■28 終末装置
「そのまま沈めちまえ!」
膝をついたフォルカを、ノーマが掬い上げるように立たせて、馬へ走る。誰かが泥に巻き込まれたら、ノーマが担いだ〈沼裂きの櫂〉で救い出す予定だったが、その必要はなくなった。馬を全力で走らせてその場を離れる。
馬の背に揺られてもフォルカの集中は途切れない。暴れる黒狼に泥が幾度も絡みつき、引きずり込む。そこへ、巨大な矢が轟音と共に飛来した。
巨人矢と呼ばれるその柱のような矢は、コナドの街の城壁に据え付けられた大型弩から放たれる兵器だ。泥に沈め、矢で穿つ作戦だった。
「これで、終わり? ……狼さん」
シュトゥのつまらなさそうな呼びかけに、黒狼が吼えた。
的確に狼を狙った巨大な矢を――あぎとを開き、噛み砕く。ばぎり、と、鉄で補強された丸太のような矢が砕かれる音が草原に響いた。
黒狼は首を振るって矢の破片を散らすと、柔らかな泥を強く蹴り、水面から跳ねる魚のような勢いで、飛び出した。
「なっ……!?」
驚きの声は、誰が上げたものだったか。馬を駆けさせて距離を取ろうとする四人へと、数歩で追いついた黒狼は、大きくあぎとを開いて襲い掛かる。狙いは最後尾にいたフォルカだ。
コーエンが巧みに馬を操り、フォルカの騎馬を押しのけて、牙の前に立ちはだかる。態勢は整っていないが、斜め後ろに鋭く剣を振るった。
その腕が、剣ごと、噛み砕かれた。
「ぐぅッ……!!」
薄い鋼の手甲がばぎりと耳障りな音を立てる。肘から下を、かじり取られた。
悲鳴を抑えたのも、逆の手で握った手綱を手放さなかったのも、胆力というほかない。馬は嘶きながらも、生命の危険を感じて真っ直ぐに走る。
「コーエン!」
「クソ狼がッ!!」
「あははははっ! 国をふたつ食べちゃった狼さんに、たった四人で敵うと思ったの? お馬鹿さん!」
黒狼が首を振り、剣を握ったまま奪われたコーエンの腕を振り捨てる。猛る黒狼を誇るように、少女の哄笑が草原に響いた。
ノーマの乗馬は乗るのが精いっぱいで、コーエンほど自在には操れないが、何とかフォルカの後ろにつけた。背に携えた櫂を掴み、思い切り黒狼へと叩きつける。
ばぎり。
大木が折れるような、破滅的な音は、黒狼が〈沼裂きの櫂〉を噛み砕いた音だった。
ノーマがバランスを崩し、馬にしがみつく。
圧倒的な暴力。
逡巡も決断も許さず、黒狼は数歩でフォルカへと追いつく。跳躍。前足の爪が担いでいた鞄を切り裂き、フォルカの背を浅く傷つける。『終末抄』を収めた箱が鞄から草むらへこぼれ落ちた。
フォルカの表情が蒼白になり、痛みなど忘れて叫んだ。
「本が!!」
三人の対応は、いずれも失敗に終わった。
決断する時間が与えられたのは、マティアスだけだった。
「走りなさい!」
腰に下げた小箱を叩く。内部に火打石と火種、油が仕込まれた小箱は、その内側に火を呼んだ。本を燃やすための……本来は使わないつもりであった……準備であった。
『終末抄』の箱が落ちた辺りへ、火を投げる。朝露に濡れた草が、油をまとった炎に舐められ、燃え上がった。
フォルカが動揺したためか、沼と化した場所は魔術の影響を脱して元の地面に戻っていく。草が沈み、草原にぽっかりと茶色の土があらわになっていた。
「本が燃えちゃう! 狼さん!」
黒狼は、目の前の獲物よりも、『終末抄』を優先することにしたようだった。その隙に、四頭の馬はコナドの街を目指す。
敗北だった。
何一つ、勝利につながるものはなかった。
▼
「あつ……っ。ありがとう、狼さん。表紙は少し焦げたけど、中は大丈夫そう」
ノーマたちが逃げ去った草原のただなかで、シュトゥは本を開く。黒狼が何度も踏んで火を消し、小箱の中から救い出した『終末抄』だ。
ヒトの危機など素知らぬ顔で降り注ぐ陽光の下、シュトゥはぱらぱらとページを捲り、文字の羅列を目で追う。
少女の隣で、黒狼は体を丸めて座り込んでいた。ちろちろと、火を踏んだ前足を舐めている。
『終末抄』は、そう厚い本ではない。太陽が傾くほどの時間もかけずに読み終えた。
「ふ、ふふ、ふ」
シュトゥが笑う。胸に本を抱き、そのまま黒狼の懐に倒れこんで抱き着いた。
硬い、漆黒の毛並みに頬を寄せ、口づける。
「やっぱり、狼さんにぴったりのご本だったわ。この本に書いてある『獣』は、世界を全部食べちゃうんだって!」
上機嫌に笑うシュトゥが、瞼を閉じる。
魔力が、少女を中心に渦巻いた。魔術に長けた
開かれた『終末抄』のページが輝く。
黒狼の身体へと集まった魔力は、色を持っていた。闇だ。漆黒ですらない。光を吸い、何も照り返さない、ただただ黒い闇の色。
闇色は黒狼を包み込み、寄り添う少女を飲み込んで、膨れ上がる。どくん、どくん、と鼓動するようにその大きさを増していく闇は、全体として丸みを帯びていて、まるで繭のようだった。
馬を必死に走らせて街に帰り着いた四人は、市壁の上に登っていた。成り行きを見守っていた多くの市民と共に、それを見た――市壁と同じ高さにまで育った、闇の繭を。
そして……繭から現れた、黒の獣を。
「なんだ、あれは……?」
誰かが呟いた言葉は、その場にいた全員の感情の代弁だった。
闇色の繭から、獣らしき影が現れた。四つ足と尻尾を持っていることは分かるが、全体の輪郭は揺蕩っていて不安定だ。目もなければ、口もない。幼児が黒の絵具だけで獣を描けば、似た外見になるだろう。
黒い獣は一頭だけではなかった。二頭、三頭、十頭、百頭、瞬く間に数え切れぬ獣が繭から現れて、街へ向かって駆けてくる。大きさは遠目にはわかりにくいが、ちょうどヒトと同じ程度の大きさであった。
街から見えるところに、数匹の羊と、羊飼いがいた。黒い獣に気付いた彼らは逃げようとしたが、すぐに追いつかれて、群れに飲み込まれた。
後には、何も残らなかった。
「ひっ……こっちに来るぞ!」
「門は開けるな!」
すでに、市壁の門は閉じられている。堅固な大門に、しかし、黒の獣は突っ込んでは来なかった。
市壁に沿うようにして、獣の群れが走っていく。僅かな時間で、市壁はぐるりと取り囲まれた。取り囲む群れは十重二十重に増えていき、やがて街の周囲を海のように覆ってしまった。
誰も逃がさぬと、言外に告げるような包囲網。
皆、見つめるだけで動けない。気が弱い者はその場で意識を失い、倒れる。あまりにも異様な黒の群れに、言葉を失っていた。
命令を待たず、市壁に取り付けられた大弩を放つ兵士もいた。矢は黒い獣に当たった瞬間に白い砂となって消え、何の効果ももたらさなかった。
フォルカが、膝をついて呟いた。黒の獣の正体を。
「――終末装置、貪食の獣」
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