2話「契約」

「混乱しておいでですか?」

「……」

「あの、なにか言ってもらわないと困るのですけど」

「……お前は」

「はい」


 メフィストフェレスはにこにこと笑っている。悪意のかけらも感じさせないところが真っ当に恐ろしい。


 とっさに返答したものの、二の句が告げない。


 なんて言えばいいんだ。まるでノープランだ。

 空白の時間。口を開こうと思っても開けない。


 わからない。わからない。わからない。


 でも、わからないことはわかった。


 ……自分に言い聞かせる。

 不条理に遭遇して不条理だと嘆いていたら不条理のうちに不条理に死ぬ。彼がそうだったように。

 

 廃人と化した、物言わぬジョシュアを想像した。


 だから。


「悪魔だと? 何をしに来た」


 ジョシュアとして会話をする。

 向こうが目的としているのはジョシュアであって俺ではない。


 つけ入る隙はそこにあると信じるほかなかった。


 知る由もないからという薄弱な根拠だけで。


「お困りのようでしたので、お力添えに」

「力添えだと? なにが……なにが力添えだ! 知ったような口を聞くな!」

「あらあら。落ち着いてくださいな」


 彼女は聖母のように目を細めた。

 コイツ。

 見え透いてんだよ……。


 お前が笑ったのは鋭角さが増した瞳孔を瞼で覆い隠すためでしかない。悦んでいるんだろ。

 見下して。彼を。俺を。


 手が震えてきた。恐怖からではない。

 強者に対する怒りからだ。

 ジョシュアと俺の。

 言ってやれ。


「俺は努力してきた! 弟よりもアイツよりも誰よりも! 負けたら屈辱で、いつか勝つことを夢見ながら努力してきた! 努力して努力して、どれだけ苦しくても努力して、必ず勝つと、才能などなくても勝てると信じながら努力してきたのだ! それをお前が、いや俺以外に否定などされてたまるか……!」


 怒りを込めた。悲しみを込めた。

 これはジョシュアにとっての譲れない一線だった。


 お前らにはわからないだろう、と。


 足掻き藻掻き信じ裏切られ、その末に信じるしかなかった男の想いなど。と。


「でも勝てなかった」

「ッ」

「いや、だからこそ、勝てなかったのです」


 たった一言で頭が冷えていく。その言葉はあまりにも的確に俺たちの心をえぐった。


 ひとりでできる努力なんて限られている。わかりきっていたことだ。がむしゃらに鍛錬しても、現実に活用している人物に評価されなければ実践的な修正はかなわないだろう。


 特にジョシュアにはそういった経験がなかった。


 あれをやっても上手くいかない。

 それをやっても結果が出ない。

 だからなにをやっても無意味だ。

 そう言われ育ってきた。


 浮上した感情は糸が切れた凧のように行き場を失って、しかし忘れようもない不快さだけを残して胸中を漂っていた。


 うなだれて、全身から力が抜けてゆく。

 納得してしまっていた。


「いまさらどうすればいいというのだ……。俺には誰もいない。誰も信用できない」

「だからこそです」


 絶望、無力、虚無。心が空っぽになって、すべてがどうでもよくなる。

 目の前の女が世界の中心になっていくような気がする。


 この悪魔だけが俺を救ってくれると思えてくる。


 もっとも。


 ──それはジョシュアの心に限った話、だが。


 俺は氷のように冷えていた。

 頭に来すぎて冷えていた。

 冷えて、観察していた。

 そして思い出そうとしていた。

 契約書。


 メフィストフェレスの目をみつめる。

 すがるような表情で。

 彼女はより目を細めた。


 勝手に本性を覆っていればいいさ。

 お前だけじゃないからな……。


「契約をいたしませんか?」


 お前がさっき言った通り『落ち着いた』。

 お前がそうさせたんだ。お前の言葉でな。

 だからいまから起こることはお前の責任だ。

 後悔しても知らねえぞ。



           ♢


 

 机を隔てて、向かい合って座っていた。

 説明はすでに終っている。

 契約内容についてまとめると。


『この契約を破ることはできない。


 メフィストフェレスは能力を使用し、ジョシュアを強化することができる。


 メフィストフェレスはジョシュアのことを傷つけることができない。


 ジョシュアはこの契約をいつでも破棄することができる。


 双方、この契約を他者に教えることはできない。』


 こんな感じだ。

 言われていない事項があるということを除けば、ジョシュアに有利すぎる契約としか思えない。


「これが契約書です」

「内容なんてどうでもいい。契約しろ」

「あら、ちゃんと読んでくださればいいのに」


 羊皮紙──なのだろうか──を手渡され、すこしだけ見て机に伏せる。


 少なくとも『エヴォルヴ・アカデミア』ゲーム内で一般的に使われている言語体系ではない。


 ……ハナから読ませる気なんてないだろうに。

 

 羊皮紙を翻して、机の上に転がっていた羽根ペンを右手に持つ。文字には目もくれず、それらしい空欄を筆先で指す。


「ここにサインすればいいのか?」

「あぁいえ、血判をしていただきます」

「……血判? 血が必要なのか」

「ええまあ悪魔ですから。悪魔らしく血液で契約したら箔が付くというものですよ」

「そうか……そうだろうか?」

「む。そういうものなのです。それに、契約には双方の魔力がなければ効力を発揮しません」

「どういう仕組みなんだ。ちょっと待て……それに、この文字はなんだ? 読めないじゃないか」


 そこで初めて文字に気が付いたかのように尋ねた。

 そこで初めて彼女は気が付いたかのように笑った。

 俺の頬を汗が伝う。

 

 ……教えろ。安心させたいだろう。


 メフィストフェレス。

 お前の至上とする悦びは、逃げ道やヒントをあえて振りまいて、目もくれず破滅に向かう愚か者を嗤うことだろう。悪魔だから。


 俺は不安だぞ……怯えている、警戒しているんだ。

 安心させて、思考停止状態にしたいだろう。

 俺は弱者だ。劣等感と猜疑心の塊。

 だから安心させろ。そしたらもう疑わない。


 欲をかけ。ボロを出せ。ミスをしろ。口を滑らせ。


 悪魔なんだから、強者なんだから。

 だからこそ油断しろ、メフィストフェレス。


 ──彼女は先ほどの沈黙などなかったとでも言わんばかりに、まったく平静のまま口を開いた。


「書いてあることに偽りはありません。信じてください。悪魔は嘘を言えません。これは絶対です。……不安がおありでしょうから仕組みについてお教えいたします。特別に。絶対に秘密にしてください。文字が赤黒くなっているでしょう。これはわたくしの血液でございます。これがわたくしの魔力媒介でして、ジョシュア様が指しておられるそこに血液を垂らせば、双方の魔力に反応いたします。わたくしが確認いたしましたら、内容通りに契約が完了する、というわけでございますね。仮に文字と判が逆だったとしても同じことです。大事なのは『血液』と『内容』……。悪魔の契約という概念はわたくしたちに生まれつき備わっている特殊能力、とでもいいましょうか、とにかく絶対的な力を持っております。こと契約については一切の嘘はつけません。あなた様もお分りでしょう。呼吸の理由を説明できますか? ともかく……」


 そこで言葉を切って、一言。


「信じてください。あなたを。わたくしを」

「わ、わかった」

 

 羽根ペンは右の太ももに乗せておいた。

 よく回る舌だな……。ぶっちゃけ引くほど回っていた。


 さて。


「ナイフを持ってくる」

「それには及びません。わたくしが持ってまいります」

「ベッド近くの棚にある。……人に、いや悪魔だが、これほど優しくしてもらったことはない」

「ふふ。でしたらわたくしたち、いい関係になれそうですわね」

「ハハッ……ありがとう」

 

 ありがとう。本当に。

 お前のおかげで乗り越えることができそうだ。


 メフィストフェレスは笑みを深めて、もはや目を瞑っているみたいだ。


 椅子から立ち上がり、緩慢な足取りで寝具に向かうさまはさながら千鳥足。


 振り返ることなく後ろ髪を揺らし、合間から覗かせる耳は真っ赤になっていた。


 笑いをこらえているようだ。こらえきれないのはこっちのほうだってのに。


 そうやって勝ち誇って幻想に酔ってりゃいい。

 でも俺の勝負はむしろここからなんだ。


 机の下。悟られないように、静かに羽根ペンを握った。


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