あなたはこども?

「えへっ、えへへへ、甘奈ちゃん、甘奈ちゃん、甘奈ちゃん」

夜の暗闇と冷たさは噓のように何処かへと消えて、眠る直前までは明日だったはずの日が、今日の姿に化けてやって来る。

壁にかかっている大仰な時代物の仕掛け時計を見れば、とっくに太陽が高く昇った爽やかな時刻。

七年前の五月、全国ライブツアーが一段落してから初の休日、逢瀬くんはベッドの上で甘ったれた声でわたしの名前を連呼し、ライナスの毛布のように掴んで離さない。

わたしの右肩に頭を載せて、天使の輪が浮いているサラサラの黒髪をグリグリとこすりつけてきた。

ご満悦な逢瀬くんとは裏腹にわたしは鼻の粘膜を負傷してダラダラと血を流している。


昔のギャグ漫画のように美少女のパンチラを見て性的に興奮したからではなく、逢瀬くんによって先程フローリングに顔面を強打したからだ。

逢瀬くんの家は完膚なきまでにからっぽで、寝室に至っては仕掛け時計とビジネスホテルのような真っ白いベッド以外に調度品が何もない。

どの部屋も天井はかなり高くて、それも手伝って家自体は異様に広く感じる。

家主の不在の日数と部屋の広さに反してきちんと清潔を保たれていて、この神経質加減は病院か何かを如実に連想させた。

じっとしているとちょっとだけ医者を待つ患者みたいな気持ちになってしまう。

そんな感じの目覚めも、今日で四回目になる。

閉めたカーテンの隙間から差し込む、眩い陽の光。


昨晩はスタッフ全員と祝賀会を兼ねた飲み会の後に、逢瀬くんの家で秘蔵のワインを開けてもらった。

どう考えても飲み過ぎである。

わたしは二日酔いで痛むこめかみを押えながら、一人暮らしにしては大き過ぎるベッドから四つん這いで出ようとした。

すると、寝相が悪過ぎて頭の位置が寝た時とは逆さまになっていた逢瀬くんに足首を掴まれて、わたしは不格好に顔から落下したのだ。

衝撃が鼻先から全身に伝わり、電流で痺れたように指先が痙攣して、しばらく身体を動かせなくなる。

「……起きます、痛え」

呟いて、わたしは冷たい床からゆっくりと身体を起こす。

足首からパッと離された手はしばらく何かを探しのたうち回るようにシーツを叩くと、お目当ての真っ白い枕を掴んで引き寄せた。


わたしは痛みにぐらつく思考回路で、鼻が低くなったらどうしてくれようと逢瀬くんを睨む。

当の本人は瞼を固く閉じ眉間に皺を寄せて、小さく唸りながら枕を抱きしめると頭を擦り付けたり顎の下に敷いたりして、丁度良いくらいの温かさを保ったベッドの感触に微睡んでいた。

逢瀬くんはオンオフの差がハッキリしていて、今日のようにスイッチが切れている時は退廃的な生活をしている。

わたしを転ばせたことに関して、本人に悪意は無いのだろう。

というか、寝ぼけていたのなら相手がわたしだと知覚できていたのかすら怪しい。

さて、ティッシュはどこにあるのだろうかと考えながら、わたしはベッドの上にそっと座り直して、ふかふかの毛布の手触りを堪能していると、逢瀬くんが寝返りを打った。


そして、うっすらと瞼を開く。

「あれ、甘奈ちゃんだ」

糸車の針に指をさした眠り姫ならぬ眠り王子様と化していた逢瀬くんはついに目を覚ましたようだ。

逢瀬くんはうとうとした無防備な目つきのまま、小さく欠伸をした。

「おはよう。逢瀬くん、ティッシュってどこにあるの?」

声をかけると、目の焦点が完全にわたしと合う。

逢瀬くんは勢いよく、ベッドからその大柄な半身を起こすと、エッグポーズで満面の笑顔をわたしに向ける。

意識の初期化と、スイッチの切り替えは、滞りなく完了したようだ。


「甘奈ちゃんだ!甘奈ちゃん!甘奈ちゃんだー!やったー!」

わたしに戸惑う暇すら与えずに逢瀬くんはがばと、わたしに抱きついてきた。

そして、冒頭に至る。

逢瀬くんは相変わらず、わたしの肩に顎を載せて、右腕をぎゅうぎゅう抱きしめて離さない。

「寝起きなのに元気だね。わたしはあちこちが痛いよ。あのワインって度数いくつ?」

「えへ、うへへへ。甘奈ちゃんが俺の家にいるのなんだかすごくうれしいな!」

「楽しそうで良いね」

「甘奈ちゃんはー、どうしたらずっと家にいてくれる?仕事中だけじゃなくてー、明日も明後日てもずっと甘奈ちゃんと一緒に居たいな!」


「それは無理。逢瀬くん、盛り上がってるとこ悪いけど、わたしの鼻血が止まらないことに気づいてる?」

逢瀬くんはわたしの台詞を無視して続ける。

「というか!甘奈ちゃん一緒に住もうよ!ね、ね!いい考えじゃない!どーせ、ここ甘奈ちゃんの家より広いでしょ!家賃も浮くよ!」

密着したまま、逢瀬くんの長い指がわたしの手に絡みついて恋人繋ぎのようになる。

まるで聞く耳を持たない逢瀬くんに早々と抵抗を諦めて、わたしは身を任せることにした。

血を流し過ぎて動くのが億劫になったとも言う。

逢瀬くんのはしゃぐ声を聞き流しながらその美しいかんばせを見つめる。

あの日、わたしが街中で彼を見つけた時から一切変わることのない天性の魅力。


唯一の間違い探しとして少しだけ、髪が伸びていた。

美容院に連れていくのも、そう遠くはなさそうだ。

「甘奈ちゃん、甘奈ちゃん」

ステージ上の毅然とした振る舞いが微塵もない、必死な呼びかけ。

無言ながら、髪を手櫛で整えるように撫でてそれに答える。

「甘奈ちゃんは俺のこと大事だよね?いつも助けてくれるもんね?」

「あなたはわたしが見つけた一番星だからね。マネージャーとしての契約を切られてしまっても、わたしはずっと逢瀬くん味方だよ。信じてよ」

「だよね!そうだよね……甘奈ちゃんは味方、甘奈ちゃんは味方……」

譫言のように繰り返す。


自身に刷り込むような発言に、口は挟まない。

「甘奈ちゃん、甘奈ちゃんは、俺とずっと一緒に居たいんだよね?甘奈ちゃんは俺が張間流星をすると嬉しいんだよね?甘奈ちゃんは俺を助けてくれる。出会った時もあの家から助けてくれた。初ライブに出た時も気持ち悪いスタッフから助けてくれた。いつだって一緒にいて俺を助けてくれた。ずっとずっと俺の味方だよね?俺がアイドルの仕事を頑張れば、甘奈ちゃんは嬉しい。それに、甘奈ちゃんは俺を見放さない。とうさんとかあさんとはちがう。甘奈ちゃんはとうさんやかあさんより愛してくれる」

「逢瀬くんはいつだって良い子だよ」

お茶を濁す態度を取る。

出血はいつの間にか止まっていた。

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