第7話

 あたしはライラという名の平民で、貴族のお屋敷に務める使用人で、つい最近になって自分の目の悪さに気付いたバカな女です……。

 目の悪さというのはもちろん例え話で、視力のことではないのですが、このことは非常に大事なことなので深く心に刻んでおかなくてはいけません。人の価値というのは、表面的なことや、他人の噂などで測ってはいけない。真の傑物というものは、凡人がその価値を簡単に把握できるはずもないのですから。

 

 この話は、あたしの働いているお屋敷に関すること。男爵位の貴族であるコレオ家の次男アル様についてです。

 あたしには難しいことはわからないのですが、コレオ家はその位以上に権力を持っている貴族だと、雇っていただけることになってから色々な人に言われました。その一員であるアル様は、十歳ながらにそうしたことを理解していたようで、同位の貴族子弟の方々に対しても高圧的に接する方でした。そしてそれは使用人ごときに対しては、より苛烈なものであるのは当然でした。

 とはいえ、子供のわがまま程度のことであって、いうほどの無体もされてはこなかったようですが、それもこれも“今はまだ”という話になってきます。つまるところ、新人のあたしにもわかるくらいに、使用人たちはこれからのアル様に不安を抱いていたのです。

 

 その不安がはっきりとした形になったのが、あの日のことでした。近頃急に大人しくなり、ご当主様に勉強のための本をねだったという話を聞いてその変心ぶりに不安を感じた先輩たちは、あたしに様子を探ってくるよう命令したのです。

 新人で、気が弱く、また頼まれると断るのが苦手という性分のあたしは、普段から先輩の分の仕事を代わるよう命令されることもあったのですが、この時ばかりはあたしも一度断りました。なにせ、紛れもない貴族子弟です。密偵の真似事のようなことをして、大事となれば最悪首が飛んでもおかしくありません。首がというのは、例え話じゃなくて言葉通りの話です。

 

 しかし、結局断り切れず、あたしはアル様の部屋まで行ったのです。とぼとぼとゆっくり歩いていったのが、せめてもの抵抗のつもりでした。

 

 「アル様、ライラです……」

 「いいよ、入って。……どうしたの?」

 

 え?

 遠慮がちに扉を叩いた後で聞こえた声の柔らかさに、あたしは驚きました。入室してすぐに掛けていただいた声も、やはり先ほどと同じ温度であったことを確認して、驚きは動揺に変わりました。

 まるで優しいみたい……、そんな不敬なことを考えている間に、一旦その場を離れようと試みたはずです。……はず、というのは、よく覚えていないから。先輩の命令もこの時点まではなんとか遂行しようとしていた気がするのですが、細かい部分は曖昧です。

 

 それほど動揺していた、ということですが、それもその後の出来事で全部吹き飛んでしまいました。

 

 「味見していってよ」

 

 その言葉とともにあたしへと差し出されたのは、クッキーです。クッキーは知っていますし、食べたこともありました。しかし違うのです、これは貴族の方が口にするクッキーなのです。

 

 「え? え? え!?」

 

 混乱の極みにあったあたしですが、手と口は勝手に動き、気付けば“それ”を咀嚼していました。

 

 「もぐ……あぐ……、あ、あまぁい……」

 

 知りませんでした。クッキーというのはしっとりとしていて芳醇な香りがするのです。あたしがこれまでクッキーだと思い込んでいたものは、ぱさぱさとして、多少の香ばしさはあっても香りといえるほどのものはありませんでした。

 

 その後のあたしの行動は迷いがなく、素早いものでした。当然です、あたしは決めたのですから。

 もういじわるな先輩のことなど知りません。コレオ家への忠誠心なんてものも……元より大してありませんでしたが……どうでもよいのです。あたしはアル様に尽くすために生まれてきたのだと知りました。

 

 お茶をお持ちした際に、アル様から頂いたさらなるご褒美クッキーによって、その決意はより確固たるものとなりました。この先のアル様の進む先が例え地獄の底であったとしても、あたしはお供するのです。地獄を支配するという大悪魔の頭を叩いてこいといわれれば、一秒も迷うことなく実行するでしょう。

 ……もちろん、そんなのは例え話ですけどね。優しい声音で話すアル様の目が、ふとした時に以前よりもずっと冷たく感じられたのも、真のご主人様に出会えた幸せが大きすぎたが故の気の迷いに決まっています。こんなに素敵なアル様には、これから先、幸せな未来だけが待ち受けているはずですから。

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