桜の花が散る前に
プリズム
プロローグ 手記(冒頭)
一九八八年 四月五日
――桜。
淡い紅や白の花を開き儚く散っていくそれを、日本人は穏やかで美しい春の象徴として思い描くことだろう。古来花王と称せられ、国花とも認められている桜が日本で最も美しい花だと云う声を聞いても、否定はしまい。
しかし、その名は私にとって少々特別な意味を持っている。私という人間とは切り離すことはできないのである。
私がその桜に対して違う印象を持つ日が来るなどとは思ってもいなかった。
が、しかし現実に事件は起こったのだ。
それは紛れも無い事実である。
今朝あの死体を私はこの目でしっかりと見た。
あれは悪夢の一場面などではないと、自信を持って云える。
罪のない――かどうかは私には分からないが、とにかく人が一人殺され、そして埋められたのだ。宙を見つめるあの虚ろな目は、もう何も捉えてはいなかった。
ああ、これではまるであの小説の通りではないか。桜の樹の下で死体が見つかるなどということが現実になろうとは、彼も想像だにしていなかっただろう……。
死体を発見したあの時、私は初めて彼が著したデカダンスの心理を理解した。
願わくは死ぬまで桜の美しいイメージを、私にとって特別で大切なそのイメージを汚したくなかったというのに。
しかしそれはもう叶わない。だからせめて、この事件が解決に向かうための手がかりを残しておこうと思う。
些事も逃してはなるまい。私などの先入観はなるべく挟まぬよう注意し、見たこと聞いたことをありのままに記述することが求められる。
それは普段、文章に触れる機会のない私にとっては、幾分大変な作業になるかもしれないけれど、これは必要な仕事なのだ。
昨晩の嵐で崩れた道が復旧すれば警察がやって来るだろう。その時この手記が捜査の一助となるようにしなければいけない。
これを見た捜査員たちの手によって事件が解決すれば、私の暗澹たる思いもいくらか晴れるに違いない。もし迷宮入りとなれば――。
そうなれば私たちが、生命の歓びで溢れる春を、幸せな気持ちで迎えることは二度とない。きっと魂がこの死の檻――〈桜村〉に閉じ込められたまま、生きていかなくてはならないのだろう。
そんなことは絶対に避けなければならない。もう一度、桜を清らかな心で見上げるためにも。
書き手が犯人を知らない以上、探偵小説の問題編のようになってしまう気がするが仕方ない。――事件を鮮やかに解決してくれる名探偵など、ここにはいないのだ。もしいたならば山を降りる頃にはすっかり安心していられただろうに……。
こう書いている間にも、自分の心が徐々に重たくなっていくのが分かる。あんなに好きだった桜が今は疎ましくさえ思われるのだ。
私たちがこんなに苦しんでいるのに、どうしてあの木は悠然と立ち、美しく花を咲かせ
ているのだろう。ひょっとしてあの桜がなければこんな事件は起こらなかったのではないか――。
そんな莫迦げたことが頭の中でグルグル回っている。
やはりあの美しさが死を引き寄せるのだろうか。だから彼は死ななければならなかったのだろうか。
そして生き残っている私たちのうち、誰かがまたあの木に呼ばれるようにして死んでいくのだろうか。
もしそうだとしても私にそれを止める術はない。誰にもできないのだ。
そんな無力感に心が押しつぶされそうになる。
いや、私の心持ちなどはこの辺りでもうやめにしておこう。今できることは事件を具に記すことだけなのだから。
ふと窓の外を見る。昨日と違って今日は静かな夜だ。だがそこに広がる暗さは、死を吸ったことにより、質の異なるものへと変貌してしまった。
この世とあの世を繋ぐ美しくも儚い門だけが、その姿を変えることなく、闇の中でひっそりと立っているのだろう。
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