あなたはふまん?

八年前、逢瀬くんの家に泊まった日のことだ。

雨が降りそうな夏の晩の空は、薄い桃色を帯びている。

寝室のベッドで眠りこけている逢瀬くんを放置して、わたしはキッチンに向かった。

冷蔵庫の中を覗けば、チョコレートバーや生クリームといったお前はそれでも体型維持が基本のアイドルかとツッコミたくなる。

食事制限や栄養バランス皆無の不摂生な食生活が垣間見えてショックで気絶しそうになった。

空のまま放置された卵のパックが視界に入り、これ以上見たら精神衛生上大変宜しくないと判断し、冷蔵庫のドアを閉める。

動揺しながらも場所を移動して、戸棚を漁ること早数分。


唯一賞味期限が切れてない食材として、未開封のパスタを見つけた。

「具なしパスタか……」

わたしはがっくりと肩を落としながらも、魔窟と化してる冷蔵庫を再度開けて、辛うじて使えそうな調味料をかき集める。

箱だけ開かれたバター、ボトルの凹んだケチャップ、ラベルすら剥がされていないタバスコ、使いかけのチューブニンニク、残量的に一番使われた形跡のある塩、それらを駆使して即席でなんちゃってナポリタン風を作ることにした。

悲惨な冷蔵庫に反して、料理する気持ち自体はあったのだろうか。

意外なことに、最低限の調理器具は揃っていた。


「甘奈ちゃぁん……なーに、イタズラしてるのー?」

コンロの火を止めたタイミングで、蜂蜜よりも砂糖よりも甘ったるい声と共に背中から抱きしめられる。

逢瀬くんはフライパンの中身を見ると、勢い良く抽斗を開けて、わたしにフォークに握らせてきた。

小鳥の真似をした逢瀬くんが、口をパクパクして「はい、あーん」を待つ。

それを少し見つめていたら、逢瀬くんが拗ねたように頬をむくれさせたので、慌ててフォークを動かした。

わたしが口に運んだフォークをパクンと咥えて、もぐもぐと咀嚼する。


それから、喉が詰まるんじゃないか心配になるほどのんびり飲みこんで、逢瀬くんは人形のような空っぽの目つきで笑う。

時折見せてくる逢瀬くんのその笑顔は、反対にわたしの喉を詰まらせそうにする。

「……逢瀬くん、毎日の食事を見直しなさい」

「なんで?なに食べても同じだよ。あ、でもこのケチャップパスタは美味しい。ありがとうね、甘奈ちゃん」

「冷蔵庫を見たわ。普段なに食べてるのよ。あれじゃ不健康。病気になる」

「ふーん……甘奈ちゃんは食事に気を使う俺の方が好き?」

「……ええ。そうね」

機嫌良く肩を揺らし、逢瀬くんは戸棚からパスタを盛りつける用の大皿を出した。


わたしが結婚を決意したのは、逢瀬くんと仕事をしていくうちに彼の抱える生きづらさについて真面目に考えた結果だ。

うちの事務所はファンに対して隠し切ることができるなら恋愛禁止はしていない。

人間は誰しも、自分の為に行動する事しか出来ない。

どう足掻いても心が備わっているという前提の段階で、欲望があらゆる行動の根底の土台に組み込まれ、無償は不可能だ。

けれど、彼をコントロールしやすくする為に受け入れた恋愛ごっこは、わたしの中に燃え盛るような恋愛感情こそ産まずとも、いつの間にやら火にあてられて朽ちた灰のような情を遺していたらしい。


憎しみが愛に変わる瞬間があるように、利己的な動機から始まった関係が慈愛に満ちたものに変わるときはくるのだろうか。

仕事の関係上で挙式なんてしなかったけど、逢瀬くんがアイドルを引退し、結婚して夫婦になったばかりの一年間はまだわたし達の関係は安定していて、もっと対等だった。

幸せだった、はずだ、少なくとも今よりは。

リビングの窓からも見える一軒家近くの桜並木が、雨に濡れて白い花弁を落とし始めている。

十日後くらいには裸になりそうだ。

事務所から帰宅して早々、食欲を促進する良い匂いが室内に広がっていた。


逢瀬くんは料理をする際はいつも換気扇をガンガンにかけているが、それでもキッチンから匂いは広がっている。

わたしは小洒落たポーランド製のダイニングチェアに座り、ペペロンチーノを載せた四角いテーブルの前で手を合わせ、いただきますを言って食事を始めた。

クルクルと銀のフォークに巻きつけ、大きなパスタの塊を口の中に放り込む。

刺激的なニンニクの香りと隠し味程度に加えられたバターの香りが堪らない。

シンプルだからこそ、いくら食べても飽きない味だ。

今の逢瀬くんは身内贔屓を抜きにしても下手な調理師よりも料理が上手いだろう。


元々の気質として手先が器用なことに加え、完璧主義で凝り性なのだ。

結婚してからはキッチンの全権は逢瀬くんに託している。

その結果、家には下手なレストランの厨房よりも多くの種類の調味料が取り揃えられていた。

「あ、甘奈ちゃん……」

結婚して専業主夫になってから、逢瀬くんはこれでもかというくらい家事をやって、徐々に家の中だと怯えたような言動が目立つようになり、精神が安定している時は昔より更に少なくなった。

わたしはやらせるだけ好きにやらせていこうと思いつつ、顔色を見てビクビクする彼を見ると微かな苛立ちを覚える。


目の前の椅子に座らず、こちらと目を合わせようとせずに、塞がりかけている自傷跡をさすりながらリビングの端に突っ立っていた。

「なに」

「あの、美味しい?俺はちゃんと上手くできてるよね。大丈夫だよね?ダメなら教えてね。頑張るからね。ずっとちゃんと頑張ってるから、ちゃんと出来るように。幸せになる為に」

「……ええ。わかってる。それに心配しなくても美味しいよ。逢瀬くんってば、また料理が上手くなったんじゃない?」

わたしが意識的に口角を上げても、逢瀬くんは笑顔になれるわけじゃない。

相変わらず俯いたまま、口は陰気に活動している。


そんな逢瀬くんにわたしは大きな溜息を吐きそうになり、眉間に皺を寄せて堪えた。

奪ってきたからこそ与えたい。

それなのに、与え方がよく分からなくなる。

自分の愛情表現の貧しさが悲しい。

そんなことを、一度も考えずに生きてきたのだ。

このままだと、嘘を吐くことで彼を縛って許されてきた今までと変わらないじゃないか。

安心して欲しくて、幸せをあげたくて、彼と結婚したのに。

「明日は、仕事で帰りが遅くなるから」

「あ、うん……。わ、わかった……」

「外で食べるから夕飯も要らないし、逢瀬くんは先に寝てて」

「うん……俺は甘奈ちゃんの言う通りにするよ」

そう答えた逢瀬くんは、妙に顔が寒色だった。

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