第7話 大いなる失望がくれた希望

 まるで群雄がひしめくように、三国志関連の書籍が私の手元に引き寄せられたかと思いきや、その実、私が三国志の英雄達の魅力に引き寄せられていた。


 三巻の小説だけでは物足りなくなっていた私は、川本喜八郎氏の「人形劇三国志」や、全六十巻ある「横山三国志」に没頭した。


 幸い、父も横山三国志にハマったので、私のお小遣いと、父の機嫌の良さが上手く噛み合うと、鉄鎖連環の計で燃えた炎の勢いで読み進めることが出来た。

 

 本を読めない授業中はそれまでの内容を復習するかのように、脳裏に焼き付いた三国志の世界に遊びに行っては、妄想や想像を膨らませ、悦に浸っていた。


 だが、そんな牧歌的な生活も「とある現実」を前に、いとも簡単に終焉を迎えてしまった。


 その一大事が起きたのは、気付けば私の部屋にあるカラーボックスは三国志専用となっており、さらにふと我に返れば、所狭しと押し込められた三国志関連の書籍の背表紙の大半が「諸葛孔明」に埋め尽くされていると認識するようになった頃だった。


 内容が難解そうでも、少しでも好きな人の情報を得るように、近づけるように夢中になって関連書籍を買い漁った結果、大勢いる英雄たちの中でも、無意識のうちに諸葛孔明先生に惹かれている自分の存在を胸の高鳴りと共に知った。


 そんな時である。

 それを待っていたかのようにタイミングよく、中国ドラマ『諸葛孔明』が日本に上陸した。


 陳舜臣氏が内容から文化考証に至るまで、大絶賛したほどの作品である。

 言語化できない感動を覚えたのは言うまでもないが、それ以上に私が強く感じたのは自分への失望と悔しさだった。


 その理由はたった一つ。

「彼らの話している中国語が、ただの一言も分からない」

 当たり前すぎる現実を思い知らされたからである。

 

 まだまだネット社会とはかけ離れていた三十年前。当然のことながら、学校の義務教育で学ぶのは英語。

 学校の授業で中国語は教えていないのだから、他に自主的に学べる場はない。

 一度も、一言も学んだことはないのだから、一言も中国語が分からないのは当然のことではあった。が、どんなに大好きでも、愛や情熱では超えられない現実があると思い知った。


 そんな地球規模の常識が、ただただ悔しくて、悔しくて仕方がなかった。


 こうして、それまで何となく抱いていた三国志英雄達への淡い妄想と、興奮は現実の壁を前に脆くも崩れ去った。


 あんなにも妄想の世界で楽しく話していたはずだったのに、それは机上の空論と変わらなかったことに愕然がくぜんとした。


 だが、この大いなる失望は

「今この人生を自分の手で終わらせて、仮にあの世で孔明先生と会えたとしても、中国語が解らないから、一言も話が出来ない!」

 イジメがどんなに辛くても、死んだところでその先には何もないことに気づかせたのだった。

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