽くペコリとこちらにお辞儀をした。慌てて私もお辞儀を返す。


「そいつはただの泥人形だ。挨拶した所で何もないぞ」


 ミスタ・ホームズが馬車の扉を開く。


「先に乗れ。あまり時間がない」


 馬車に乗り込むと、少し迷ってから進行方向に後ろ向きになる方の座席に座った。続けてミスタ・ホームズが乗り込み、私の対面に腰を下ろす。そして、彼が二度馬車の壁を叩くと、ゆっくりとそれは動き始めた。

 石炭雨の、それもこんな真夜中に出かけたがる人なんてまずおらず、通りには馬車はもちろんのこと、人影もほとんど見られなかった。

 そんな中、馬車は中央区から出る様子はなく、石畳の通りを車輪をカタカタといわせながら北上を続けている。

 しとしとと降り続ける石炭雨は馬車の屋根を叩き、私と彼の間に流れる沈黙を一層深いものにした。

 一体この沈黙をどう形容したら良いのか私はわからなかった。

 あまり親しくない人と二人きりの時に感じる、棘を含んでいるかのような沈黙ではなかったが、キャロと過ごしている時のような、ふんわりと包み込んでくれるような沈黙でもない。

 戦場に出向いたことなどもちろんないし、話としてしか戦争というものを聞いたことがなかったけれど、もしかしたら戦地へと赴く兵士たちはこんな沈黙を味わっているのかもしれない。

 今から向かう先で何が起こるのか私はわからない。

 しかし、彼は全てわかっているのだろう。そして、きっとそれは私にとって楽しくなるようなことでも、嬉しくなるようなことでもないに違いない。


「……ミスタ・ホームズ」


 気がついた時には、私はポツリと彼に問いかけていた。

 彼は私の言葉に一瞬だけこちらに視線を送ったが、肘であごを支えたままで、目線を私に向けようとしない。すぐに黒い雨が打ちつける窓へと視線を戻す。

 そして、いつもにも増してぶっきらな口調で、


「なんだ?」言った。


 そんな様子に、このまま言葉を続けるべきかどうか逡巡したけれど、ここで言葉を切っても違和感だけが残るだろう。意を決して言葉を紡ぐ。


「一つ、聞いて良いですか?」

「俺に答えられることならな」

「これから起こることなんですけれど……」


 言いながらも、この言葉はやっぱり逃げなのだと頭のどこかで声がした。

 今、彼に連れて行かれているから私はここにいる。そう言えば何もかもの責任を負わなくて済むかもしれない。だが、今ここにいるのは他ならぬ私自身が選んだことだ。


「私は逃げちゃいけないんですよね?」


 その言葉に、ミスタ・ホームズはゆっくりと目を閉じた。


「そうだ、リトルバード。この寵愛都市、幻想都市、幻影都市から、お前は逃げちゃならない。いや……もはや逃げられないと言った方が正しいかもしれないな」

「逃げられない、ですか?」

「ああ。ここまで立ち入った以上、お前がアリス・リトルバードであり、これからもアリス・リトルバードであり続ける限り、それはもはや変えることの出来ない運命のようなものだ」

「………………」


 それ以降、ミスタ・ホームズは口を開かなかった。

 ほどなくして馬車がたどり着いたのは、一本の細い路地だった。

 ミスタ・ホームズは石炭雨など全く気にしない様子で馬車から降り、私は傘を開いて馬車を降りた。一言二言、ミスタ・ホームズは御者台に乗っている外套の人と言葉を交わしたかと思うと、ちらりと私を見やってから路地を歩き出した。

 この通り自体は知らないこともなかったけれど、こんな遅い時間の、しかも石炭雨が降っているような時に来るのはもちろん初めてで、そうなるとまるで知らない都市に迷い込んでいるような心細さがあった。

 差した傘をぎゅっと握り、ミスタ・ホームズからあまり離れないように歩く。

 彼はいつの間に用意したのか紙巻き煙草をくわえて、口から煙を吐き出していた。石炭雨が降ってはいたがそこまで強くはない。つけた火が消えるほどではないのだろう。

 五分ほど歩いたところで、彼は今歩いている路地よりさらに細い、普通に生活していたらまず気づかないのではないかと思えるような路地へと入っていった。私もこんな裏通りに来るのは初めてだった。

 建物は建っているのだが、こちら側を向いている窓は少なく、中にはいつ頃建てられたのか……それこそ、倫敦大火以前よりあったのではないかと思えるような建物まである。

 そして、その道を少し行くと、降り続く石炭雨や私たちの足音とは違う音が混ざっていることに気がついた。

 何の音だろう?

 歩みを止めて周囲を見渡す。

 私が止まったことに気がついたのか、先を行くミスタ・ホームズも足を止めてこちらを振り返った。

 水分を多く含んだ空気を通して聞こえてくる音は、けたたましい獣の喚声のようにも、小さな虫の鳴き声のようにも思える不思議な音だった。


「もう奴はここに来ているらしいな」


 ミスタ・ホームズが紙巻き煙草を細路地に吐き出した。

 革靴でそれを踏んで火を消し止める。


「それじゃあ、この音は……」

「ベッティとやらのものに違いないだろう。他の誰かがここに来るとも考えられない。それに何より、ジオラマがここを示した以上、それ以外の事象が起こるわけもない」


 コートに手を突っ込んだまミスタ・ホームズが歩を再開し、慌てて私もそれを追った。

 そして近づけば近づくほどその不可解な音は大きくなり、次第にそれが笑い声であることに気付かされた。ただ、笑い声は笑い声であったけれど、きっとその声は笑ってはいなかった。

 まるで誰ひとりとして救われることのない散々たる哀歌を歌っているかのような声。

 この世界にただ一人残され、いつ終わるともしれない絶望の演劇を演じているかのような声。

 それに私は胸が締め付けられるような思いがした。

 どうしてこうなったのか?

 どこでこうなってしまったのか?

 わからない。

 わからないけれど、きっとそれはこの都市が出来てから既に決まっていたことに違いない。

 そして、私と彼の前に、その人物は現れた。


「イーヒッヒッ! イィーヒッヒッヒッヒ……ハッハッハッヒィ!」


 狂ったように笑いながら、この石炭雨の中、真黒に全身を汚した人間の姿がある。

 ……いや、それはもう人と言うには少し手遅れだったかもしれない。

 周囲の空気が一気に張りつめ、途端に、ただ呼吸をするだけのことがとても困難なことのように思えた。肺が委縮し、特別に意識をしないと空気を取り込むことが出来なかった。

 少なくとも私は彼のようになってしまった人を二人と見たことがなかったし、父について歩いていて出会ったことのある、精神を病んでしまった人でも、ここまで人間でない何かを感じさせる相手はいなかった。

 もしかしたら、これは一種の本能的なものと言っても良いのかもしれない。カエルがヘビを前に身動きが出来なくなるのと同じに、鋭い牙を持った猛獣を前にすれば人は自然と縮こまる。

 それは、今までの知識からくる怯えじゃない。

 自分の中に刻まれた人間の本能ともいうものが目の前の相手の兇悪さを感じ取り、思考とは無関係に身体を支配してしまうのだ。


「僕はやったぞ。やったんだ! 全部全部! 全てをやり遂げた! 全てが思いのままだ!」


 そして今、私の目の前にいる相手から感じ取る何かに、身体は意志とは関係なく後ずさっていた。


「あれは……?」

「ベッティ・ハイドリッヒ……もはや、そうだったもの、と言った方が正しいな」


 私の体の半分が、大きなミスタ・ホームズの背に隠れる。

 彼が私を守るように動いてくれたのだ。それだけでも幾分か呼吸が楽になるのがわかった。

 もし……という思考があまり意味のあることとは思えなかったが、それでも、もし私が一人で彼と対峙しなければならなかったら、私は意識をとうの昔に手放していたかもしれない。

 そんな私たちの姿を見つけて、彼のぎょろりと剥いた目玉が動く。


「……何だ? 何だ、お前たちは?」


 そう言ったかと思うと、彼は身体をこちらに反転させ、


「――っ!!」


 凄まじいスピードでこちらに跳ねる。

 思わずぎゅっとつぶってしまった目に、ガギンという鈍い衝突音が聞こえてきた。

 おそるおそる目を開く。

 ベッティ・ハイドリッヒの手には一振りの鋭利な匕首。

 ミスタ・ホームズは振り下ろされたそれを、リボルバーの拳銃の腹で受け止めていた。


「随分と手癖が悪いみたいだな、ミスタ・ハイドリッヒ」

「お前は僕の邪魔をするのか? 許さない……許さないぞ、そんなことはっ!」


 言うが早いか、ベッティ・ハイドリッヒが匕首で拳銃を弾き、今度はその刃をミスタ・ホームズ向かって突き出してくる。彼はその一撃を、私をかばうようにしてかわした。

 僅かに刃先がコートをかすり、ケープに一筋の切れ込みが入る。

 ミスタ・ホームズはそれに小さく舌打ちをすると、


「ひゃっ!?」


 私を片腕で包み込むように抱き上げ、大きく後ろにステップを踏んだ。とっさのことに傘を手放してしまい、路地に開いた傘が転々と転がった。

 そんな私たちに対してベッティ・ハイドリッヒが素早く距離をつめてくる。

 その速さはもはや人のそれとは言えなっただろう。

 牙をむき出しにした獣のような気配。

 背筋が粟立ち、身体中の細胞が警鐘を激しく打ち鳴らす。

 そんな、今にも腰を抜かしてしまいそうな私を守るようにミスタ・ホームズは立ちはだかった。

 相手の行動を先読みしていたように、再度突き出された匕首を拳銃で受け止める。

 二つの金属がせめぎ合う、ぎりぎりとした耳障りな鈍い音が路地に響き、火花を散らさんばかりだった。

 同じ荒々しさでも、ベッティ・ハイドリッヒとミスタ・ホームズでは天と地ほどの差があっただろう。

 深い闇であるのは間違いなかったけれど、包み込んでくれるかのようなそれは今までに覚えたことのないような安心感を与えてくれた。


「くそっ!」


 こう着状態に焦れたベッティ・ハイドリッヒが匕首を引き、デタラメに何度も突き出してくる。

 目で追うことすら難しい速度であったが、ミスタ・ホームズはその全てを受け切り、最後の一撃を大きく横になぎ払った。


「っ!」


 その流れに、ベッティ・ハイドリッヒがバランスを崩す。

 ミスタ・ホームズはその一瞬を見逃さない。

 流水のような滑らかな動きで身体をしならせると、勢いをつけて彼の胴を蹴りつけた。

 鈍い音と共にベッティ・ハイドリッヒが人三人分は後ろに飛ばされる。

 そして、ミスタ・ホームズはそのまま拳銃の銃口を向ける。

 発砲音。

 しかし、寸前のところでベッティ・ハイドリッヒは身体を跳ねさせて銃弾をかわす。煉瓦造りの路地に小さな穴が穿たれる。

 再び二人が睨みあう。

 ミスタ・ホームズはいつもと何ら変わらない様子だったが、ベッティ・ハイドリッヒはその肩を大きく上下させ、敵意をむき出しにした呼吸を繰り返した。

 そして獣のように吠えたてる。


「何故だ! 何故僕の邪魔をする!?」

「何故?」


 はん、と嘲るようにミスタ・ホームズが言う。


「簡単な話だ。それはお前がこの幻想都市に必要とされなかったからだ」

「お、同じ癖にっ!」


 ぎらつく視線がこちらに向けられ、私は肩を縮こまらせた。


「そこの女も同じだろう!? わかる、今ならわかる! そこの女も同じだっ! なのに何故僕だけがっ、僕だけが邪魔をされるんだっ!?」

「私も、同じ……?」


 その言葉に、私は自分の脳に焼きついた火箸をねじ込まれたような灼熱を感じた。


「そうさっ! お前だってこの幻影都市と無関係じゃないんだろう!? 深く関わっているんだろう!? 同族だっ! 僕と君は同じ存在さ! そうだろう、永遠の少女!?」


 その言葉に、頭がズキンと痛む。

 永遠の少女……?

 その言葉に、まるで頭の血管が直に脈打つようにドクンドクンと音を立てた。

 忘れている何か……忘れてはいけない何かを忘れているような……もう遠い昔に失くしてしまったはずの記憶がよみがえるような、まるで古くサビついてしまった歯車が歪な音を立てて回り始めるような、そんな感覚。

 私は思わず頭を押さえて、顔を大きく歪ませた。


「惑わされるな」


 ミスタ・ホームズの言葉に、一瞬失いかけていた意識が戻ってくる。


「一度に思い出そうとすればキャパシティを超える。頭がパンクするぞ」


 その言葉は彼と出会ってから最も優しい口調だっただろう。

 彼の大きな手が私の頭を二度、あやすかのように叩くと、温かい手に頭の痛みが吸い取られるかのように和らいだ。

 それを確認したかのようにしてからミスタ・ホームズは顔をベッティ・ハイドリッヒへと向け直した。


「一緒にするな、幻影に呑まれた小僧風情が。俗物的なお前と、幻影都市の少女が同じ存在であるはずがないだろう? それとも何か、お前は夜空に輝く雄大な月より矮小なワンペニー硬貨の方が価値があると思うのか? そんなんだからこの都市に必要とされないんだ」

「うるさい! うるさいうるさいうるさいっ!」


 目をむき、ガンガンと苛立ったように地面を足で踏み鳴らす。


「邪魔はさせない! させないぞ!」


 足が地面を蹴る。

 そのスピードは先ほどより幾分も早く、距離はあっという間になくなった。

 袈裟がけにベッティ・ハイドリッヒの右手が迫り、ミスタ・ホームズは先ほどと同じように拳銃の腹で受け止めようとしたが――


「!」


 ベッティ・ハイドリッヒの右手に匕首は握られていない。

 フェイント。

 顔がにやりと、古壁に浮かび上がった染みのような気色の悪いものへと変わる。

 拳銃の直前でピタリと右手が止まり、匕首の持たれた左手が左下から繰り出された。


「ミスタ・ホームズっ!」


 堪らず叫び声が口から飛び出す。あんな鋭利な刃物が深々と刺さってしまえば、それは命に直結する。

 頭から一気に血の気が引く。

 だが、匕首が深々と突き刺さる前に、ミスタ・ホームズの大きな身体が宙に舞った。

 下から突き出される動きに逆らわず、身体をまるで独楽のように回転させる。

 そして、その勢いを殺さぬままに右の足が蹴り出され、ベッティ・ハイドリッヒの頭部にヒットした。


「がぁ……っ!」


 強烈な一撃に、ベッティ・ハイドリッヒの身体が叩きつけられ、朽ちたゴムボールのように地面を転がる。

 その機を逃さず、ミスタ・ホームズは拳銃を素早く撃ち抜いた。


「――――――っ!!」


 声にならない悲鳴。

 ベッティ・ハイドリッヒの手から匕首が落ちて、彼は右肩を庇うようにしながら、痛めつけられた芋虫のように地面に転がっていた。

 頭部へのダメージもあってか、まともに立ち上がれないようだったが、それでも顔をこちらに向けたまま、獣のような呼吸を繰り返している。

 そこで私ははっと我に返った。

 慌ててミスタ・ホームズの傍にかけ寄る。

 常人離れした動きで匕首の直撃は避けたようには見えたけれど、あの速度で繰り出された刃物を無傷でかわせるとも思えなかった。


「ミスタ・ホームズ、怪我は……」

「心配するな。少しばかりかすっただけだ」


 そう言って彼が自身の脇腹に視線を向ける。

 コートと中のスーツが切り裂かれ、男性特有のしっかりと筋肉のついた身体が露わになっていた。

 しかし、血の類は出ておらず、刃物が肉を切った様子もない。

 彼自身に傷がないとわかって、心の底から安堵の息がもれたのがわかった。


「よかった……」

「ハイドリッヒの踏み込みがもう少し深かったら傷をもらってたな。少しばかり身体がなまったらしい」


 言いながら拳銃を検め、どこも破損していないことを確かめると、ミスタ・ホームズはそのまま拳銃を、転がったままのベッティ・ハイドリッヒに向けた。

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 戦いの決着はついたはずだ。

 けれど、このままミスタ・ハイドリッヒを逮捕して終わるようなものでないことは、頭ではなく身体が、そして心が感じ取っていた。

 殺人なんて、そんなことをさせちゃいけない。そんなことを見逃しちゃいけない。

 そう思いながらも、身体は動こうとしない。


「……殺すんですか?」


 蚊の鳴くような声。

 辛うじて出てきた私の言葉に、ミスタ・ホームズは照準をベッティ・ハイドリッヒに合わせて言葉を返してきた。


「殺すのではない。失くすのだ」


 次の瞬間に響いた銃声は、幻想都市を覆い尽くす黒い雲の中へと吸い込まれるように消えていった。

 放たれた銃弾は頭からベッティ・ハイドリッヒを穿ち……そして、まるで灰塵が風に吹かれて霧散していくように、彼の身体を消滅させた。

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